司馬遼太郎著「空海の風景」の景色(その11)

最澄との出会いと決裂

乙訓(おとくに)寺へ

空海は嵯峨天皇からの命令を受けて京都にある乙訓寺の管理を任されることになります。書の友人でもある空海に近くにいてほしいとの理由が大きかったと司馬氏はいいます。また、桓武天皇の実弟で謀反の罪に問われた早良(さわら)親王が幽閉されたいわく付きの場所で当時は既に廃れ始めていました。最初に空海が行ったのは寺の管理を取りまとめる僧綱所に修理を依頼することでした。そんな乙訓寺ですが空海の目を楽しませてくれるものもありました。それが柑子(こうじ)というミカンの古来腫。当時は人気の果物だったようでこれを嵯峨天皇に献上したという文書も残っています。下に引用させていただいたのは今も残る乙訓寺の「柑橘樹」の写真です。ここでは空海が木から柑子をもぎとり美味しそうにかじる姿を想像してみます。

最澄の訪問

共に唐に渡り仏教の研究をしてきた空海と最澄ですが実際には顔を突き合わせて話したことはありませんでした。それがこの乙訓寺で実現します。「信じがたいことだが、両人が地上で相会ったのは、これが最初であった」といいます。柑子の実が黄金色に輝く秋に最澄はこの寺を訪れます。僧としても年齢でも最澄のほうが先輩のため寺の外まで出て出迎えかもしれないとのこと。出迎えた空海に対して丁寧なあいさつをする最澄の姿が目に浮かぶようです。下に引用させていただいたのは乙訓寺の本堂です。建物は当時のものとは違いますがこの付近で親し気に話す最澄と空海の姿を想像してみます。

最澄と空海

最澄はその日、乙訓寺に一泊させてもらいます。最澄の性格を考えると長々と世間話などはせず、いきなり空海に対して「私の密教ははなはだ欠けている。それを満たさせていただくわけには参らぬでしょうか」といったのではと司馬氏は想像します。実際に最澄自身も「いまだ真言法を学ばず」といったことを書き残しているとのこと。「自分が考えていた最澄と、目の前の最澄はずいぶん違う」とその謙虚さに空海も感動します。更に最澄は(空海から)密教を学び灌頂(密教の法を受ける儀式)を受けることを申し出、空海はそれを了承します。空海はその後すぐに乙訓寺での職を辞し再び高雄山寺に戻ります。最澄もその後を追うようにして高雄山寺内で部屋を借りて住み込み空海から密教を学びます。下には現在の神護寺の景色を引用させていただきました。この景色のような山中で最澄と空海が数か月、同じ寺内で過ごしていました。ここでは敷地内を仲良さそうに歩く二人の姿をイメージしてみます。

最澄・比叡山へ戻る

数か月で密教の全てを受けられると考えた最澄の認識は甘く、徐々に空海とのすれ違いがおきます。長期間、比叡山を留守にできない最澄は本人の代わりに弟子を高雄山寺に派遣し密教を学ばせるという便法を考えます。そして直接空海から学ぶことを中断し、借用した経典を読んで密教を理解する「筆授」なる手法をとります。一方、密教は師匠から直接の伝授以外はありえないといる立場をとる空海。二人の距離はますます広がっていくことになります。下は比叡山延暦寺の根本中堂付近の景色です。ここでは、唐から持ち帰った天台宗の経典をまとめながらも密教を学び、奈良仏教との闘いにもあけくれる最澄の忙しい姿を想像してみます。

最澄の書

最澄と空海のストーリーはこの小説でもメインの下りになるので詳述は避け、最後に二人の書をご紹介します。先ずは最澄の書状「久隔帖(きゅうかくじょう)」です。最澄から空海へ送った直筆文とされます。「自分の書はただ字形にあやまりなからんことを思うのみ」と最澄自身がいうように「書を芸術とは見ず」、「自己顕示の一手段にしようという意識はなく」、 「一字一字によほど長い時間をかけていたような気配がある」と司馬氏はいいます。以前、空海が送った詩文に対してある文の意味を教えてほしいという生真面目な内容とのこと。この優雅な書体を眺めながら「最澄がそこに生きてうずくまっているような感じさえする」という小説内の風景をそのままイメージしてみます。

空海の書

一方の空海が最澄に送った書状は風信帖といわれます。久隔帖と同じく当時の日本で一般的だった王羲之(おうぎし)流の書法です。オーソドックスな書体ですが大きさや太さに変化をだしているのが空海のこの書の特徴とされます。

相手や場面に応じて書体を変えるのも空海の得意とするところでした。下は飛白体なる当時としては最先端のスタイルを採用した伝空海の書です。文字の中に絵が描かれるなど遊び心があります。当時の全ての書体を自在に使った空海の書は型にはまらず当時の書の権威も「空海はいったいどこにいるのか」と首をひねったとのことです。「空海の書は、霊気を宿すといわれる」とのこと。下の書からも何かを感じとれるのではないでしょうか?

旅行の情報

乙訓寺

空海が住職を務めた寺として登場します。聖徳太子が開山した由緒あるお寺ですが早良親王の幽閉の現場でもあり空海が入った時には荒れていました。わずか1年ほどの滞在になりますが天皇にミカンを贈り最澄と初めて顔を合わせるなどのエピソードの多い場所となっています。現在ではボタンの名所としても有名。4月下旬には下に引用させていただいたような美しい景色を見ることができます。
【住所】京都府長岡京市今里三丁目14-7 乙訓寺
【電話】075-951-5759
【アクセス】阪急・長岡天神駅からバスを利用、薬師堂で下車
【参考サイト】http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/