井上靖「北の海」の風景(その2)

高専柔道との出会い

藤尾たちが沼津から去った後(北の海の風景その1・参照)、洪作は遠山を相棒として柔道部の道場通いを続けます。そんなある日、宇田という化学教師から自宅に来るように誘われ、ご馳走になるとともに今後についての指導を受けました。また、四高の柔道部員が道場を訪問するという出来事があり、遠山や洪作は道場破りでも迎える気で臨みますが・・・・・・

道場通い

沼津中学の柔道部

洪作が通う沼津中学の柔道部は「落第した遠山をキャプテンにして、五、六人の選手が中心になって部を形造っていた。学校の成績は申し合わせたように悪かったが、単純で悪気のない少年たちだった」とあります。

下に引用したのは大正10年度(~大正11年3月)の沼津中学の柔道選手の写真です。洪作(=井上靖氏)が沼津中学に在籍したのは大正11年(浜松中学から転校)から大正15年なので、こちらは先輩たちの写真と思われます。ただ、中学一年の遠山の姿が写っている可能性もありますし、沼中の柔道選手の雰囲気も十分イメージできるのではないでしょうか。ここでは小柄な洪作と少し不良がかった大柄な遠山をこの写真のどなたかに重ねておきましょう。

出典:講道館文化会 編『柔道年鑑』大正11年度,講道館文化会,大正11-14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/964758 (参照 2024-02-06、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/964758/1/10

宇田教師

毎日、中学校の道場に通う洪作に対し、化学教師の宇田が「洪ちゃん」と突然声をかけてきました。化学は洪作の苦手科目の一つで、落第しかかったという苦い思い出があります。以下に二人の会話を抜粋します。
宇田教師「勉強しているかい。・・・・・・来年はどこを受ける」
洪作「まだ決まっていません。・・・・・・いずれにしても、受験科目に化学があるところは受けません」
宇田教師「そうだろうね、その方が間違いない」
このままではまた不合格になるぞという宇田に「大丈夫です」という洪作に対し
宇田教師「君の大丈夫なのは、体だけだな。・・・・・・柔道の練習ばかりしていて、高校に受かったという話を聞いたことがない」
洪作につられて笑う宇田に対し
洪作「おや、笑いましたね、先生・・・・・・先生は決して笑わないことになっています」
宇田教師「迷惑だな、僕だって、おかしいことがあれば笑うさ。・・・・・・おかしくない時にでも笑うのは、歴史の教師ぐらいだよ」

出典:『躍進!久留米を語る : 附・久留米及び筑後路の観光案内』,久留米商工会議所,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1109249 (参照 2024-02-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1109249/1/8

このような話をしながら、宇田は御成橋の上で故郷の久留米を流れる筑後川がいかに立派かということを説明します。上には昭和初期に撮影された久留米市内の筑後川の写真を引用させていただきました。

写真には多くの帆掛け船が浮かんでいますが、こちらは以下の資料などによると「千石船」という輸送船のようです。船の大きさを川幅と比較してみると、筑後川の大きさがイメージできます。

かつては舟運が盛んで、下流部には諸富津、若津、蒲田津、早津江津などの河港が栄え、大阪などへ米穀を売りさばく千石船の往来もありました。

出典:国土交通省 九州地方整備局 筑後川河川事務所、多くの船が行き交っていた筑後川
https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/archives/history/tenbyo/tenbyo2.html

宇田の家に招かれる

洪作は宇田に「君、僕の家に寄って行かんか」とさそわれて、渋々ながらもついていきました。すき焼きの牛肉を買うために、御成橋から沼津駅までの通りを行ったり来たりしたあと、「高いのを少しより、安いのをたくさん食った方がいいだろう、君みたいのには・・・・・・雪月花の三種ある。花を三百匁買って来なさい」と命じます。

昭和初期の沼津には下に引用したようなたくさんの食肉店がありました。宇田が高いといって購入を見送ったのがどのお店で、安いお店がどのお店だったかは不明ですが、リストの先頭にある「古安」さんは現在も精肉・レストランとして現在も営業を続けています。

出典:『沼津商工案内』昭和3年版,沼津商工会議所,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1025290 (参照 2024-02-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1025290/1/136

