井上靖「しろばんば」の風景(その6)

下田への旅・洪作や村の転機

故郷を再訪するおぬい婆さんに付き添った洪作は、はじめての南伊豆への景色に感動します。また、山の中で椎茸栽培の研究に没頭する父方の祖父・を訪問し、仕事に対するひたむきな態度や人間性に感銘を受けました。ほかにもバスがやってくるという出来事があり、村はしばらくその話題で持ち切りになります。

おぬい婆さんとの南伊豆の旅

天城峠

秋のある日、おぬい婆さんは「婆ちゃは一晩泊りで下田へ行って来る」といいます。「おぬい婆さんにはっきりと追いを感ずるように」なっていた洪作は「おぬい婆さんの傍についていてやらないと心配になるものを感じ」、付き添っていくことにしました。

「修善寺とは反対の下田の方へ行く馬車に乗るのは勿論初めてであった」とあるように新鮮な風景を楽しめる旅となります。下は現在も当時の面影を残す国道414号旧道のストリートビューです。馬車が「杉木立の中の道を走り、それから峠の坂道をのろのろと上って行った」とのこと。ここでは「峠まではずっと上りなので、馬は苦しそうであった」という風景を想像してみます。

また、洪作は「馬車が天城峠に近づくと、洪作はさき子の葬式の日、幸夫たちとみんなでさき子から教わった唱歌を唄って、この同じ下田街道を歩いて行ったことを思い出し」ます(しろばんばの風景その5・参照)。そして「その時から二年の歳月が経って」いて、「自分はもう決してさき子と会うことはなく、さき子と自分の距離は刻一刻大きくなって行くだけなのだ・・・・・・こういうことが死というものなのだ」と感慨に浸りました。

隧道の先の世界

村人が「ずいどう」と呼ぶ「天城山隧道」は乗合馬車の休憩場所にもなっていました。洪作はトンネルの入り口付近から中の様子を観察し「峠のこのずいどうを境にして、こちらは田方郡であり、向こうは賀茂郡であった。洪作にはこの半月状に切り取られた賀茂郡の風景が、こちらのそれとはまるで違って、妙に生き生きとした新鮮なものに見えた」と感想を述べます。

下にはその天城山隧道の北側からのストリートビューを掲載しました。全長が445.5mもありますが平坦なため、南側の出口が小さく見えます。こちらのトンネルの入り口付近に、初めての南伊豆旅行に興奮を覚える洪作の姿を置いてみましょう。

湯ケ野温泉の風景

馬は天城山隧道までの上りは苦しそうでしたが「峠から道は下りになっていて、深い渓谷を絶えず右手に見下ろしながら、山裾に沿った折れ曲がった道を、馬は慣れた足つきで、あるところはゆるく、あるところは早く走っていた」とあります。

そして「馬車は湯ケ野という小さい温泉部落」に入ります。湯ヶ野部落はおぬい婆さんが「鍛冶屋の嫁っこと、車夫のおかねさんとこの嫁っこはこの村から来ている」といい「反対に辰さんとこの末っ子は、ここの菓子屋の総領のとこへ来とる」と乗合馬車の御者が返すように、交流の多いエリアでした。

ちなみに、湯ヶ野温泉は川端康成氏が伊豆旅行のときに宿泊した場所で、湯ヶ島温泉などとともに短編小説「伊豆の踊子」ゆかりの地となっています。当時から温泉地として有名でしたが、洪作は「湯ヶ野部落は湯ヶ島よりずっと家数が少なかった。家数が少ないということで洪作はなんとなく吻っとしたものを感じた」とあります。

下には昭和初期の湯ヶ野温泉の写真を引用しました。ここでは、のどかな温泉街の平坦な道を乗合馬車がテンポよく走り抜けていくシーンを想像してみましょう。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yugano_Onsen_in_Ealry_Showa_era.jpg

