井上靖「夏草冬濤」の風景(その4)

沼津で二つの家を訪問

中学三年も後半になり、洪作は沼津にある唯一軒の親戚・かみきを訪ねます。小学校時代(しろばんばの風景その5・参照)以来会っていなかったかみきの姉妹たちは美しく成長し、周辺の男子生徒からも話題になっていました。また、成績不振などを憂慮した母たちは洪作を沼津のお寺に下宿させることを計画し、祖父とともに下見に行くことになります。

親戚を訪問

魚町周辺の風景

11月頃、洪作は母方の親戚である「かみき」なる屋号の家に、遅ればせながら転校の挨拶に行くことになりました。行くのが億劫になっていたのは、わがままな二人姉妹や横柄な小父さんなどがいて「この没落しかかっている大きい商家の家風が、洪作などにはなじめないものであったから」でした。

中学校からの道のりは「藤尾の家だという紐問屋の角を、駅とは反対の方角に曲がる。かみきはそれから五、六軒目にあった」とあります。インターネットから得た情報によると、かみきの家はストリートビューの中央部付近にあったようです。

また、「かみきの家はその魚町の表通りに面していた。間口の広い商家風の構えではあったが、現在は何も商売していなかった。一時は沼津で一番大きい呉服問屋で、その名前は伊豆半島一帯に聞こえていた」ともあります。

下には大正時代の魚町付近の写真を引用しました。沼津丸子浅間神社の造営時の記念写真帖とのこと。ここでは右側の二階建ての立派な建物をかみきの家と見立て、洪作が「こんにちは」といって入っていく様子をイメージしてみましょう。

出典:大庭俊郎 撮影『県社丸子神社郷社浅間神社御造営宗典記念写真帖』,至誠堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/917023 (参照 2024-01-17、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/917023/1/17

英語の宿題

一通り挨拶をすませて帰ろうとしますが、小母さんが「洪作さんに宿題を見ておもらいなさいよ」というと蘭子は「よおし」といって「教科書とノートを持って」やってきます。

蘭子は以下の会話のように高飛車な態度のため、洪作は宿題をやってやろうという気になれません。
蘭子「これ、やって貰おうかしら」
洪作「できないよ、僕は」
蘭子「あら、できないの?洪作さん、三年生なんでしょ。女学校は中学校よりずっと程度がひくいの。おまけに一年生の宿題よ。できないなんてことはないと思うわ」
といってノートの切れ端を渡し、問題を読み上げます。
蘭子「・・・三題目は、秋ニナルト木ノ葉ガ落チマス」
蘭子「できたら、本の間に挟んでおいて頂戴」
そういって蘭子は外に出かけてしまいました。

下には大正時代の英文法の教科書を引用しました。少し文字が小さいですが英訳の問題に
「1.秋にはこの樹の葉は落ちます」という蘭子が出したのと似た問題があります。

出典:国立教育政策研究所教育図書館・近代教科書デジタルアーカイブ(一部加工)
https://nieropac.nier.go.jp/lib/database/KINDAI/EG20085163/?lang=0&mode=1&opkey=R170555244386811&idx=13&codeno=&fc_val=

傍若無人な蘭子の態度に洪作は腹を立てますが、ノートの切れ端に英文を書きつけて教科書にはさみ「かみき」を辞しました。

以下に引用したのは大正時代の女学校用英語読本の一例です。ここでは洪作がいらいらしながらも、かわいい挿絵のあるページの間にノートの切れ端を投げ入れているシーンを想像してみましょう。

出典:国立教育政策研究所教育図書館・近代教科書デジタルアーカイブ(一部加工)
https://nieropac.nier.go.jp/lib/database/KINDAI/EG20085390/?lang=0&mode=1&opkey=R170555265879654&idx=311&codeno=&fc_val=

蘭子が美人で有名?

「かみき」から家に帰る途中、洪作は塚越という同級生に出会いました。塚越に親戚の「かみき」に行っていたというと、蘭子によろしく言ってくれとのこと。続いて以下のような会話が続きます。
洪作「あいつ、嫌いだ、俺」
塚越「どうして嫌いなんだ?」
洪作「意地が悪いからさ。それに学校もできないよ。俺、いま英作文の宿題やって来てやった。女学校って、凄く程度が低いんだが、それでもできやがらん」
塚越「宿題をやってやったのか。お前、蘭ちゃんの宿題やったのか。凄えな。そうか、たまげちゃったな。・・・・・・可愛らしいし、できるんで、有名だった」
洪作「きれいかな、あれ」
塚越「きれいさ、大きくなったら女優になるに決まってる。みんな言ってる」
洪作「妹のれい子というの、知ってるか」
塚越「知ってる。・・・・・・運動は何してもうまいよ。真っ黒い顔していて、やせっぽちなくせに、とてもすばしっこいんだ。学校はできんと思うな。できる筈がないよ」

