井上靖「北の海」の風景(その7)

金沢編(その3)

休日、洪作たちは日本海に行くため(北の海の風景その6・参照)、電停に向います。その途中、鳶が目的地の近くまでいく運送トラックを発見し、荷下ろしを手伝うかわりに乗せてもらうことに。日本海で杉戸が四高の寮歌を歌い、鳶が大天井に試合を挑む場面も「北の海」の名シーンです。充実した一日を過ごした彼らですが、帰りは近道をしようとして迷ってしまいます。

金石海岸へ

海を見に行くため洪作と杉戸、大天井と鳶の4人は武蔵ヶ辻周辺にある電車の停留所に向かいます。金沢電気軌道で金沢駅方面に行き、その先、金石電気鉄道で金石駅まで乗り継ぐルートでした。

下(左上)に引用させていただいたのは、大正時代の武蔵ヶ辻停車場付近の写真です。写真右側の標柱「金沢青果辻市場」の周辺は現在、近江町市場となり、多くの観光客でにぎわっています。ここでは、こちらの写真のなかに制服を着た洪作たちと着物・袴姿の大天井の姿を置いてみましょう。

出典:金沢電気軌道, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanazawa_City_Tram_Line(5).jpg

運送トラックに便乗

停車場の近くで「金石運送」と書かれたトラックを見つけた鳶は「あのトラックは金石に行くんじゃないかな」といいます。そして交渉をした結果、トラックの荷物運搬を手伝い、運転手の家(海鮮の食堂)で食事をするという条件で乗せてもらえることになりました。

金沢の町を走り出したトラックは「浅野川の橋の近くの乾物屋で停まった」とあります。下には昭和初期の浅野川大橋付近の写真を引用しました。もちろん当時はドローンなどは登場しておらず、引用元の説明書きには火の見櫓の上から撮影とあります。

出典:石川県 編『石川県史』第五編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1921116 (参照 2024-02-22、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1921116/1/46

写真の手前側のように、当時の金沢には板屋根に石をのせた「石置き屋根」の家が多く見られたそうです。このような風景のなかに「杉戸と洪作はいきなりトラックから飛び降りた。大天井と鳶が荷物をくるまの上からさし出し、杉戸と洪作がそれを受け取った」というシーンを置いてみましょう。

お駄賃にサイダーを

乾物屋では「学生さんに手伝って貰って助かりました」とお駄賃代わりにサイダーを4本もらいます。下には大正時代のサイダーの例として、三ツ矢サイダーの広告を引用させていただきました。

下広告の「三ツ矢平野水」とは川西市の平野鉱泉の炭酸水を利用した「宮内省御用達」の飲料で、こちらの平野水に香料や砂糖を加えたものが三ツ矢サイダーとなります。ついでに「三ツ矢シナルコ」とは、「ドイツから輸入した20数種の果汁エキスを混合した」炭酸水とのことです(アサヒグループホールディングス公式サイト・三ツ矢ブランド史)。

出典:若林清一郎 編輯『全国鉄道沿線誌』,全国鉄道沿線誌編纂局,1912.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1906018 (参照 2024-02-21、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1906018/1/63

三ツ矢(シャンペン)サイダーは当時から人気が高く、上広告にも注意があるように商標を模造した商品も出回っていたようです。

乾物屋でもらったサイダーはつめたく冷えていましたが、大天井の「飲むなよ、浜で飲むんだ」との言葉に従い、飲むのをがまんすることになりました。

缶詰は重要な栄養源

杉戸の下宿のそばのお店で荷運びすると、今度は牛肉の缶詰を持って来てもらいました。ここでは、牛肉を佃煮風に甘露煮にした「牛肉大和煮」をもらったとして話をすすめます。「牛肉大和煮」はもともと明治時代に戦場食糧として考案されたものですが、下の広告のように大正末には一般にも出回っていました。

販売を手がける鈴木洋酒店は洋酒・缶詰直輸出入商で、現在の伊藤忠食品株式会社のもととなる会社の一つとのことです(伊藤忠食品株式会社・伊藤忠食品130年の歩み)。

出典:大蔵省印刷局 [編]『官報』1925年02月03日,日本マイクロ写真,大正14年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2955881 (参照 2024-02-22、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2955881/1/16

広告の先頭に「矢印牛肉大和煮」とありますが、こちらの商品は下に引用させていただいた写真のように現在も販売を続けるロングセラーです。当時のラベル(上図の下段左から2つ目)と比べると、デザインも踏襲されています。

