司馬遼太郎著「空海の風景」の景色(その1)

はじめに

司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などの歴史小説で今も人気の作家です。司馬氏自ら「この稿は小説である」と記述しているように、史実をもとにしながらも「(空海を)肉眼でみる」ために人間らしい空海が描かれています。日本だけでなく遣唐使に随行して中国にも渡ったスケールの大きな物語を追っていきましょう。

生まれは讃岐の国

空海の生まれたのは現在の香川県にある善通寺の境内と言われています。現在は四国八十八箇所の第七十五番札所となっていてお遍路さんで賑わうところ。境内には大クスが残っていて空海が生まれた時には既にあったとされています。まだ小さい空海(幼名・佐伯真魚)が「まいお(またはまお)」と呼ばれながらこの木の近くで遊ぶ姿を想像してみます。

空海の一族

空海という天才が生まれた理由として司馬氏は世界性を感じられる環境を挙げています。当時佐伯氏の本家の長であった佐伯今毛人(いまえみし)は東大寺建立の長として活躍。遣唐使にも任じられたほどの高級官僚でした(病気を理由に渡りませんでしたが)。また叔父の阿刀大足(あとのおおたり)も都で働いていて後に桓武天皇の子・伊予親王に学問を教えることになります。空海にも唐などの異国の情報が入っていました。下は佐伯今毛人が深くかかわった東大寺の大仏のお姿。若き空海はこのような華麗なる一族の一員だったことが分かります。

空海の学問はじめ

空海が学問を始めたのは15歳の時。讃岐国府にあった生徒定員30人ばかりの「聖堂」で寄宿しがら学んでいたとしています。讃岐の「聖堂」は当時としてはモダンな瓦屋根が葺かれた中国風の建物でした。下の写真は司馬氏も取材を兼ねて立ち寄ったと思われる「讃岐国府跡」の風景。今は畑に囲まれた静かな場所ですが空海の時代には広大な土居で囲まれ立派な建物が並ぶ繁華街でした。

都へ

空海は讃岐の聖堂で学んだ後、中央の大学の受験準備をすべく長岡京にいる叔父・阿刀大足に師事します。当時は桓武天皇が長岡京への移転を進めていた時期。平城京(奈良の都)はさびれ始めていました。空海が15歳から3年の間、論語や史伝などを学んだし長岡京は今ではほとんど痕跡をとどめていません。下の写真は大極殿跡に復元されたのぼり旗の支柱です。公的な儀式の際には多くの貴族や役人たちが控え、大極殿の上段にある御簾の中にいる桓武天皇を仰ぐ景色をイメージしてみます。

大学合格

空海は18歳の時に大学へ入学。司馬氏はこの時期の大学寮はまだ奈良にあったと想像されています。空海も奈良に移動し「明経科」に所属します。行政を学ぶ部門で周礼や春秋左氏伝、論語などの難しい書物を暗記するレベルまで叩き込まれます。普通の人ではパンクしてしまいそうですが空海は何食わぬ顔でこなしていました。むしろ余ったエネルギーで中国語のほか書も学んでいたのではと推測します。下の写真は復元された平城宮・朱雀門の姿です。ここでは18歳の「丸顔のやや小柄な」青年・空海が朱雀門前をふてぶてしい姿で歩く姿を想像してみます。

旅行の情報

善通寺

空海誕生の地と伝えられるお寺です。当時はこの地に空海の一族・佐伯家の邸宅がありました。特に西院御影堂の奥殿は空海の母の部屋があった場所とされ空海誕生の聖地とされています。こちらの地下空間を使った「戒壇巡り」をすると弘法大師・空海と縁が結べるとされています。
[住所] 香川県善通寺市善通寺町3-3-1
[電話] 0877-62-0111
[公式サイト]https://www.zentsuji.com/

平城宮跡

空海が大学生活を送った奈良の都の中心地。大学寮はこの周辺にあったと考えられ、一般の人も集まる朱雀門付近には空海も立ち寄ったと考えられます。現在は中に入り復元された第一次大極殿を観光することもできます。殿内には天皇が座る高御座(たかみくら)も再現。雅な雰囲気に浸ることができます。
[住所] 奈良県奈良市佐紀町
[電話] 0742-30-6753(奈良文化財研究所)
[公式サイト]https://www.heijo-park.go.jp/