井上靖「北の海」の風景(その4)

金沢へ

沼津で送別会を開催してもらったり、故郷の湯ヶ島で台北行きを報告してきた洪作ですが(北の海の風景その3・参照)、なかなか台北には出発しません。それは、四高に柔道部の夏期練習を見にこないかという蓮実の誘いがあったからでした。今回は、れい子をめぐっての遠山とのひと悶着を経て、金沢で新しい仲間と出会うところまでを追って行きます。

沼津に戻ると

藤尾から海水浴の誘い

故郷の湯ヶ島から帰ると「机の上に三通の封書が置かれてあった」とあります。一通は母からの手紙で台北に帰る際の注意などが書かれてありました。もう一通は藤尾からで以下に抜粋したような内容です。

「七月早々沼津に帰る。九月中頃まで学校は休みだから、大いに泳ぎたいと思う。前半は沼津で泳ぎ、伊豆の三津で泳ぐ。それから後半は逗子で泳ごう。逗子で泳ぐのは初めてだが、金持ちのどら息子の家があるので、そこへ行って泳ぐつもりだ。・・・・・・ボートも持っていれば、ヨットも持っているそうだ」

「泳ぎたいな」と思う洪作でしたが「この誘惑に負けてならぬ」と自分に言い聞かせ、その誘いには乗りませんでした。下には昭和初期の逗子海水浴場の写真を引用しました。ここでは、こちらのボートに乗り込む藤尾や木部の姿を置いてみましょう。

出典:『観光地と洋式ホテル』,鉄道省,[昭和9]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1107788 (参照 2024-02-14、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1107788/1/10

蓮実からの手紙

三通目は四高の蓮実からでした。
「前便で台北に帰ることをお勧めしておきましたが、いかがなりましたか。ただ今、高専大会前の猛練習の最中です。ひどく痩せていますが、元気です。あと大会まで半月を残すのみであります。勝敗の帰趨は天に任せております。七月二十日から次年度に備えて夏期練習を始めます。その頃、まだ台北にお発ちでなかったら、稽古を覗きにきませんか」

この手紙を読んだ洪作は「ああ、行きたいな・・・・・・いくぞ」とつぶやきます。

当時の高専大会は六高(現岡山大学)が連覇中でした。下に引用させていただいたのは大正十三年の高専大会で優勝した六高柔道部員の写真です。蓮実と同様に激しい練習をされたのでしょう。皆さん体も表情も引き締まっているように見えます。

出典:朝日新聞社 編『運動年鑑』大正13年度,朝日新聞社,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955131 (参照 2024-02-13、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/955131/1/13

遠山とのけんか

久しぶりに沼津中学の道場に出た洪作は、遠山から突然「れい子がお前に会わせてくれというんだ。・・・・・・千本浜で会ってやれよ」と打診されました。どう反応していいか分からない洪作が「嫌だよ、あんなのに会うのは」とれい子をけなすような言い方をすると、彼女に好意を持つ遠山は激怒し、殴り合いのけんかになってしまいます。

一旦、けんかは落ち着きますが、道場にて洪作がとんぼをきって見せると、遠山も負けずに同じことをしようとして大変なことに・・・・・・。ここでは旧制富山中学校の武道場(下写真)を沼中道場と見立ててみます。そして、とんぼをきろうとして「宙間で回転しそこねた遠山の体は、奇妙な恰好で畳の上に落ちた」というシーンをイメージしてみます。

出典:富山県, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Toyama_prefectural_Toyama_Middle_School(3).jpg

骨が折れた?

倒れたまま動けなくなった遠山は「腰の骨が折れたらしい」といいます。洪作は「駅の近くに骨接ぎがあったな」といい、移動時間短縮のために藤尾家に自転車を借りに向かいました。そして、偶然帰省していた藤尾にも事情を話し、行動を共にすることに。

洪作たちが向かった接骨院には「“ 清水接骨院”と“ 清水柔道教習所”という二つの門札が掲げられてある」とあります。下に引用させていただいたように、昔は柔道場と接骨院が併設されている施設が多かったようです。

昔から柔道場の隣に接骨院(整骨院)が多かったのは、その道場主が柔道の技とともに柔道整復術(接骨術)を身につけており、道場経営の余技として接骨院を営んでいたからとされる。

出典:東洋医学会館公式サイト
http://toyoigaku.org/knowledge2.html

洪作はお腹が空いたという遠山のために、あんパンを買っていました。以下は道場に戻る途中の藤尾と洪作の会話です。
藤尾「あいつはものを考えるというようなことはめったにないから、この機会に少し考えさせてやろう。人生について、人間について、少しは考えるだろう」
洪作「人生についてなんか考えるものか。今頃、あんパンについて考えている」
藤尾「食いたい、あんパン、食いたい。あん食い、パン食い、か」
洪作「なんだ、それ」
藤尾「谷崎潤一郎の“ 母を恋ふる記”にあるじゃないか。―――てんぷら食いたい。食いたい。天ぷら、てん食い、ぷら食い」

