司馬遼太郎著「空海の風景」の景色(その9)

密教の論理化

最澄の「将来目録」

空海よりも1年も前に帰国した最澄は持ち帰った経典の目録を朝廷に提出します(将来目録)。渡唐の目的だった天台宗の経典の他、密教の経典も少しだけ交じっていました。実は日本への船待ちが発生した際、越州(今の紹興)の龍興寺・順暁(じゅんぎょう)から密教を相伝されました。経典を写しや法具類もいくらか授与されます。当時、日本にも密教についてのうわさが広がり始めていて朝廷は天台宗よりもこちらに興味を示します。下に引用させていただきたツイッター画像の左上が最澄の書・将来目録です。右にある空海の聾瞽指帰(三教指帰)と比べると柔らかな細い筆跡が特徴。人柄まで伺えそうです。

博多に待機

九州に戻った空海は驚愕の事実を知ります。空海の帰国前、密教に魅せられた桓武天皇は最澄の密教を流布するため高雄山寺で灌頂(かんじょう)を実施させたとのこと。空海が請来した正統密教とは違い最澄が持ち帰った密教は傍流でしたが当時は本人たちも含め理解していなかったようです。ともあれ最澄はこのようにして朝廷から密教の第一人者としても認められることになります。到着後、空海とともに鴻臚館に宿泊していた橘逸勢(たちばなのはやなり)などは「最澄のような男がまかり通るならば世の中は闇である」などと身を震わせて悲憤したであろうと司馬氏はいいます。下には鴻臚館跡の写真を引用させていただきました。当時、この場所では毎日のように逸勢の怒声が聞こえたかもしれません。

御請来目録を提出

空海は朝廷に持ち帰った経典などのリスト・御請来目録を提出しますが帰国した一行が上京しても一人だけ九州に残ります。留学生としての20年間の義務を2年で切り上げたことの調査もありますが、朝廷は「密教の伝法者が2人も出現したことに、当惑したに違いない」と述べています。寺の最高機関である「僧綱所(そうごうしょ)」は下に引用させていただいた「御請来目録」と最澄の「将来目録」を比較。中国での恵果や順暁の地位なども調査した結果、空海が正統であるとの結論に達します。

空しく往きて満ちて帰る

朝廷からは「空しく往きて満ちて帰る」なる空海に対しての称賛の沙汰があったとも!当時、空海は博多の観世音寺で生活していたと考えられています。下に引用したのは当時からあったであろう飛鳥時代製作の梵鐘です。ここでは、密教の正嫡として国から認められたことにほっとしながらこの鐘の音を聴く空海の姿を想像してみます。

槇尾山寺(施福寺)

博多を離れた空海ですがすぐに都には入らず、大阪にある槇尾山寺(現在の施福寺)に向かいます。目的は膨大な量の経典の整理と密教の論理化でした。下に引用させていただいたのは施福寺参道の写真です。現在でも参道は険しい山道が続くところ。「歩きながらものを考える」傾向のある空海が何か難しいことをつぶやきながら通り過ぎたであろう当時の雰囲気が残っています。

両部不二

空海が槇尾山にとどまった2年ほどの間、最も集中して取り組んだのが「金剛頂経系」と「大日経系」の2つの密教を矛盾なく論理化することでした。これは師匠である恵果が直観的に感じていてもできなかったこと。「汝がやれ。両部が一つであることの作業を」と空海にささやいていたとも推測されています。こうして、空海はまじないの寄せ集めだった密教(雑密)を「くるいのない結晶体としてつくりあげ」ます。そのころ朝廷から空海に対して京の高雄山寺への移動命令が下ります。この寺は最澄が天台宗の講義や密教灌頂などを実施した因縁の寺。そこには政治的な思惑が働いていたと司馬氏はいいます。

上で引用させていただいたのは高雄山寺(現神護寺)の参道です。ここでは奈良仏教や最澄などの思惑については「なにも知らぬ体で高雄山寺に入り」る空海の姿を想像してみます。次回は密教の体系化を成し遂げた空海に思わぬ活躍の機会がやってきます。お楽しみに。

旅行の情報

施福寺

空海が2年も過ごすことになる施福寺(槇尾山寺)は槇尾山の山腹にあります。駐車場からは徒歩40分ほどの険しい坂道です。西国三十三所の第4番札所で巡礼者でも賑わいます。渡唐前に空海が剃髪や得度をした場所としても有名。当時の建物は残っていませんが周辺の自然は昔のままです。鳥のさえずりを聴き、花々の香りに包まれていると空海当時の雰囲気に浸れるかもしれません。
【住所】大阪府和泉市槙尾山町136
【電話】0725-92-2332
【参考サイト】https://osaka-info.jp/page/sefukuji