司馬遼太郎著「空海の風景」の景色(その2)

大学を中退

空海の姿

小説でイメージされている大学時代の空海の姿は「丸顔で中肉、肩の肉が厚く、重心がさがっているために両足ががに股」な「脂っけがねばっこく、異常な精気を感じさせる」と、清らかな貴公子という印象からは遠い印象。下の写真のような生き生きとした木造からイメージできるでしょうか?

三教指帰(さんごうしいき)

大学を辞めるにあたり空海は「三教指帰」なる戯曲を書きます。空海の出家宣言ともいわれている書。主人公の「仮名乞児(かめいこつじ)」に空海自らを託し、親類をモデルにした放蕩息子の「蛭牙公子 (しつがこうし)」を仏道に導くというもの。 儒教や道教と比較し仏教が最も優れているとの結論に導いています。戯曲に登場する儒教の権威「亀毛先生」のモデルは叔父の阿刀大足であり、空海はこの書を通じて出家を否定し「大学から官吏へ」という一般的な出世栄達の道を勧める大足への反論をしています。高野山の金剛峯寺には空海直筆と伝えらえる「三教指帰(原題・聾瞽指帰)」が保管されています。特別企画展などで不定期に展示されることも。文字から青年・空海の反骨精神が感じられるかもしれません。

インド的世界の体験

空海の実家・佐伯氏ゆかりの「佐伯院」に隣接した「大安寺」は奈良の都で南大寺ともよばれた大きな官寺でした。鑑真(がんじん)などの唐の高僧だけでなく奈良の大仏開眼に関わった菩提仙那(ぼだいせんな)などのインド僧も住んだことがあるところ。ここで唐以外の文化も学ぶことができたのではと司馬氏は推測しています。 史伝などの具体性を好む(儒教的)唐文化と真理や抽象性を追求する(仏教的)インド文化の違いに触れた空海は引き裂かれるような思いを抱きます。下の写真は大安寺の東塔跡の引用写真です。インドの「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」を間接的に模擬した設計となっており、東塔の他に西塔や金堂、講堂などが立ち並んでいました(現在の大安寺は少し西側に再建されています)。ここでは立派な東塔の付近をややいら立ちながら歩く空海の姿を想像することにします。

修行の毎日

大学を辞めたものの正式に得度をせず食を乞いながら生活する「私度(しど)僧」となった空海。以後7年間は空海の弟子がまとめた「御遺告(ごゆいごう)」にもあまり情報がありません。それだけに小説・空海が自由に描ける期間。 学生の頃、大安寺に縁のある私度僧から伝授されたインドの記憶術「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修行をします。ある真言(マントラ)をある場所で一定の時間内に百万遍唱えるというもの。空海は「ある場所=宇宙の意思が降りやすい」ところを求め修行場所を点々とします。下の引用写真は山伏(やまぶし)の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの行場。葛城(かつらぎ)山の一帯にある「不動山の巨石」です。都にも近く青年・空海が必死に修行をする姿を想像することができます。

近畿周辺で修行を続ける空海でしたが結果がなかなか出ません。新しい行場として彼の脳裏に浮かんだのは故郷の四国でした。

旅行の情報

大安寺

空海がインドや唐の文化に触れた重要な場所として登場します。戦災や地震などにより現在は場所を移動していますが「がん封じ」などにご利益があることで有名。下のような「だるまみくじ」も可愛いと評判です。周辺には「塔跡」や「境内跡」などの遺跡があり空海の時代を偲びながらの散策を楽しめます。
【住所】奈良県奈良市大安寺2-18-1
【電話】0742-61-6312
【参考サイト】http://www.daianji.or.jp/

不動山の巨石

空海が修行の初期に足を運んだ可能性の高いスポット。大和葛城山や金剛山などの山岳エリアは当時から知られていた有名な行場でした。有名なのが一言主(ひとことぬし)神の伝説。役行者が金峯山への橋を架けるように命じますが醜い顔を恥じて夜しか作業をしなかったため石を集めるだけにとどまりました。風穴の近くで耳を澄ませると「紀の川の流れる音」や「あの世の音」が聞こえるとも!行場に続く635段の階段はハイキングコースとして整備されています。行場からの展望は絶景。迂回ルートもご利用ください。
【住所】和歌山県橋本市杉尾
【電話】0736-33-1111(橋本市総合政策部)
【参考サイト】http://www.city.hashimoto.lg.jp/hashimototaikan/miru/spot/1464570950313.html