以下抜粋のように「母を恋ふる記」の「天ぷら食いたい」は三味線の音をあらわしているとのこと。「てん食い、ぷら食い」は藤尾やその仲間の間で流行っていたフレーズだったのでしょうか。

日本橋にいた時分、乳母の懐に抱かれて布団の中に睡りかけていると、私はよくあの三味線の音を聞いた。―――
「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」(―中略―)
「天ぷら喰いたい、天ぷら喰いたい」と、ハッキリ聞えていたものが、だんだん薄くかすれて行って、風の工合で時々ちらりと聞えたり全く聞えなくなったりする。………
「天ぷら………天ぷら喰いたい。………喰いたい。天ぷら………天ぷら………天………喰い………ぷら喰い………」果てはこんな風にぽつりぽつりとぼやけてしまう。

出典:青空文庫、母を恋うる記、谷崎潤一郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/58918_75465.html

道場に戻った洪作たちは遠山を「清水接骨院」に運びこみました。次の日、接骨医が外出先から帰ってくると、遠山の腰を金槌のようなもので診察します。そして洪作に「両脚を動かさないように押さえて貰いたい。体が大きいのでかなり暴れると思うんだが、絶対に動かないように抱えて貰いたい。親の仇敵でも討つ気でやって貰いたい」といいました。

下には昭和初期に三島で柔道と骨接ぎ兼用の施設を運営していた「石井接骨院」の写真を引用し、清水接骨院に見立てさせていただきます。そして、こちらの建物の診察室から清水接骨医の「ええい!」と掛け声が響くのを想像してみましょう。遠山は無事に退院できたのでしょうか?

出典:静岡県田方郡三島町 編『観光の三島』,静岡県田方郡三島町,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1095717 (参照 2024-02-14、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1095717/1/41

古都・金沢

金沢駅に到着

七月の中旬を過ぎたある日、洪作は金沢への旅にでます。「洪作は早朝の米原駅に降り立った。ここで北陸線に乗り替えるわけであるが、それまでに三十分ほどの時間があった」とのこと。そこで「ホームで、弁当とお茶を買い、それを持って、こんど乗る列車のホームに移った。・・・・・・ホームにある小さい待合室で、弁当を食べた」とあります。

下には「長浜鉄道スクエア」で開催された駅弁掛け紙の企画展の写真を引用させていただきました。このような、旅情をそそるデザインの掛け紙を外して、洪作が駅弁を食べているシーンをイメージしてみましょう。

「米原駅を出ると間もなく琵琶湖が見えてきた」とあります。下は北陸本線が琵琶湖に沿って走る坂田・長浜間を走る道路のストリートビューです。このような景色をみながら「ああ、近江の海!・・・・・・ああ、志賀の海!」とつぶやき、旅情に浸っている様子を想像してみます。

金沢駅に到着

汽車に乗り込んでくる人々の方言も理解しにくくなり、心細い気分になっているとようやく金沢の駅に到着します。下に引用させていただいたのは昭和初期の金沢駅の写真です。

ホームに迎えにくるといっていた蓮実の姿は見あたらず、洪作は仕方なく改札を出て待つことにしました。ここではこちらの駅舎の中で不安そうに立っている洪作の姿を想像してみましょう。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanazawa_Station_circa_1933.jpg

鳶永太郎

そこに「頭髪をでたらめに伸ばした、さして長身ではないががっしりした体の男」・鳶(とび)栄太郎が近づいてきます。以下は鳶との会話の抜粋です。
洪作「もし」
鳶「あんたか、沼津から来たのは」
洪作「そうです」
鳶「どうも、うろちょろしているところは、そうじゃあないかと思った。・・・・・・蓮実さんが用ができて来られなくなったんで、俺が替りに迎いに来た。俺はトビって言うんだ」
と、自己紹介をすると
鳶「この広場の向こうに、ちくといけるうどん屋がある」
と道場に行く前にうどんを食べることを提案します。

一緒に店に入ると鳶は「俺はぜんざい。それからいなりだ」と注文し、迷っている洪作に「俺と同じものにした方がいい。さきにぜんざいを食って、次にいなりうどんを食うんだ。この食い方以上のものはない」といいます。

下には明治時代創業のうどん店「加登長(かどちょう)」の「いなりうどん」の写真を引用させていただきました。やわらかい麺と甘めの出汁という組み合わせが「金沢うどん」の特徴とのこと。ここでは、食べ終わった鳶が満足そうに「お蔭でひと心地がついたよ」という場面を想像することにします。

香林坊周辺で下車

洪作は鳶に連れられて電車に乗り、香林坊(こうりんぼう)という停留所で降ります。道場に向かって歩く途中、四高の学生たちがたくさんいて洪作は気おくれしますが、鳶は「今ごろ町をほっつき歩いているのにろくな奴はいない。見ろ、吹けば飛ぶような体をしている。・・・・・・向こうから本を抱えて来る奴があるだろう。ああいうのは三等品だ」とけなします。

