村上春樹「羊をめぐる冒険」の風景(その4)

鼠からの依頼

前回は1979年9月に奇妙な男がやってきて、「僕」の手がけたPR誌の発行停止などを求めるシーンまでの可視化を試みました(羊をめぐる冒険の風景その3・参照)。今回は時間を少し戻して、「羊をめぐる冒険」のきっかけとなった旧友「鼠」からの手紙の内容を覗いてみます。また、彼の依頼に応えて、久しぶりに故郷に帰る僕のあとを追ってみましょう。

北海道からの手紙

1978年の5月、「鼠(注)」からの手紙が届きます。書かれていたのは2つの依頼でした。
一つ目はジェイ(ジェイズ・バーのマスター)と「鼠」の元恋人の2人に「僕からのさよならを伝えてほしい」ということ、
二つ目はちょっと変わった頼みで「一枚の写真を同封する。羊の写真だ。これをどこでもいいから人目につくようなところにもちだしてほしい」というものでした。

二つ目の「羊の写真」についてはPR誌に掲載することで鼠の依頼に応えますが、このPR誌が「奇妙な男」の目に留まり、「羊をめぐる冒険」が始まることになります。

手紙のなかで「鼠」は「郵便ポストにたどり着くまでにジープで一時間半もかかるんだ」といっています。上の写真は「羊をめぐる冒険」の舞台の候補地・松山農場の麓にある仁宇布(にうぷ)簡易郵便局周辺のストリートビューです。

ここでは、右にある白い車をジープに見立てさせていただき、こちらの郵便局のポストに手紙を入れる「鼠」の姿を想像してみましょう。
(注)鼠:「僕」の大学時代の親友で「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」などでも登場。5年前に突然、街(芦屋市)を出て以来連絡が途絶えていた。

街にもどる

二人の人物に別れを告げるという「鼠」の一つ目の依頼に応えるために「僕」は故郷に帰ります。
「僕が街に戻ったのは六月だった。僕は適当な理由をでっちあげて三日間の休暇を取り、一人で火曜日の朝の新幹線に乗った」とあります。下には当時の新幹線(0系)の写真を引用しました。

出典:Cassiopeia sweet, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinkansen_type_0_Hikari_19890506a.jpg

また、その時の「僕」の姿は「白い半袖のスポーツ・シャツと膝が抜けかかったグリーンのコットン・パンツ、白いテニス・シューズ、荷物はなし、朝起きて髭を剃るのさえ忘れていた」というものでした。

下に引用したのは1971年の新幹線内の写真です。このように平日朝の車内にはスーツ姿のサラリーマンが多いため、「僕」の格好は少し目立ったかもしれません。ここでは、このような空間で「僕」が「何杯かの缶ビールとパサパサとしたハム・サンドウィッチ」を食べているところをイメージしてみます。

出典:wilford peloquin, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:71-1204_Bullet_train_to_Kyoto_1971_(51367419693).jpg

ジェイズ・バーへ

街に戻って最初に行ったのは、学生時代の帰省時に鼠とともに毎日のように通ったジェイズ・バーです。
「鼠の手紙を取り出してジェイに渡した。ジェイはタオルで手を拭いて二通の手紙にさっと目を通し、それからもう一度言葉を追って読んだ」とあります。

上に引用させていただいたのは映画「風の歌を聴け」のジェイズ・バーでの一場面です。小林薫さん(僕・画面中央)と坂田明さん(ジェイ・画面奧)の姿をお借りして、以下の二人の会話(抜粋)をイメージしてみます。

ジェイ「ちゃんと生きてたんだね」
僕「生きてるさ」
と「鼠」の動向を伝えます。なお、ジェイズ・バーは三代めとなり、エレベーターが付いたビルの三階に移転していました。

ジェイ「どうだい。店が変っちまって落ち着かないだろう」
僕「そんなことはないよ・・・・・・時代が変わったんだよ・・・・・・みんな入れ替わっていくんだ。文句はいえない」

ジェイ「あんたたちの世代は・・・・・・」
僕「もう終わったんだね?」
ジェイ「ある意味ではね」
僕「歌は終った。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」

海で缶ビールを

ジェイに「鼠」の言葉を伝えた「僕」は混みだしたジェイズ・バーを後にします。そして「川沿いの道」を「水の流れとともに」歩き、「途中にあった酒屋で缶ビールを二本買って紙袋に入れてもらい、それを下げて海まで歩いた」とあります。

そして「僕」は「五十メートルぶんだけ残されたなつかしい海岸線」にたどり着きます。下に引用したのはこの「海岸線」のモデルとされる芦屋川河口のストリートビューです。

更に「僕は川を離れかつての海岸道路に沿って東に歩いた。不思議なことに古い防波堤はまだ残っていた。海を失った防波堤はなんだか奇妙な存在だった。僕は昔よく車を停めて海を眺めていたあたりで立ちどまり、防波堤に腰かけてビールを飲んだ」とあります。

芦屋川河口の東には、ストリートビュー(下図右下)のように今でも古い防波堤が残っています。ここでは「二本の缶ビールを飲んでしまうと、空缶をひとつずつ、かつては海だった埋立地に向けて思い切り放った。空缶は風に揺れる雑草の海の中に吸い込まれていった」という風景をイメージしてみます。この後、警備員がやってきてひと悶着ありますが・・・・・・。