宇田家の「階下の居間でスキ焼の鍋を囲んだ。畳の上に茣蓙(ござ)が敷かれ、その上に七輪が据えられ、その七輪の上に鍋が置かれてある」とあります。

ここでは下のような美味しそうなスキ焼の写真を引用して、そのシーンを想像してみましょう。そして洪作がご馳走を食べる前にいつもそうするようにベルトをゆるめると、宇田は「見上げたことをするものだな」と珍しがり、宇田の奥さんは「いいわね、ご馳走しても、とても張り合いがあるわ」と好意的な反応をしました。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/1326513&title=%E3%81%99%E3%81%8D%E7%84%BC

勉強もしないと・・・・

すき焼きを食べながら宇田から、真剣に受験勉強をしなさいときつく言われますが、さすがに洪作自身もそろそろ勉強しないといけないと思うようになります。「午前中は代数と幾何、午後は英語、夜は国語と、それぞれの参考書を開くことにした。午後は英語の勉強に割当て」たとのこと。

ただし午後三時には道場に行く必要があったので英語の時間はかなり割愛され、更に夜の国語の勉強も眠気のためはかどらなかったとあります。下に引用させていただいたのは研究者が発行した大正時代の英語の有名な参考書とのことです。洪作もこのような参考書で勉強していたかもしれません。

四高への誘い

四高の蓮実

そんなある日、沼津中学で代数を教えている篠崎に、母校の四高(現金沢大学)から柔道部の生徒がくるので一緒に練習させてほしいとの依頼を受けました。遠山は「段を持っていないそうだから、たいしたことはないよ。たとえ投げることができなくても、投げられることはないだろう」といいます。実際に道場を訪れた蓮美(はすみ)は「ひどく貧相な体の持ち主」で「蒼白い顔にはまだ少年らしい初々しさが残っている」青年でした。

ところが、練習相手になった洪作が「柔道着の襟をつかんだが、その瞬間、相手は畳の上に体を崩し、いきなり洪作の上体をひっぱり込んだ」とあります。そして「あっという間に体をひっくり返され、右腕の関節逆をとられて」いました。下に引用させていただいたような技だったでしょうか。

出典:松岡辰三郎 著『学校柔道』,大阪屋号書店,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/939760 (参照 2024-02-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/939760/1/113

続けざまに一本をとられた洪作は、「激しい屈辱を感じ」、三回目は下の写真のように「強引にはね腰をかけた。・・・・・・蓮実は立技はできないらしく、蓮実の体はかなり派手に畳の上に落ちた」とあります。ところが一本をとることができなかっただけでなく、投げ飛ばしたと思った瞬間に、蓮実にひっくり返され抑え込まれてしまいました。

出典:松岡辰三郎 著『学校柔道』,大阪屋号書店,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/939760 (参照 2024-02-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/939760/1/75

トンカツ屋で反省会

篠崎先生から食事代をもらった遠山は洪作、蓮実を連れて清風荘(打上げ式を行ったトンカツ屋)に行きます。食事を待つ間、洪作が抑え込まれた「ケサ固め」という技について、蓮実は「反対に廻ればすぐ起きられますよ」といい、実演してみせます。

下には「学生柔道」から「袈裟(ケサ)固」の写真を引用しました。このように道場での技を再現しながら畳の上でどたんばたんやっていると、トンカツ屋のお内儀さんが飛び込んできて「道場じゃないんだよ、ここは」とたしなめます。

出典:松岡辰三郎 著『学校柔道』,大阪屋号書店,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/939760 (参照 2024-02-07、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/939760/1/98

「学をやりに来たと思うなよ」

蓮実は親戚の法事のため静岡に来たついでに、静岡中学や沼津中学の優秀な選手を四高柔道部にスカウトするのに立ち寄ったとのこと。なお、四高とは日本で四番目にできた官立旧制高等学校で現在の金沢大学の前身、入試の難易度も高かったと思われます。

出典:Kodansha Ltd., Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fourth_Higher_School,_Japan.jpg