下には昭和初期の香林坊周辺の写真を引用させていただきました。ここでは「その三等品というのが」、「一番四高生らしく見えた」と思う洪作の姿を置いてみましょう。

出典:金沢市 編『金沢市勢一覧』昭和11年,金沢市,昭10至13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1451698 (参照 2024-02-15、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1451698/1/9

四高校舎

洪作たちは四高の正門をくぐり、赤レンガの校舎の左に見ながら、道場に向かいました。下に引用したのは大正時代の四高の正門付近の写真です。

こちらは明治時代の建築で、四高や金沢大学の校舎などとして利用された後、現在も記念館として保存されています。井上靖氏は昭和二年から昭和五年までの間、実際に四高に在籍し、柔道に打ち込まれていました。

出典:『東宮行啓紀念写真帖』,第四高等学校,明42.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780857 (参照 2024-02-15、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/780857/1/7

道場にて

小説では道場について「建物の内部は柔道と剣道の二つの道場に分かれていて、その間には何のしきりもなかった。片方には畳が敷かれ、片方は板敷になっている」と解説しています。

下に引用させていただいたのはその四高の道場で、今は愛知県の明治村に移築されている「無声堂」内部の写真です。

洪作は「おい、お前、だれだ」と突然小柄な男に声をかけられます。「柔道着がだぶだぶに見えるほど痩せた貧相な男だった。が、目は鋭く、ひどく鼻っ柱の強そうな男だった」とあります。その男は権藤という柔道部のマネージャーでした。

また、洪作を夏期練習に誘った蓮実は次の日から能登の中学にコーチに行ってしまうとのこと。杉戸という一年生の家を宿泊先として紹介してくれます。杉戸については「ひょろひょろと背の伸びた痩せた青年で、顔を見ただけでは、ひどく薄汚い印象をうけた」とありますが、後で聞くと四高の理科をトップの成績で合格したとのこと。勉強のアドバイスもさせる意図もあったようです。

下には明治時代末の無声堂の写真を引用しました。明治村の無声堂は大正6年築なので、こちらはその前身の道場(旧無声堂)と思われます。こちらの写真の中のどちらかに権藤や杉戸を姿を重ねてみましょう。

出典:『東宮行啓紀念写真帖』,第四高等学校,明42.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780857 (参照 2024-02-15、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/780857/1/19

旅行などの情報

四高記念文化交流館

元・四高の校舎を記念館として開放したものです。内部は井上靖氏関連の資料をはじめ四高の歴史を写真などで紹介する「石川四高記念館」と、泉鏡花や徳田秋聲、室生犀星など石川ゆかりの文豪を紹介する「石川近代文学館」に分かれています。

下に引用させていただいたように教室なども復元されていて、明治や大正時代の建築が好きな方も楽しむことができるでしょう。

基本情報

【住所】石川県金沢市広坂2-2-5
【アクセス】JR金沢駅からバスを利用。香林坊で下車
【参考URL】http://www.pref.ishikawa.jp/shiko-kinbun/

第四高等学校武術道場「無声堂」

「無声堂」は四高柔道部・剣道部の道場だったところです。愛知県・明治村に移築され、下に引用させていただいたような外観に復元されています。道場内には当時の木の名札が並べられていて、後に四高柔道部で主将を務めた井上靖氏の札も掛けられているのでお見逃しなく。

堂内には勇ましい声が流れていて、練習の様子を想像することができます。明治村内には他にも「森鴎外・夏目漱石住宅」や「帝国ホテル中央玄関」などの歴史的建造物が数多く移築され、見どころが満載です。

出典:Tomio344456, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Musei-do_Gymnasium_for_Martial_Arts,_Fourth_National_High_School_in_Meiji_Mura_2022.jpg

基本情報

【住所】愛知県犬山市内山1
【アクセス】名鉄犬山駅からバスを利用。明治村(終点)で下車
【参考URL】https://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-34.html

加登長総本店

金沢の「いなりうどん」の代表店として登場していただきました。いなりうどんの他にも、いなりうどんに「あん」を掛けた「たぬきうどん」や名物の治部煮に似た具材を使った「加賀あんかけうどん」なども人気です。

「加登長」は金沢市内に20店舗近くを展開しており、(店舗や時期によっては)下に引用させていただいた投稿のように、ぜんざいの提供もしています。「どんぶりにはいったぜんざいというものは、洪作にとっては初めてだった。大きな餅󠄀のきれが二つはいっている」という「北の海」の記述にもそっくりですね。

基本情報

【住所】石川県金沢市下近江町42(加登長総本店)
【アクセス】金沢駅より徒歩約15分
【参考URL】https://xn--yfr61zk0g4pq9tifx9a.com/