このように「姉の蘭子だけを礼賛して、妹のれい子には邪慳(じゃけん)だった」とのこと。なお、蘭子の父も姉だけを可愛がっているとのうわさがあり、前作「しろばんば」ではビール壜に付いてくる芸者の写真を見て「沼津ではこの妓が一番べっぴんで、二番目はうちの蘭子だ」という場面もあります。

下には参考のため、「沼津の栞(大正5年版)」から当時の沼津の芸者さんの写真を引用させていただきました。

出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-01-18、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182/1/112

増田と小林を連れて

三島に帰りながら「蘭子のような少女をきれいだと言うのだとしたら、洪作は自分が今まで考えていた美人というものは大分違ったもの」としながらも、「れい子の顔が浮かんでくると、洪作はやっぱりこの方が可愛いのに」と思います。そして「増田と小林の二人に、蘭子とれい子を見せて、どちらが本当にきれいか、彼らの意見を訊いてみよう」と考えた洪作は二人をかみきの家に連れて行くことにしました。

洪作が考えていた美人の基準がどのようなものだったかは不明ですが、以下には大正三大美人の一人とされた柳原白蓮さんの写真を引用させていただきます。

出典:白蓮関連書籍, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yanagiwara_Byakuren.jpg

結局、二人はれい子には会えませんでしたが、御成橋のところで偶然蘭子と出会い、少し言葉を交わします。同世代の女性とあまり面識のない増田たちは、顔を赤くしたり青くしたりしていました。以下は帰る途中での三人の会話です。
増田「なんだ、あんなあまっこ。きれいなもんか・・・・・・俺、損しちゃった!洪作のあとへなどといて行って!・・・・・・あいつ、不良だぞ。お前、いまに誘惑されるぞ」
洪作「不良なもんか」
小林「(増田に対して)お前、豪そうなことを言っているが、なぜ、そのことを蘭子の前で言わなかったんだ。顔を真っ赤にして、下ばかり向いていたじゃないか」
増田「なに!」

蘭子に会ったことは「洪作にとって事件であるばかりでなく、小林や増田にとっても、同じようにやはり一つの事件であるらしかった」あります。このあとしばらくは、登下校の際に蘭子の話題が続くことになりました。

祖父が訪問

寺に預けられる?

年も押し迫ってきたころ、祖父の文太が急に三島の洪作の下宿(伯母の家)を訪れます。成績が思わしくない洪作を心配した母が伯母や祖父などと相談し、中学に近い沼津の寺に預かってもらうことにしたとのこと。文太の用件はその寺の下見をすることでした。

普段、徒歩通学の洪作ですがこの時は祖父とともに電車に乗ります。下に引用させていただいたのは路面電車が三島広小路駅付近を走る写真です。ここでは電車の中で、以下のような会話がされているところを想像してみましょう。
文太「いつも、この電車に乗って、学校へ通っているんだな」
洪作「ううん、歩いている」
文太「ばかな奴だ。そんなことするから、成績が下がるのだ。考えてみなさい。一里以上の道を、朝に晩に歩く奴がどこにある。そんなことをするから、大切な鞄など失くしてしまうのだ―――こんど、寺にはいれば、それだけでも違う」

沼津の繁華街

「沼津の街にはいったところで電車を降りると、洪作は祖父と並んで、表通りを海の方へ歩いていった」とあります。「賑やかなもんだな」と感心する文太に、洪作は弁当箱や大きな鞄、靴などをおねだりしますが、買ってもらえません。

下には大正時代の沼津・追手門通り(現・大手門通り)の写真を引用させていただきました。手前側が海方面、道路中央に見えるのは路面電車でしょうか。ここでは、文太が左右を珍しそうに眺めるところや、洪作のおねだりに対し苦虫を噛みつぶしたような表情をしているところをイメージしてみます。

出典:平山岩太郎 編『沼津の栞 : 附・三島近傍案内』,蘭契社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/946182 (参照 2024-01-19、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/946182

妙高寺

妙高寺の門の前にくるとに文太は「いい寺じゃがな。お前には勿体(もったい)ない」とのこと。また寺の中は「千坪以上はあろうと思われる寺域はきれいに掃ききよめられてあった。塵一つ落ちていない。右手に庫裡と本堂があって、本堂の横手に鐘楼が見えている」などとあります。