なお広告のラベルには「大日本伊豫宇和島名産」や「J・UTSUNOMIYA」(製造者の宇都宮二郎氏のこと)などと記載されているように、当時から愛媛県で製造されていたようです。

以下は移動中のトラックの中で牛缶食べようとする杉戸たちのやりとりです。
杉戸「(缶詰を)食うか・・・・・・(眠ってしまった)大天井さんの分は残しておけばいいだろう」
鳶「そりゃあ、そうだ。分け前さえ残しておけば、文句の言いようがない。あけようや」
洪作「缶切りがないでしょう」
鳶「缶切りという奴は、俺たちにとって必需品だ。片時も肌身はなさないで持っている。下宿の飯だけでは栄養はつかん。専ら缶詰で育っているところがある」
(杉戸は読み終わった手紙の便箋を鳶と洪作に渡し)
杉戸「これを皿代わりにしろ・・・・・・手で割るぞ」
洪作「どうぞ」
「缶詰の内容物を大きな手で二つに割った」とあります。

四高の寮歌・北の都に秋たけて・・・

洪作たちは金石までトラックで運んでもらいましたが、「金石から砂丘のある海岸までは一里半ほどの道のりだった。幾つかの小さい集落を通ったが、どこも海に近いといった感じの松林の多い村であった」とあります。

下に昭和初期の粟ヶ崎村(現在の金沢市粟崎町付近)の写真を引用させていただきました。防風林の根が風による浸食により露出した「根上がり松」が連なる珍しい風景です。内灘砂丘への道中にもこちらのような風景があったかもしれません。

出典:石川県 編『石川県史』第五編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1921116 (参照 2024-02-22、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1921116/1/138

さらに海沿いの道を歩き「踏んで行く地面が白い砂に変わった頃から、鳶は四高の寮歌を歌い出した」とあります。
「北の都に秋たけて
われらはたちの夢数う
男おみなの住む国に
二八に帰るすべもなし」

下にはその時、鳶が歌った四高の南寮々歌(北の都)を引用させていただきました。鳶は「太い声だったが、節回しはなかなか上手だった」とのこと。ここでは、大天井が和して歌うところを想像してみましょう。

四高の寮歌・ああ幽冥の霧はれて・・・

鳶の後に杉戸も寮歌を歌いますが、こちらも南寮の寮歌でした。
「ああ幽冥の霧はれて
潮騒冴ゆる北の海
波路はるかに永劫の
さとしの星にあこがるる」

以下に引用させていただいた動画では、手拍子に合わせて力強く歌われていますが、杉戸は少し変調だったとのこと。鳶は、杉戸の歌に和そうとする大天井を制し「しまいまで歌わせてやれよ。いま一生懸命に練習の最中なんだ」といいました。

ここでは「変調であろうとなかろうと、そんなことにお構いなく、杉戸は歌うことに陶酔していた」という場面をイメージしておきます。

広大な砂丘

「四人は砂丘の一つに登った。すると行手にもう一つの砂丘が見えた」。以下は彼らの会話を抜粋します。
洪作「遠いんだな、海は」
鳶「一つの砂丘を越えると、また砂丘がある。海にまで行く道は遠い。―――人生またかくの如し」
大天井「柔道またかくの如しだ。優勝の道は遠い」
「大天井の場合は、確かに優勝の道は遠かった。まず何にしても四高にはいらないことには、優勝したくても優勝できないわけだった」

以下は昭和初期の内灘付近と思われる砂丘の写真です。説明書きには「全国稀有の広大なるものであるのみならず、塚に類した小丘が所々にあって、最も高い地点は五十三米に達する」とあります。ここでは、洪作たちが上半身裸になり、汗をかきながら歩く姿を想像してみましょう。

出典:石川県 [編]『石川県史』第5編,石川県,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1186905 (参照 2024-02-22、一部加工)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1186905/1/156

北の海

「四人は二つ目の砂丘に登った。そこで初めて、洪作は日本海の青い潮のうねりを見た。・・・・・・豪快な波の崩れ方だった。沼津の千本浜も、いつ行っても波が大きく崩れていたが、それとは比べようもないほど、この海岸の方がスケールが大きかった」とあります。

これが寮歌のいう「潮騒冴ゆる北の海」だと感激した洪作は、鳶たちに教えてもらいながら寮歌の練習をしました。ここでは下に引用させていただいた内灘海岸の写真のなかに洪作たちの姿を置いてみます。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/4209421&title=%E5%86%85%E7%81%98%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E3%81%AB%E6%89%93%E3%81%A1%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E3%81%AE%E8%8D%92%E6%B3%A2

