井上靖「夏草冬濤」の風景(その5)

湯ヶ島への帰省

中学三年の冬休み、洪作は久しぶりに湯ヶ島に帰省します。祖父母の住む「上の家」を拠点にし、門野原の伯父の家に宿泊したり、湯ヶ島の温泉旅館で母と正月を過ごしている一ノ瀬洋三を訪ねたりしました。また、湯ヶ島の子供たちを連れて山のすべり台に行き、小学生時代には楽しみだった正月行事「どんどん焼き」にも参加しますが・・・・・・

湯ヶ島への帰路

三島の駅で「待合室のベンチに腰を降ろしていると、やはり三島から通学している一年生が母親と一緒に入ってきた。色の白い内気そうな少年で、洪作はよく顔を合わせたが、言葉を交わしたことはなかった」とあります。

「母親は見るからに良家の主婦といった感じのひとで、子供に似て色白で上品だった」とも。「わたしたちは湯ヶ島でお正月をしますのよ。伊豆楼という旅館があるでしょう。そこに行くの」とのことでした。

出典:高松吉太郎『日本の電車 写真で見る電車の70年』(鉄道図書刊行会、1964年), Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mishima-machi_Station_SL.jpg

上には当時、大仁まで行く軽便鉄道の起点となっていた三島町駅(現・三島田町駅)の写真を引用しました。ここでは駅のホームに少年(一ノ瀬洋三という名前)と洪作の荷物を持ってくれる少年の母親、そのうしろに洪作の姿を置いてみましょう。

洋三に「お連れができてよかったはね」と母親がいいますが「洪作は甚だ迷惑だった。こんな良家の母子らしい道連れは、相なるべくはごめん蒙りたかった」と思います。

大仁でバスに乗りかえ

軽便鉄道の終点であった大仁からはバスに乗りかえて湯ヶ島へ向かいます。下に引用したのは昭和初期の東京市バスの写真です。「バスに乗ったことがないんずら、―――ぼやぼやしてなさんな」と嫌味をいわれますが、土地の訛りになつかしさを覚えながら乗り込む洪作の姿を置いてみましょう。

出典:東京都交通局, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AA_Ford_in_1928.png

バスには男が3人、女が4人のっていて「丸顔であろうと、細長い顔であろうと・・・みんな(伊豆の人独特の)同じ顔立ちだった」とあります。バスの道中ではさまざまなことが起こります。

乗客の男が洪作に「(湯ヶ島の)鍛冶屋へこの包みをもってってくんな」
というかと思えば、

停留所でもないところでバスを停めて
「これを、役場に降ろしてくれ」
といって「大きな薦包み(こもづつみ)を車内に投げ込み」、一方的に荷物の運搬を依頼します。

また
「婆さん一人ぐらい、ただで乗せてもよかんべ」
と無賃乗車をしようとする老婆もいます。

下は「しろばんば(・・・・・・の風景その6・参照)」でも引用させていただいた「映画・有がたうさん」のバスの中のシーンです。ここでは、にぎやかなバスの窓から、こちらの写真の俳優さんのように天城の山々などのなつかしい風景を眺める洪作の姿を想像してみます。

出典:Shōchiku, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arigato-san_(1941)_6.jpg

祖父の家へ

故郷の湯ヶ島に到着した洪作は、正月の間寝泊まりする祖父の家に向かいました。「家へはいると、内部は薄暗かった。・・・・・・しかし、この暗さが懐かしかった。湯ヶ島は暗い家が多かった」とあります。

下に引用させていただいたのは、実際に井上靖氏の祖父母が住んでおられた「上の家」周辺のストリートビューです。道路に面したところに見える戸が玄関でしょうか?ここでは家に入った洪作が部屋の暗さに慣れるまでしばらく立ち止まるシーンをイメージしてみましょう。

湯ヶ島の朝食メニューは?