そんな四高ですが、柔道部に入ると激しい練習のため勉強などできないと蓮実は言います。以下は関連した彼らの対話の抜粋です。
遠山「じゃ、何のためにはいったんです」
蓮実「もちろん、柔道をやるためですよ。僕は今年入学してきた一年下の連中に言ったんです。学をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え」
洪作「ほう」
そして洪作や遠山を以下のように誘いました
蓮実「・・・・・・金沢へ来ませんか。毎日、昼は道場で僕らと一緒に練習し、朝と夜は受験勉強をする。僕らも入って貰いたいから応援しますよ。そして、あわてないで、三、四年がかりで合格することを考える。・・・・・・それでだめなら、五、六年がかりにする。はいると、すぐ選手として使える」

大天井の噂

清風荘の内儀さんが「変なことを勧めないで下さいよ。三年も四年もかければ、それは、どんなばかでもはいれるだろうけど」と口をはさむと、蓮実は「大天井」という受験生のことを語ります。

「ところが、はいれないのも居ますよ。・・・・・・この人金沢へ来てから四年目ですが、今年もおっこちちゃった。・・・・・・いまの四高の選手は、はじめはその人に稽古をつけて貰ったんです。・・・・・・四高の学生だと思った。が、どうも、様子が変なので・・・・・・大天井さんを呼ぶ場合はさんづけです。大天井さんの方は、四高の選手全部を君づけで呼びます」とのこと。ほかにも数年の浪人の末、入学して活躍した「金子大六」や「鈴川三七彦」といった全盛時代の名選手の名前をあげます。

四高は大正3年に開催された第1回高専柔道大会から七連覇をした強豪校でした。下には当時の四高柔道部の集合写真を引用させていただきます。こちらには鈴川や金子のモデルとなった方が写っているかもしれません。

出典:金沢大学付属図書館公式サイト、写真で見る第四高等学校
https://library.kanazawa-u.ac.jp/files/event/shiko120/pictures.htm

「この世に女はないものと思え!」

清風荘ではれい子と遠山に以下のような会話があります。
遠山「好きな人を連れて来たよ。有難く思えよ」
れい子「わたし、好きな人なんてありません」
遠山「嘘を言え、洪作が好きだと言ったじゃないか」
れい子「遠山さんよりは好きだと言っただけよ」
遠山「俺より好きなら、日本中で一番好きじゃないか」

下には「夢二調(れい子の容姿に対する宇田の表現)」の例として竹久夢二氏の妻・岸他万喜(たまき)さんの写真を引用させていただきました。

内儀さんに「お料理を運んでいいですか」とれい子が逃げるように出ていくと、蓮実は唐突に「女は禁物ですよ」といいます。続きを抜粋すると
蓮実「僕たちは、女とはなるべく口をきかないようにしています。・・・・・・女は、この世にないものと思えばいい」
内儀さん「そんなことを言っても、無理じゃないか。人間の半分は女なんだからね。・・・・・・一体なぜそんなに女を怖がるの」
蓮実「これ、僕の言葉じゃないんです。柔道部に入ると、まっさきに上級生から言われることなんです。・・・・・・この世に女があると思ったら、こんな頭(稽古の邪魔にならないように鳥の巣のようカットした髪型)では町は歩けませんよ」

「いっさい、ものは考えるな」

そして、四高の柔道部にはもう一つ、スローガンがありした。
内儀さん「それにしても、何のために、そんなに柔道をやらなければならないのかね」
蓮実「判らない」
内儀さん「判らないって、あんた、自分でやっているじゃないか」
蓮実「本当に判らんですよ。考えたら判らなくなる。それで、考えないことにしている。―――ものは考えるな!」
残っているカツレツを食べながら「うまいなあ、これ」という蓮実。内儀さんは「こんどのは、わたしが御馳走してあげる」といって、れい子にカツレツのお替わりを命じました。

出典:Madoro Ishii, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%84.jpg

内儀さん「よくそんなところへはいる者がいると思うね。勉強もしないで、柔道ばかりやって」
蓮実「僕もそう思う。だから、考えたらだめなんですよ・・・・・・別に柔道家になるわけじゃない。高専大会で優勝することだけが目当なんですからね。練習量がすべてを決定する柔道というのを、僕たちは造ろうとしている。・・・・・・ぼくなどは体も小さいし、力はないし、素質は全くない。・・・・・・練習量にものを言わせる以外、いかなるすべもないわけです。・・・・・・あなた方も一生のうちの三年間をないものと思って、四高の道場で過ごしてみませんか」