下には妙高寺のモデルで、実際に井上靖氏が下宿をしていた妙覚寺のストリートビューを引用しました。門の前に佇んだ洪作が「俺、嫌だな、こんなところから学校へ通うのは」とすでに引き気味になっているところを想像してみましょう。

郁子

お師匠さん(住職)に本堂を見てくるように言われた洪作が行ってみると「ひどく体格のいい二十歳くらいの娘が、本堂の隅に置いてあるオルガンに対(む)かって」います。その郁子という寺の娘との会話を抜粋してみましょう。
郁子「だれ?あんた」
洪作「坊さんが本堂を見て来いといったんです」
郁子「坊さんなんて言うもんじゃないの。お師匠さんと言いなさい、お師匠さんと」
郁子「あれ、あんたか、うちへ来たいと言ってるのは」
洪作「そうです」
郁子「来る時は覚悟して来なさい。ここは禅宗のお寺だから、きびしいわよ。ぐだぐだする子はきらいよ。勉強もし、運動もし、本堂のお掃除も手伝いなさい」

姉御肌の郁子に圧倒された上に、寺にくると「本堂の雑巾がけ、水汲み、おソッサマ(お祖師様=日蓮上人)に膳を膳を運ぶ仕事」などが課されると知った洪作は、ますます寺に下宿するのがいやになります。下には最近の妙覚寺本堂の写真を引用させていただきました。洪作の頃とは建物は代替わりしていますが、こちらの奥の方にピアノを置き、郁子と洪作が会話をしているシーンをイメージしてみます。

やはり寺に預けられる?

冬休みに入る前に通信簿を渡されますが「八十点以上は国語一つ、あとは全部七十点台である。落第点である四十点以下もなかった替りに九十点台もなかった」とあり、洪作のクラスでの順位は十二、三番ほど下がっていました。

当時の通信簿の評価は下の資料によると「甲乙丙」の三段階評価が多かったようですが、沼津中学は百点満点で評価し、クラスでの順位も記入されていたようです。

明治24年「小学校教則大綱」の説明書
 点数法による成績表記は「細密ノ学業ノ優劣ヲ評スルニ適スル」が、弊害も多いから、「成績ヲ評スルニハ成ルヘク適当ナル語ヲ用ヒ」るよう提案したことです。そのさい、「点数若クハ上中下等比較的ノ意味ヲ有スルモノ」を使ってはならないと注意しています。(中略)これを転機にして、成績表記にあたっては、点数法の代りに、甲乙丙という三段階でつけるように、だんだん変わっていきました。

出典:レファレンス共同データベースより「小沢有作「私の学力評価論:教育における能力主義とはなにか」(人文学報.教育学(26):1-53 1991.1.10 )の説明文」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000189877

下には大正時代の尋常高等小学校が発行した通信簿の型紙を引用させていただきました。ここでは七十点台の数字をこちらに書き加え「通信簿を開いた時は、自分の目を疑った」と記述もある洪作の少し青い顔を思い浮かべてみます。

一緒に通学する増田や小林にも順位を抜かれ暗い気持ちになった洪作でしたが、次の日から冬休みになるという開放感や、郷里の湯ヶ島に帰省できるという楽しさのために不快さは長く続かなかったとあります。

出典:『誠のかがみ』,和歌浦尋常高等小学校,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/913306 (参照 2024-01-22、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/913306/1/8

旅行の情報

妙覚寺

洪作が祖父・文太に連れられて下宿のお願いにいった妙高寺のモデルです。第二次大戦の空襲で本堂などは焼けてしまいましたが鐘楼は当時の姿をとどめています。こちらの鐘楼については、小説中にも「ここには鐘楼があって、大きな釣鐘が下がっている」との記述があり、文太が鐘をつく仕事は「お前(洪作)の仕事に丁度いい」という場面もあります。

また、境内には下に引用させていただいたような井上靖氏の文学碑も設置されています。こちらで一緒に遊んだ藤井寿雄氏(=藤尾のモデル)や岐部豪治氏(=木部)、露木豊氏(=餅󠄀田)、金井廣氏(=金枝)の歌も刻まれていて「夏草冬濤」の世界に浸ることができるでしょう。下には中央に刻まれている井上靖氏の詩を引用しておきます。
「思うどち 遊び惚けぬ そのかみの 香貫 我入道 港町 夏は夏草 冬は冬濤」

基本情報

【住所】静岡県沼津市志下530
【アクセス】沼津駅から徒歩約25分
【参考サイト】https://www.city.numazu.shizuoka.jp/