帰省した洪作に祖母たねが朝食を作ってくれます。「味噌汁のほかに、金山寺味噌、漬もの、福神漬け、わさびの茎の酢漬、そんなものが小さい器にはいって並んでいる。以前と何も変らぬ食卓である。上の家ばかりでなく、この部落では、どの家の朝飯も大体似たようなものである」とのことです。

金山寺味噌(下写真)は「しろばんば」でかみきの家を訪ねた時、福神漬けは「夏草冬濤」で増田の小母さんの家に遊びに行った時に好物として紹介されています。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/1078907

また、「わさび茎の酢漬け」が入っているのは、わさび名産地の天城地方らしいところです。下には美味しそうな一品の写真を引用させていただきました。シンプルなおかずですが手作りのものも多く、家ごとの味を楽しめたのではないでしょうか。

ここでは懐かしい味に食欲がわき、ごばんのお替わりをしている洪作の姿を想像しておきましょう。

土蔵で思い出にひたる

洪作は祖母から土蔵の鍵を借り小学生のときに住んだ土蔵の中に入ります。そして、しろばんば(・・・・・・の風景その1・参照)に描かれた「おぬい婆さん」とともに暮らした日々に思いを馳せました。

「土蔵の中に一歩踏み込むと、洪作はそこにしばらく立ちつくしていた。土蔵だけの持つひんやりとした黴くさい匂いが、洪作の五体をしびれさせた。・・・・・・この匂いの中で、洪作は五歳から十三歳まで暮したのである」

また「小学校時代に使った小さい机が、その頃と同じようにやはり窓際に置かれてあった。・・・・・北側の窓から見える眺めは、小学校時代と少しも変わっていなかった。・・・・・・洪作は幼い時、この窓から、毎日のように下田街道を走る馬車を眺めた」、そしてバスが走るようになると「その速さに目を見張った」とあります。

下に引用させていただいたのは伊豆近代文学博物館内に復元されている土蔵の写真です。ここに帰郷した洪作の姿を置き「洪ちゃ、バスが来るぞ」というおぬい婆さんの声を聴いてみましょう。

伯父の家を訪問

洪作は祖父から命じられて父の兄である石守森之進を訪ねます。洪作の小学校の校長だった伯父は近づきがたい存在でしたが一泊して一緒に過ごすうちに親しみを感じるようになりました。以下は枕を並べてふとんに入った時に交わされた、伯父の雅号についての会話を引用します。なお「洋堂竜骨」は伯父がその先生からもらった雅号、「独醒書屋(どくせいしょおく)主人」は伯父が自らつけた雅号のことです。


伯父「お前は独醒書屋主人という意味が判るか」
洪作「よく判りません」
伯父「・・・・・・独醒というのは一人冷静であるという意味だ。深夜、一人目覚めているというように解釈してもいい。深夜一人で、何事にも酔わず目覚めて書物を読んでいる人間ということだ」
洪作「僕、竜骨の方が好きだな」
伯父「そうか、竜骨の方がいいか。・・・・・・お前も大学へ行くようになると、竜骨より独醒書屋主人の方がいいと思うようになるだろう。お前は文学書を読むか」

唯一、少年雑誌「日本少年」の小説を読んだことがあったのを思い出して伝えると、
「お前は独醒書屋主人というわしの雅号を、意味は判らないにしても、一応間違いなく読めた。あれが読めるくらいなら、もう『日本少年』の小説でもあるまい」
といい、彼の蔵書から長い小説を探してくれることになります。

下には会話に出てきた「日本少年」の写真を引用させていただきました。文学について全く興味がなかった洪作少年が後日、有名な作家になるとは伯父にも想像できなかったのではないでしょうか。

一ノ瀬親子

一ノ瀬洋三親子が洪作の留守中に上の家に年始の挨拶をしにきたことを受け、彼らが逗留している伊豆楼に遊びにいくことになります。「(狩野川の)釣橋を渡ると、伊豆楼という旅館につきあたる」という伊豆楼のモデルは、現在の「おちあいろう」です。

下には「おちあいろう(旧落合楼村上)」の一室の写真を引用させていただきした。ここでは、こちらの写真の奥側に「縁側に机を出し、それに向かっている色白の少年の背後(うしろ)姿」を置き、手前の机に向き合って洪作と洋三の母が会話をしているところをイメージしてみましょう。

