村上春樹「羊をめぐる冒険」の風景(その2)

離婚と耳専門モデルとの出会い

前回(羊をめぐる冒険の風景その1・参照)は「僕」が昔の彼女の葬儀に出席するまでの風景を追いました。葬儀から帰るとアパートには離婚した元妻がいて、結婚生活の思い出の品を全て持ち去っていきます。一方、仕事で出会った「耳専門の広告モデル」の不思議な魅力に惹かれた「僕」は、彼女を食事に誘い交際を開始しました。そして、その彼女は羊の物語が始まることを予言します。

別れた妻について

「僕」は女の葬儀の後、新宿で朝まで酒を飲みます。アパートに帰ると、一か月前に別れた妻が待っていました。

元妻は前作「1973年のピンボール(・・・の風景その2・参照)」で「一日に二十回も『ペニー・レイン』を(それもサビ抜きで)口ずさむ」と紹介されていた事務員でした。

また前々作「風の歌を聴け」のエピローグでは29歳になった「僕」が結婚生活について以下のように語っています。
「僕は結婚して東京で暮らしている。僕と妻はサム・ペキンパーの映画が来るたびに映画館に行き、帰りには日比谷公園でビールを二本ずつ飲み、鳩にポップコーンをまいてやる。サム・ペキンパーの映画の中では僕は『ガルシアの首』が気に入っているし、彼女は『コンボイ』が最高だと言う。ペキンパー以外の映画では、僕は「灰とダイヤモンド」が好きだし、彼女は「尼僧ヨアンナ」が好きだ。長く暮していると趣味でさえ似てくるのかもしれない。幸せか?と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない。」

下には「ガルシアの首」の予告編を引用させていただきました。

離婚について(回想)

離婚の経緯については「彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに転がり込んでしまった」とあります。妻が離婚の話を切りだしたのは「六月の日曜日の午後」、「僕は缶ビールのプルリングを指にはめて遊んでいた」時でした。

出典:G. Allen Morris III, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Beverage_pull_tab.jpg

上に引用した写真のように、当時缶飲料に用いられていたプルリングの多くは切り離し式でした。「僕」はこのようなプルリングを指にはめて寝転んでいたかもしれません。そのような風景をイメージしながら、妻が別れたいと言い出したときの会話を抜粋してみます。
僕「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ」
妻「どちらでもいいということ?」
僕「どちらでもいいわけじゃない・・・・・・君自身の問題だって言ってるだけさ」
妻「本当のことを言えば、あなたとは別れたくないわ」
僕「じゃあ別れなきゃいいさ」
妻「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」

元妻との会話

葬儀から帰った後のアパートでの元妻との会話を抜粋します。
僕「葬式だったんだ。それで式が終ってから新宿に出てずっと一人で飲んでたんだ」
元妻「何も説明しなくっていいのよ・・・・・・もう私には関係のないことだから」
僕「説明してるんじゃないよ。しゃべってるだけさ」

元妻「ねえ、私が死んだときもそんな風にお酒飲むの?」
僕「酒を飲んだのと葬式とは関係ないよ。関係あったのははじめの一杯か二杯さ」

元妻「残りの荷物をまとめに来たのよ。冬もののコートとか帽子とか、そんなもの。段ボール   の箱にまとめておいたから、手があいた時に運送屋さんまで運んでくれる?」
僕「家まで運んであげるよ」
元妻「いいのよ。来てほしくないの。わかるでしょ?」

彼女が出ていった後には彼女のものは何も残されていませんでした。寝室の引出しには「虫の喰った古いマフラーが一枚とハンガーが三本、防虫剤の包み」のみ、「本棚とレコード棚の1/3ばかりが消えていた。彼女が自分で買ったり。僕が彼女にプレゼントした本やレコードだった」とのこと。

出典:Flickr.,Strawberry Fields Forever 45 RPM record
https://www.flickr.com/photos/retroweb/15818449071

上には彼女が持っていたと思われる(?)「ペニー・レイン」の入ったビートルズの両A面シングルレコード「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の写真を引用しました。

また「アルバムを開いてみると彼女が写っている写真は一枚残らずはぎ取られていた。僕と彼女が一緒に写ったものは、彼女の部分だけがきちんと切り取られ、あとには僕だけが残されていた」とのこと。
「僕はいつも一人ぼっちで、そのあいだに山や川や鹿や猫の写真があった。まるで生まれた時も一人で、ずっと一人ぼっちで、これから先も一人というような気がした」とあります。

