宮本輝著「地の星」の風景(その2)

新しい事業は?

老兵は死なず・・・

昭和26年4月16日に占領下の日本からアメリカに戻ったマッカーサーは19日に退任演説を行います。下に引用させていただいたのは演説中のマッカーサーです。熊吾が読んでいた新聞にも同様の写真があったかもしれません。この写真を見ながら「間違いなく、一つの時代が終わった・・・・次にいかなる時代が始まるのか、全く見当がつかなくなってきた」と思う熊吾の姿を想像してみます。この物語はそんな時代を背景にしてすすんでいきます。

音吉の帰還

この(昭和26年)当時、戦地から引き上げる人はまだたくさんいました。近くに住む鍛冶屋の中村音吉が帰還したのもこの頃でした。「わしは、何回死んだかわからん。熊のおじさん、わしは、ほんまに何回死んだかわからんのじゃ」という音吉に対し「とにかく、いまは体を休めることや。うまい物を食うて、ゆっくり休むことや」という熊吾。下に引用させていただいたのは昭和25年の復員兵の写真とのこと。この風景のどこかに音吉と熊吾の姿を置いてみます。

ダンスホールの計画

戦地から戻った後、精神が不安定で屋根に上って踊るなどの奇行があった音吉ですが、周囲の助けもあり鍛冶屋の仕事を再開します。その槌の音を聴いて立ち寄った熊吾に対し音吉は新しい商売を提案します。東京などで流行っているダンスホールをここ(城辺)に作ってみてはとのこと。熊吾もこの付近には「闘牛以外に何の娯楽もなく、若い者たちは身を持て余して、酒や博打を吐け口にするしかない」と事業の可能性を感じ失業中の妹夫妻にやらせてみようと考えます。下に引用させていただいたのは昭和初期のダンスホールの写真です。「若い男や女がそこに集まって、体をすり合わせて踊っているそうやなァし。信じられんような世の中になっしもて・・・」と音吉がいったのはこのような風景だったでしょうか。

玉水旅館にて

前回の闘牛の場面では熊吾が「わうどうの伊佐男」の罠を見破りますが、救われたのは漁師の網元「魚茂」の事業主・和田茂十でした。茂十から「城辺町(熊吾の故郷)で古い暖簾を持つ玉水という料理旅館」に招かれます。苦労して「魚茂」を立て直した茂十の人となりを認めた熊吾は(茂十が)県会議員になることを提案。自分がその選挙参謀になると宣言します。下に引用させていただいたのは三重県にある明治創業の料理旅館の写真です。ちなみに小説に登場する「玉水旅館」は実在した旅館で宮本輝氏も愛用されていたようです(残念ならが現在は閉館)。ここでは下の写真のお座敷にて、一般には出回らない高級な日本酒でもてなされながら議員当選への作戦について語る熊吾とそれに耳を傾ける魚茂の姿をイメージしてみます。

伸仁が野壺にはまる

小説の前半で印象的な場面を一つ。家のそばで歩いていた伸仁が突然いなくなったと妹の娘・千佐子が騒ぎ出します。熊吾が目を凝らして探すと「なすび畑と田んぼのあいだの草叢に、伸仁の手」が見えます。そこには全身を糞尿だらけにした伸仁の姿がありました。下に引用させていただいたのは今も残る野壺の写真です。野壺とは肥料に用いられた貴重な農業施設でした。後に茂十が伸仁に向かって「男は一遍は野壺にはまっといたほうがええ。あそこは、いろんな経験が溜まっちょるとこやけん」という場面があります。ちなみに皆さんは子供のころどこかに落ちた経験はおありでしょうか?ここでは写真のような穴に落ちてもがいている伸仁の姿を置いてみます。

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#ノツボ #のつぼ #野壺 #発見 #散歩

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愛南市場食堂

闘牛の後、茂十がお礼に大きな鯛を送る場面があるように昔から愛媛は鯛などの海鮮の名産地。今でも鯛めしや鯛そうめんなどのグルメ料理が人気です。ご紹介する市場食堂は深浦漁港の市場併設のレストランで新鮮な魚料理が安く食べられます。鯛のごまだれ丼などの定食のほか有名ブランド「愛南びやびや鰹」や「伊予の媛貴海(ひめたかみ)」なる高級魚スマの刺身などもおすすめです。
【住所】愛媛県南宇和郡愛南町鯆越166-4
【電話】0895-73-2556
【アクセス】松山道の津島岩松ICから
【参考サイト】https://jf-ainan.or.jp/publics/index/122/detail=1/b_id=260/r_id=22/