宿の子供と

下田に到着した洪作は、同年の宿の少年に連れられて舟を見に港へ行きます。「見るからにひよわな色の白い温和しい少年」で「きちんとした言葉を使い、驚くほどはきはきしていた」とあり、「洪作は自分は恐らく何をやってもこの少年には及ばないだろう」と感じました。

また、下田の街は「三島や沼津などに較べると、ずっと小さかったが、それでも洪作の眼には充分賑やかな都会に見えた」ともあります。下には大正時代の下田の写真を引用させていただきました。ここではこちらの写真のなかに洪作と宿の子供が仲良く歩く姿を置いてみます。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Central_Shimoda_in_Taisho_era.jpg

おぬい婆さんの故郷

次の日、朝早く起こされた洪作は、下田から馬車で一時間程のおぬい婆さんの生まれ故郷に向かいました。着いたのは「小さい入江を抱えた小さい漁村だった」とあります。ここでは馬車を降りた洪作とおぬい婆さんの会話を抜粋してみましょう。
洪作「ばあちゃ、ここで生れたの?」
おぬい婆さん「そうじゃ、でも、家はなくなっとる」
洪作「これからどこへ行くの?」
おぬい婆さん「どこぞへ行って洪ちゃに港を見せて上げよう」

そして、おぬい婆さんは知人や親戚の家を訪ねることなく「海を見降ろせる小高い丘へと上っていった」とあります。下には近年の下田漁港の写真を引用させていただきました。こちらの写真から「その小さい入江は大小の舟で埋まっていた。しかもどの舟も幟と旗で飾られてあった」という景色を想像し、「時折風に乗って」聞こえる「多勢の人の唄声や笑い声や叫び声」を聴いてみましょう。

丘の上にはこちらの風景を眺めながら蜜柑を食べる洪作とおぬい婆さんの姿があります。おぬい婆さんが「ここにこうしていると眠くなってしまうがな」というように、二人はのどかなひと時を過ごしました。

この一泊旅行については「洪作にとって、この下田行きは最初の旅らしい旅であった。豊橋の父母の許に帰る時には旅といった気持ちは湧かなかったが、この下田行きは、初めから終りまで旅らしいものであった」と結ばれています。

祖父・林太郎

ある秋の日、石守森之進の息子で洪作と同い年の従兄・唐平がやってきて、祖父・林太郎に会いに行こうと誘います。林太郎は「椎茸(しいたけ)伝習所」なるところで椎茸栽培を研究・伝承していました。

森の中にこもり「椎茸爺さん」とも呼ばれるという設定ですが、実際に井上靖氏の祖父・石渡秀雄氏は椎茸栽培の権威として知られた人物でした。下には石渡秀雄氏の「椎茸の作り方 : 実地指導」から原木の並べ方の図を引用させていただきました。

出典:石渡秀雄 著『椎茸の作り方 : 実地指導』,石渡秀雄,明45.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/842264 (参照 2024-01-05、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/842264/1/10

伝習所の粂さんという青年は「こういう榾木の並べ方を合掌式と言うんだ。あんたっちの祖父ちゃが発明した並べ方だ」と解説してくれました。下のように最近の原木栽培にも合掌式が採用されていて、効果的な栽培方法であったことがわかります。石渡秀雄氏もこちらの写真のような場所で若者の指導をしていたのでしょうか?

出典:Indiana jo, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cultivation_of_Shiitake_in_Hirogawara,_Kyoto.jpg

椎茸飯

険しい山道を乗り越えてやっと椎茸伝習所に到着した洪作たちは、林太郎爺さんから椎茸飯を振舞ってもらいます。詳細な記述はありませんが、下の写真のように贅沢に椎茸が入ったシンプルなものだったのではないでしょうか?肉厚の椎茸とその味の浸みたご飯の組み合わせが美味しそうです。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/28629829&title=%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E6%96%99%E7%90%86%E3%83%BB%E6%A4%8E%E8%8C%B8%E9%87%9C%E3%82%81%E3%81%97%EF%BC%88%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%89

将来の夢は?