砂浜で洪作がとんぼを切ると、大天井も「俺でもできるだろう」と真似をしようとします。遠山の二の舞いになることを恐れた洪作が必死に止めようと腰にしがみつくと、大天井の払い腰が飛んで来たとのこと。「裸だったから、器用に逃げた」とあります。

それを見ていた鳶は「裸というものは有難いものだな。大天井さんの払い腰が利かないじゃないか。よし、替わって、俺が相手になる」といって柔道の勝負を挑みました。

試合を終えて

「実力では、鳶は大天井の敵ではないに違いなかった」が「裸体であったことや・・・・・・大天井が夏稽古に出ていなかったこと」などが鳶に味方し、「たとえ最後の一本であるにしても、ともかく鳶に勝星をあげさせたのである」とのこと。
鳶は「『うおぅ!』と怒鳴った」、「洪作はいまの鳶が美しく頼もしく思えた」とあります。

試合後に鳶は柔道部の部歌を歌いました。下には金沢大学の公式サイトから同歌を引用させていただきます。なお、「北の海」に掲載されているのは二番の歌詞の一部です。

「―――仰げば高し先人の
築きし跡は華の塔
その高塔に鐘なりて・・・・・・」

次に変調の低い声で違う寮歌を歌ったのは杉戸です。
「ああ北海に海荒れて
狂瀾岩にとどろけば
さかまく波の果遠く
見よ北辰の影冴えて
北の都は永遠の
しじまの中に眠るかな」

下に動画を引用させていただきました。
洪作は「今まで聞いた四高の寮歌の中で、この歌が一番いいと思った」とあります。

しばらくすると、元気を取り戻した大天井が
「よし、洪作に俺の一番好きな歌を聞かせてやる。いつか、俺たちが夏の南下戦が終った時、京都で歌う歌だ。勝った時だけしか歌えない歌だ。勝利の歌だ。凱歌だ。勝者の歌だ。勝鬨だ」といって歌い出します。

「今日は師走の勝いくさ
血を盛る甕に霊なけば
比叡おろしに砕け散る
ああ没落の敵の陣」

歌い終わると「昔の四高の柔道部員は七年も続けて、この歌を歌ったんだ。それに替って、今は六高の奴が歌っている。俺はこの歌を歌いたいばかりに、毎年受験しては、落第して、苦労しとる。吝々しないで、早く俺を四高に入れろ」といい、さらに「早く入れろ」と声を張り上げました。

帰りは大変なことに!

帰りは内灘から金石駅まで引き返して電車に乗るのが確実でしたが、「まっすぐに歩いて行って沿線の駅に出る方が早い」と杉戸は主張します。

確かに内灘海岸周辺のマップ(下図)によると、内灘海岸から金石駅(現・金石バスターミナル)に向かうより、直接金沢駅方面を目指し、(県道17号沿いを走っていた)金石線の途中駅から乗り込む方が効率よく思えます。

洪作たちは杉戸の言葉を信じてもくもくと歩きますが、いっこうに電車の姿や金沢の街明りが見えてきません。「途中から夜になった。道の両側は田圃になっていて、時々小川を渡った。小川のあるところには、いつも蛍が舞っていた」とあります。下の写真のような幻想的な景色だったでしょうか。

結局、道に迷った洪作たちは、杉戸の下宿まで歩いて帰ることになりました。

出典:写真AC
https://www.photo-ac.com/main/detail/4881103&title=%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%AB

旅行などの情報

内灘砂丘

道場の休暇日を利用して大天井たちとともに遊びにいった場所です。長さ約9km・幅1kmにも渡る砂丘が続き、下に引用させていただいたような日本海の絶景を眺められます。また、こちらのビーチは石川県でも最大級の広さがあり、夏は海水浴場、5月には「世界の凧の祭典」などの会場としてもにぎわうスポットです。

井上靖氏は四高在学中、内灘砂丘に頻繁に訪れていて、砂丘に隣接した内灘町総合公園内には直筆をもとにした石碑「井上靖文学碑」が建立されています。こちらも併せてお立ち寄りください。

基本情報

【住所】石川県河北郡内灘町向粟崎〜宮坂、大根布
【アクセス】北鉄浅野川線・内灘駅から徒歩で約20分
【参考URL】https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4713