耳専門の広告モデル

そんな「僕」の前にある女性が現れます。
彼女は「耳専門の広告モデル」をしていて、「コンピューターのソフトウェア会社の広告コピーの下請け仕事」をしたときに知り合いました。

ちなみに「僕」の仕事については彼女に自己紹介する場面で以下のように述べられています。
「大学を出てから友だちと二人で小さな翻訳事務所を始めて、なんとかそれで食べてきた。三年ほど前からPR誌や広告関係の仕事にも手を広げて、そちらの方も順調に伸びている」

その時の仕事の内容については「広告代理店のディレクターが机の上に企画書と何枚からの大判のモノクロ写真を置いて、一週間のうちにこの写真につけるヘッドコピーを三種類用意してくれ、といった」とあります。「三枚の写真はどれも巨大な耳の写真だった」とのことです。

上に引用させていただいたのはピアスの耳モデルの写真です。こちらのような写真を見ながら僕が「一週間、耳の写真だけを眺めて暮らした」という場面を想像してみましょう。

フランス料理店にて

「彼女は二十一歳で、ほっそりとした素敵な体と魔力的なほどに完璧な形をした一組の耳を持っていた。彼女は小さな出版社のアルバイトの校正係であり、耳専門の広告モデルであり、品の良い内輪だけで構成されたささやかなクラブに属するコール・ガールでもあった」とのこと。

彼女の耳に魅了された「僕」は彼女を食事に誘い「これまでに行ったことのある中でいちばん高級なフランス料理店に電話をかけてテーブルを予約し」ました。

上に引用させていただいたのは有楽町の高級フレンチ「アピシウス」の海亀スープの写真です。「彼女はメニューを念入りに研究してから海亀のスープとグリーン・サラダと舌平目のムースを注文」とあります。この時提供されたのもこちらの写真のようなスープだったでしょうか。

オムレツとサンドイッチ

お店での「僕」と「耳のモデル(以下彼女)」との会話を抜粋してみます。
彼女「なかなか素敵なお店ね・・・・・・よく来るの?」
僕「仕事がらみでたまに来るだけさ。どちらかというと一人の時はレストランなんかよりはバーでありあわせのものを食べる方が性にあってるんだ。・・・・・・」
彼女「バーでいつもどんなものを食べるの?」
僕「いろいろだけど、まあオムレツとサンドウィッチが多いね」
彼女「なぜオムレツとサンドウィッチなの?」
僕「良いバーはうまいオムレツとサンドウィッチを出すものなんだ」
彼女「ふうん・・・・・・変わった人ね」

上に引用させていただいたのはベルギー発祥のベーカリーレストラン「ル・パン・コティディアン」のハムとチーズのオムレツの写真です。ここでは、こちらの料理をウイスキーを飲みながらつまむ僕の姿を想像しておきます。

ファラ・フォーセットの鼻

彼女「仕事の話でしょ」
僕「昨日も言ったように、仕事はもう完全に終わっているんだ。問題もない。だから話はないんだよ・・・・・・どうしても君の耳が見たかったんだ・・・・・・迷惑だったかな?」
彼女「でもないのよ。話す角度によって。ね・・・・・・正直に話して。それがいちばん好きな角度だから」
僕「僕が角を曲がる・・・・・・すると僕の前にいた誰かはもう次の角を曲がっている。その誰かの姿は見えない。その白い裾がちらりと見えるだけなんだ。でもその裾の白さだけがいつでも目の奥に焼きついて離れない。・・・・・・僕が君の耳から感じるのは、そういったことなんだ」
彼女「ファラ・フォーセット・メジャーズの鼻を見るたびにくしゃみが出る人を知っているわよ」

上にはそのファラ・フォーセットの写真を引用させていただきました。テレビドラマ「チャーリーズ・エンジェル」や映画「キャノンボール」などにも出演した有名な女優で、整った鼻が魅力的です。

僕「ファラ・フォーセット・メジャーズの鼻のことはよく知らないけれど」
彼女「それとは少し違うのね?」
僕「僕の受ける感情はものすごく漠然としていて、しかもソリッドなんだ」