椎茸栽培について詳しいことを教えてもらった後、久しぶりに林太郎と語った洪作は、「椎茸作りは自分が好きだからやっている」、「好きなことは人それぞれなので自分で選べばいい」などと語る祖父に感銘を受けます。

また、唐平が将来について
「おらあ、祖父ちゃんみたいに椎茸を作るか、父ちゃんみたいに先生になるか、まだ決めてないんだ。その二つのうちのどっちかをやることだけは決まっている」
と語る場面もあり、この小旅行は洪作が自分が何になるかを考えるきっかけになりました。

バスがやってきた

洪作にも転機が訪れつつありましたが、村の交通も転換期を迎え、主要交通手段だった馬車に加えて「バス」が新しく登場します。当時のバスはほとんどが輸入製で、下に引用させていただいたように、湯ヶ島に来たバスもチャンドラーという自動車メーカーのバスだったとのことです。

1916年に下田自動車がチャンドラー4台を使用して、天城峠経由で下田と大仁を結んだ路線の運行を開始したのが、それまで乗合馬車が主力の交通手段だった伊豆半島におけるバス事業のはじまりである。

出典:WIKIPEDIA、東海自動車
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A

また、下には大正から昭和初期にかけての小田原駅前のバス用車庫の写真を引用しました。ここではこのような乗り物が一台、湯ヶ島の村役場に展示され、大人から子どもまでが珍しそうに眺めるシーンをイメージしてみます。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fujiya_Motors_Odawara_Sta.jpg

乗合馬車とバス

新しいものがやってくると必ず抵抗にあうのが世の習いです。明治時代に登場したバスはライバルであった乗合馬車屋からのいやがらせが多かったとのこと。大正時代になって湯ヶ島に入ってきた時も似たような状況で「馬車はバスのために、容易なことでは道を譲らず、そんなことから喧嘩が絶えなかった」とあります。

下には昭和初期の映画「有りがたうさん」のワンシーンを引用させてただきました。大正末の川端康成「有難う」を原作とした映画で、主役の上原謙さんが天城街道の乗合バス運転手を演じられています。「有りがたうさん」とはこちらの作品の運転手のニックネームで、道を譲ってくれた馬車や人に「ありがとう」とあいさつすることに由来します。このような運転手が乗車していれば、争いも少しは減ったかもしれません。

出典:Shochiku, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ken_Uehara_and_Michiko_Kuwano_in_Arigato-san_(1936).jp

旅行などの情報

修善寺しいたけの里

林太郎爺さんが栽培していた場所は残っていませんが、伊豆では現在もしいたけ栽培が盛んにおこなわれています。「修善寺しいたけの里」は修善寺の温泉街からもほど近い、原木栽培のしいたけ狩りができる施設です。

採りたてのジューシーなしいたけをその場で食べられるバーベキューセットは、焼き鳥やおにぎりなども付いてお腹が一杯になります。しいたけをモチーフにしたTシャツなどのかわいいグッズも販売されているので、ドライブの立ち寄り場所としてもご利用ください。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市年川785-1
【アクセス】修善寺駅から東海バスを利用、年川で下車後徒歩で約10分
【参考URL】http://www.office-web.jp/shiitakenosato/

日本自動車博物館

石川県にある日本自動車博物館はレトロなバスを数多く展示するスポットです。1階には「大型トラック・バスの街」というコーナーが設けられ、日産(下に引用)やトヨタ、いすずなどのボンネットバスを同時に見ることができます。

ほかにも、クラシックカーを含む国産車・外車で合計約500台もの展示があり、見応え抜群です。ミュージアムショップではオリジナルミニカーなどのレアな商品も扱っているのでこちらもお見逃しなく。

出典:Kzaral, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Motorcar_Museum_of_Japan_(4042125947).jpg

基本情報

【住所】石川県小松市二ツ梨町一貫山40
【アクセス】加賀温泉駅からバスを利用。バス停・日本自動車博物館で下車
【参考URL】https://www.motorcar-museum.jp/

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