洪作がこちらで最初に驚いたのは洋三の母がだしてくれた羊羹の大きさでした。薄く切って出すものと思っていた羊羹がここでは厚さ三センチほどもあったとの記述があります。下に引用させていただいたような厚さだったでしょうか。ここでは「羊羹を小さいホークにさして口に運んだ」というシーンを思い描いてみます。

出典:Asturio Cantabrio, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minochu_Agari-Yokan_2020-11_ac.jpg

洋三の元旦の生活にも洪作は驚かされます。「勉強初めに一時間だけ英語をやり、そのあとお母さんと歌を作りっこしました。・・・・・・それから、午後、チエホフの小説を読みました」とのこと。名前も知らない作家の小説を元旦から読む少年に対し「何もかも及ばないという気がした。向こうの方が何となく上等な人間で、自分の方がその下に位する人間のような気がした」ともいっています。

下には大正時代に発行されたチェーホフの短編集の表紙の写真を引用させていただきました。

出典:前田晁 訳『チエエホフ集 : 短篇十種』,博文館,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947421 (参照 2024-01-23、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/947421/1/2

一方で洪作の元旦は、朝から子供たちと凧あげに興じ、午後はカンザブト(楮人)でそり遊びをしていました。「いったん長野川の渓谷に降り・・・・・・川向うへ出た。そこがカンザブトの山裾になっている」との記述などから類推すると、下のストリートビュー(土蔵跡の東側の道路)の山と思われます。

昔のカンザブトでは楮(こうぞ)が栽培されており樹木がなかったとのこと。子どもたちは「葉のついた木の枝を腰の下に敷いて」滑っていました。もっとも洪作は「体が大きくなっているせいか、そううまくは行かなかったし、危険でもあった」とあります。

また、井上靖記念文化財団の機関誌・伝書鳩9号「しろばんばの里・天城湯ヶ島、宇田治良氏」には大正末期にカンザブトから湯ヶ島を俯瞰した写真も掲載されています。洪作がカンザブトから見た風景はちょうどにこのような風景だったかもしれません。こちらには土蔵などの貴重な建物も写っていて「しろばんば」や「夏草冬濤」の世界をより正確にイメージできるので、ぜひご覧ください。

どんどん焼き

湯ヶ島の正月のシメとなるのはどんどん焼きでした。子供たちは近所の家々のお飾りを集めてまわり、それを田んぼの一角に積み重ねて焼きます。木にさした団子を一緒に焼いて食べるのも楽しみの一つで、洪作は子供たちが木から落とした団子のおこぼれに預かりました。

ただ「子供の頃、あんなにうまいと思った団子が、今は少しもうまく感じられなかった」「お飾りの山も、またそれを焼く火も、いまはそれほど大きいものにも凄まじいものにも感じられなかった」とのこと。

下にはどんどん焼きの写真を引用させていただきました。ここでは、こちらの周辺に子供たちが(昔の洪作たちのように)はしゃぐ姿と、「自分の少年時代は一年一年過ぎ去っていくのか」と少し寂しい気持ちになっている洪作の姿を置いてみましょう。

旅行の情報

上の家

しろばんばでは祖父母やさき子の住む家、夏草冬濤では洪作の帰省先となった家です。当時の状態に復元された建物内で資料・写真やガイドの方の案内を聞きながら当時の様子を想像することができます。

土・日を中心に公開され、開館時間は10時~15時です。詳細は下の参考URLや、下に引用させたいただいたSNSなどでご確認ください。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ケ島
【アクセス】湯ヶ島バス停から徒歩約2分
【参考URL】https://amagigoe.jp/bungaku/

おちあいろう(落合楼)

明治7年に創業した老舗の温泉旅館で一ノ瀬親子が正月を送った場所として登場します。「しろばんば」では洪作が受験勉強をしにいった犬飼教師が逗留する場所でもありました。

露天風呂などの設備も充実し、下に引用させていただいた写真のように部屋からの狩野川の清流の眺めも抜群です。こちらに立ち寄られることがあれば、一ノ瀬親子と洪作の場面を想像しながら分厚い羊羹を召し上がってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】静岡県伊豆市湯ケ島1887-1
【アクセス】伊豆箱根鉄道修善寺駅からタクシー
【参考URL】https://www.ochiairo.co.jp/ja-jp