「洪作は黙っていた。黙っていたが、蓮実の言葉は体中にしみ渡っており、軽い酩酊感が洪作を包んでいた」とあります。

金沢への誘い

下には昭和初期の沼津市街の写真を引用させていただきました。右側の「七五六番」とあるのは上土町にあった「榊原椅子店」と思われます(帝国商工録・参照)。奥に見えるのが沼津駅でしょうか。清風荘を出た洪作たちは東海道線に乗る蓮実を見送るため、夕暮れ(または夜)の通りを沼津駅まで歩いていました。

出典:『沼津商工案内』昭和3年版,沼津商工会議所,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1025290 (参照 2024-02-08、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1025290/1/20

歩きながら蓮実は、どうせ四高を受けるなら、最初から受験勉強も金沢でしてはどうかと提案し、さらに続けます。
蓮実「来るなら早い方がいいですよ。七月の終りに京都で高専大会があります。その前の一か月の練習が凄いです。・・・・・・京都から帰ると、夏期練習が始まります。七月末から八月中旬までですが、これだけはぜひやらないと」

「高専大会」とは「高専柔道」の全国大会で、「高専柔道」についてウィキペディアでは以下のように記述されています。

旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校の柔道大会で行なわれた寝技中心の柔道の略称。1898年(明治31年)、東京の第一高等学校と仙台の第二高等学校の柔道部の間で行われた対抗戦に端を発する

出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%82%E6%9F%94%E9%81%93

蓮実が在籍した大正末期は六高(岡山大学の前身)が連続して優勝していて、四高は巻き返しを図っていました。下には蓮実の高校一年時(大正十四年)に優勝した六高の柔道選手の写真を引用させていただきます。

出典:朝日新聞社 編『運動年鑑』大正14年度,朝日新聞社,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955132 (参照 2024-02-08、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/955132/1/19

話を続けると
洪作「大会が終わってからも練習があるんですか」
蓮実「そうです。大会に優勝したら、優勝したで、夏の練習は充実したものにします。もし優勝できなかったら、その時は来年に備えて、相当な練習になります。寮の階段は立って上れないでしょう」
遠山(または洪作)「じゃ、どうして上る」
蓮実「這って上る・・・・・・そしてその練習が終わったら、僕は能登の中学にコーチに行きます。あなたも一緒に行くと面白いですよ。能登はいいところですし、魚もうまい。昼は柔道をやって、夕飯にはうまい魚をたらふく食って、あとは眠りたいだけ眠る」

蓮実が語った「練習量がすべてを決定する柔道」に感銘を受けた洪作は、ぜひとも「四高に入らねばならぬ」と決意します。

旅行などの情報

古安

洪作と宇田先生がすき焼き用の牛肉を探し歩く場面でも触れた、創業明治元年の老舗です。1階が精肉店、2階はステーキやビーフシチューなどを楽しめるテーブルやカウンター席、3階は、下に引用させていただいたようなすき焼きやしゃぶしゃぶをいただける座敷席となっています。

すき焼きは「北の海」のなかでもトンカツと並んで登場回数が多く、読んでいると食べたくなる料理です。「北の海」ゆかりの地巡りをする場合には、こちらにもコースに入れてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】静岡県沼津市本町40
【アクセス】JR沼津駅より徒歩12分
【参考URL】https://www.furuyasu.com/3F/index.html

長泉町・井上靖文学館

井上靖氏が少年時代を過ごした三島や沼津の近くにある文学館です。幼少からの井上氏の写真や直筆原稿、愛用品などを所蔵・展示しています。

また、近年のリニューアルにより、下に引用させていただいたような「ミュージアムライブラリー」が新設され、よりゆったりと井上靖ワールドに浸れるようになりました。同じ敷地(クレマチスの丘)には「ベルナール・ビュフェ美術館」やカフェ・ツリーハウスもあるので、こちらも併せてご利用ください。

基本情報

【住所】静岡県駿東郡長泉町東野515-149
【アクセス】JR三島駅からバスを利用。ビュフェ美術館下車
【参考URL】https://www.town.nagaizumi.lg.jp/