司馬遼太郎著「空海の風景」の景色(その10)

不空に倣う

不空三蔵

不空三蔵は直接の師・恵果の師匠だった人です。北インドの身分の高い家に生まれ長安でインド僧から密教を学んだとされます。さらに「大師(空海)は不空のうまれかわりである」といる思想が弟子たちの間で伝承されてきました。空海の誕生日が不空の命日と一致していることも根拠の一つ。空海本人も当時、伝説となっていた怪人・不空の行動力や手法に惹かれ「事歴をまねようとしたのでは」と司馬氏はいいます。下にはラクダ観光の綺麗な写真を引用させていただきました。不空は隊商の中で少年時代を過ごしたとあります。故郷インドと中国との間で彼もこのような風景を見ていたのではないでしょうか?

不空は玄宗皇帝の時代、「安禄山(あんろくざん)の乱」の戦乱のなか長安に乗り込み反乱軍を鎮圧する修法を実施します。乱の首謀者である安禄山は内部争いによって排除され玄宗皇帝もその効果に感動したといいます。下に引用させていただいたのは楊貴妃のお墓の写真です。この戦乱は楊貴妃の又従兄・楊国忠と(楊貴妃と)養子縁組をした安禄山との争いが発端となったもの。部下から迫られ玄宗皇帝も楊貴妃の処刑を許容せざるを得ませんでした。後々まで悔やみ葬った後も彼女の肖像を毎日のように眺めていたとも伝えられています。

嵯峨天皇

空海が高雄山寺に移動した当時の天皇は嵯峨天皇。密教の正嫡としてだけでなく「唐の皇帝が空海の書の才を珍重し、五筆和尚とまで尊称した・・」などの空海のうわさを聞きつけた天皇はその書を屏風に仕立てることを所望します。これが空海と嵯峨天皇との交流の始まりです。次第に2人の関係は友人のようになっていったようです。下に引用させていただいたのはその嵯峨天皇の肖像です。文学に通じ、天皇自身も空海・橘逸勢とならんで三筆とされる書の名人。空海が献上した屏風の文字を目にした天皇はそれを満足気に眺めたことでしょう。一方その当時、抜き差しならない事態が嵯峨天皇の心を苦しめていました。

薬子の変(平城太上天皇の変)

嵯峨天皇が悩まされているのは実の兄である平城上皇の動きでした。天皇としては三年も在位せずに嵯峨天皇に譲ってしまいますが原因は重症の神経症でした。退位して奈良に転居した平城上皇は元気を取り戻し都を京都から奈良に戻すとの詔をだします。これらの活動の陰にはその妻(元皇后)である藤原薬子(くすこ)の影響が強かったとされます。東国に活路を見出し天皇と一線交えようとした上皇でしたが関所は封鎖されあっけなく奈良に逃走。上皇は剃髪し薬子は毒をのんで幕を閉じます。下に引用させていただいたのは奈良市にある平城天皇陵の写真です。事件後も上皇は身分を保証され平穏な死を迎えます。悪女との評価が多い薬子ですが本当はどのような人物だったかは今も評価が分かれています。

空海の上奏文

事件が収まるとすぐに空海は嵯峨天皇に密教儀式をしたいとの上奏分を提出します。平城上皇を「玄宗皇帝」に藤原薬子を「楊貴妃」に薬子の変を「安禄山の乱」と見立てかつての不空の修法に倣ったように思えると司馬氏はいいます。空海は密教が国の乱れを治める効果があることを明言。修法中の 「六年間は高雄山から出ない」とも宣言します。嵯峨天皇はその決意に感動し費用の一部を負担するなどしてそれに答えます。修法は西暦810年(弘仁元年)の秋に開始されます。高雄山周辺では当時も美しい紅葉が見られたかもしれません。この出来事は空海の密教が世に広がる要因の一つとなります。

日本でも密教の第一人者という地位を確立しつつある空海。次はいよいよ最澄との出会いが待っています。次回もお楽しみに。

旅行の情報

平城天皇陵

桓武天皇の後を継いで天皇になりますが三年ほどで退位。その後、弟・嵯峨天皇に対し謀反を企てたとされます。お墓は事件後も平城が上皇として住み続けた奈良の都・平城宮跡のすぐそばにあります。周辺には孝謙天皇などのお墓もある古墳の多いエリアとして知られています。
【住所】奈良県奈良市佐紀町
【アクセス】 近鉄・大和西大寺駅からバスを利用。平城宮跡で下車
【参考サイト】https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/051/index.html