彼女「あなたは私の耳とあなたの感情の相関関係がまだよくつかめないのね」
僕「そうなんだ・・・・・それで僕はどうすればいいのかな?」
彼女「私たちはお友だちになった方がいいと思うの。・・・・・それも、とてもとても親しい友だちになるのよ」

耳の開放

料理のコースが終了して、「エスプレッソコーヒーが出たところで、僕は火を点けた。・・・・・・天井のスピーカーからはモーツァルトのコンチェルトが流れていた。」とあります。

下にはモーツァルトの「ホルン協奏曲第1番」の演奏を引用させていただきました。軽快なホルンの音が食をすすませてくれそうです。

彼女「あなたのために耳を出してもいいわ」
そういって「彼女はハンドバッグから黒いヘア・バンドを取り出すとそれを口にくわえ、両手で髪をかかえるようにして後ろにまわして素早く束ね」ました。

「僕は息を呑み、呆然と彼女を眺めた。口はからからに乾いて、体のどこからも声はでてこなかった・・・・・・彼女は非現実的なまでに美しかった」とあります。

僕「君はすごいよ」
彼女「知ってるわ・・・・・・これが耳を開放した状態なの」
「何人かの客が振り向いて、我々のテーブルを放心したように眺めていた。コーヒーを注ぎに来たウェイターは、うまくコーヒーが注げなかった」。
「テープデッキのリールだけがゆっくりとまわりつづけていた」とあります。

下には1968年のSONY製テープデッキの写真を引用しました。
静寂の中、モーツァルトのコンチェルトだけが流れているシーンを想像してみましょう。

出典:Flickr,Concertone 790 reel-to-reel tape recorder
https://www.flickr.com/photos/41002268@N03/4825199407

彼女の予言

彼女と付き合い始めたある日、「僕」の家で2人でくつろいでいると・・・・・・
彼女「ねえ、あと十分ばかりで大事な電話がかかってくるわよ」
僕「電話?」
「僕はベッドのわきの黒い電話機に目をやった」とのこと。下に引用させていただいたような黒電話だったと思われます。

出典:Tomomarusan, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kurodenwa.JPG

彼女「羊のことよ。・・・・・・たくさんの羊と一頭の羊」
僕「羊?」
彼女「うん・・・・・・そして冒険が始まるの」

彼女の言った通り「少しあとで枕もとの電話が鳴った」
共同経営者「すぐこっちに来てくれないか・・・・・・とても大事な話なんだ」
僕「どの程度に大事なんだ」
共同経営者「来ればわかるよ」
僕「どうせ羊の話だろう」
「受話器が氷河のように冷たくなった」とあります。

旅行などの情報

アピシウス

アピシウスは「耳専門の広告モデル」とデートをする場面で料理の写真を引用させていただいたフランス料理店です。名物の一つ「小笠原産母島の青海亀のコンソメスープ」の他、メニューには「鴨胸肉のロティ」や「国産鮑のステーキ・ロッシーニ風」、「ブイヤベース・アビシウス風」などの豪華なメイン料理が並んでいます。

下には華やかな店内の写真を引用させていただきました。こちらの写真からも美味しい料理を食べながら会話をする僕と「耳専門モデル」との姿をイメージすることができます。

基本情報

【住所】東京都千代田区有楽町1-9-4蚕糸会館ビル地下1階
【アクセス】有楽町駅から徒歩2分
【公式URL】http://www.apicius.co.jp/

ル・パン・コティディアン

オムレツとサンドイッチが美味しいお店として写真を引用させていただいた「ル・パン・コティディアン」は、全世界に支店を展開するベルギー生まれのベーカリーレストランです。

サンドウィッチは「タルティーヌ」という具材を乗せるスタイルになっていて「サーモン」や「シュリンプ&アボカド」などが時間替わりで提供されます。また、オムレツも「スモークサーモン」や「マッシュルーム」、「ハム&グリエールチーズ」と種類が豊富です。コーヒーや紅茶、オーガニック飲料のほかビールやワインとドリンクも多彩なラインナップがあります。

上に引用させていただいた写真(東京オペラシティ店)のように店構えもおしゃれなので、「バー」に入った気分で過ごしてみてはいかがでしょうか?

基本情報

【住所】東京都新宿区西新宿3-20-2東京オペラシティ1F(東京オペラシティ店)
【アクセス】京王新線初台駅から徒歩3分
【参考URL】https://www.lepainquotidien.com/jp/ja/