ホテルで映画を

「僕」はもう一つのミッションを果たすために「鼠」の元恋人に電話をします。
僕「手紙を預かってきたんです」
元恋人「私に?」
僕「本当は僕あての手紙なんだけど、なんだかあなたにあてたものじゃないかっていう気がしたんです」
元恋人「そんな気がしたのね」
そして次の日に宿泊しているホテルのコーヒー・ハウスで会うことになりました。

「僕」は電話のあとシャワーを浴び、テレビで「古い潜水艦もののアメリカ映画を観た」とのこと。内容は「艦長と副艦長がいがみあっているうえに潜水艦は老朽品で、おまけに誰かが閉所恐怖症という惨めな筋だったが、結局最後には何もかもがうまくいった」という内容でした。

下に引用させていただいたのは「深く静かに潜航せよ」という1958年のアメリカ映画の予告編です。クラーク・ゲーブル(艦長)とバート・ランカスター(副艦長)が競演した映画で2人が対立する場面があるのは「僕」が観た映画と似ています。

ここでは「こんな何もかもうまくいくなら戦争もそれほど悪くはない、といった感じの映画だった。そのうちに核戦争で人類は死滅したが、結局は何もかもがうまくいった、という映画ができるかもしれない」といってテレビのスイッチを切る「僕」の姿をイメージしておきます。

ホテルのコーヒー・ハウスで

ホテルのコーヒー・ハウスで「僕」が待っていると「遅くなってごめんなさい。・・・・・・仕事が長びいちゃって、どうしても抜けられなかったの」と鼠の元恋人がやってきます。

彼女は「ゆったりとした白い綿のズボンをはき、オレンジと黄色のチェックのシャツの袖を肘まで折り返し、皮のショルダー・バッグを肩からさげていた。・・・・・・指輪もネックレスもブレスレットもピアスも何もない。短い前髪をさりげなく横に流していた」という姿でした。

「六時を過ぎて、ラウンジはカクテルアワーに入」ると彼女は「ソルティドッグ」を「僕」は「カティー・サークのオン・ザ・ロック」を注文します。ここでは美味しそうなソルティドッグの写真を引用させていただき、以下の会話(抜粋)のシーンを想像してみましょう。

元恋人「いつから彼と友だちなの?」
僕「もう十一年ですね。あなたは?」
元恋人「二ヵ月と十日。日記をつけてるから覚えてるの・・・・・・あの人が消えてから、三ヵ月待ったわ。・・・・・・ある限られた期間に待つことを集中してしまうと、もうそのあとはどうでもよくなってしまうの。・・・・・・」
彼女は鼠に会う五年前に離婚し、この街にやってきたとのこと。家と会社を往復するだけという非現実的な暮らしをしていました。

元恋人「私の非現実性を打ち破るには、あの人の非現実性が必要なんだって気がしたのよ。・・・・・・時々こう思うの。結果的に私はあの人を利用していたんじゃないかってね。そして彼はそれをはじめからずっと感じとっていたんじゃないかしらってね。そう思う?」
僕「わからないな・・・・・・それはあなたと彼とのあいだの問題だから」

「僕」は「二本目の煙草に火を点け、二杯めのウィスキーを注文した。二杯めのウィスキーというのが僕は一番好きだ。一杯めのウィスキーでほっとした気分になり、二杯めのウィスキーで頭がまともになる。三杯めから先は味なんてない」とあります。上にはカティサークジャパンの公式SNSの動画を引用させていただきました。

このようにして「鼠」からの手紙を彼女に渡した「僕」は全てのミッションを終了し、東京へ戻ります。

旅行などの情報

芦屋川周辺

「僕」が神戸のジェイズ・バーの帰りに立ち寄った「五十メートルぶんだけ」の海岸は今でも見ることができます。また、広域にわたって残された「古い防波堤」には多彩なペイントが施されているので、散策がより楽しくなるでしょう。

ほかにも、「僕」が散策した川の上流には「業平さくら通り」という桜の名所があり、春には下に引用させていただいたような花見の名所となります。こちらは秋の紅葉も見事なので「羊をめぐる冒険」の舞台めぐりのルートに加えてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】兵庫県芦屋市西山町1(阪急芦屋川駅)
【アクセス】神戸三宮駅から電車で約15分
【参考URL】https://ashi2.jp/

ピノッキオ

今後、「羊をめぐる冒険」の主な舞台は北海道へと移るため、「僕」の故郷の近くで人気のレストランを一つ紹介しておきます。「ピノッキオ」は村上春樹氏が学生時代から利用する有名なスポットでノーベル賞の発表時にはファンが集まることでも知られています。

看板メニューは下に引用させていただいた「ピノッキオピザ」です。ホワイトソースとモッツァレラチーズの濃厚な味と、クリスピー生地のサクサク食感を楽しめます。小説の舞台めぐりの締めにファンの聖地といわれるお店に立ち寄ってみてください。

基本情報

【住所】兵庫県神戸市中央区中山手通2丁目3-13
【アクセス】神戸三宮駅から徒歩約10分
【参考URL】http://www.collodi.co.jp/pinocchio_top/