宮沢賢治「風の又三郎」の風景(その1)

小さな村に転校生が!

大正から昭和初期にかけての夏休み明け、在校生が教室をのぞくと見知らぬ子が座っています。そしてその子は、服装や顔つきも村の子どもたちとは違う都会的な雰囲気をまとっていました。転校生は高田三郎という名前でしたが、強い風の吹く二百十日にやってきたため、同級生の嘉助は風の神様・風の又三郎に違いないと考えます。

小学校のモデル

「谷川の岸に小さな学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。」

下には、小学校のモデルの一つとされ、1957年(昭和32年)の東映教育映画「風の又三郎」のロケ地として使われた「木細工分教場跡」のストリートビューを引用いたしました。

ほかにも花巻周辺には「風の又三郎」の「小さな学校」のモデルとされる場所が2か所ほどあります。

ひとつは20坪(約66㎡)の教室一つと12.5坪(約41㎡)の控所・教員住宅があった「火ノ又分教場跡(旭ノ又小学校跡)」です。大正5年(1916年)に開校し1982年に閉校。跡地には公民館が建てられていて、入口には「宮沢賢治・風野又三郎風景地」の石碑が設置されています。
なお、「風野又三郎」は「風の又三郎」の初期作品で、「又三郎」は「風の精」として描かれました。「小さな学校」についての描写も以下のように少し違っています。

「谷川の岸に小さな四角な学校がありました。学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜(たまり)も教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。」

もう一つは「沢崎分教場跡」でこちらの前には「宮沢賢治・風の又三郎風景地」という石碑が立っています。下のストリートビューのようにすぐ後ろは山が迫っていて「風の又三郎」の「小さな学校」の雰囲気を感じられそうです。

風の強い日

「さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。」
九月一日ごろは立春からの日数で「二百十日」とも呼ばれます。台風が発生しやすくなる時期とされ、農作物のできが決まる重要な時期です。

「どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう」

このように風が吹き荒れる日、村に転校生がやってきますが、子供たちは何も知らずに「小さな学校」に入っていきました。以下にストーリーを引用してみます。

「黒い雪袴(ゆきばかま)をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、『ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。』とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。」

下には明治44年に建てられた旧上岡小学校(茨城県久慈郡大子町)の写真を引用いたしました。ここでは開いた窓から一年生が教室を覗いているところをイメージしてみます。

出典:雨宮千夏, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、 旧上岡小学校一号棟教室
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%97%A7%E4%B8%8A%E5%B2%A1%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%80%E5%8F%B7%E6%A3%9F%E6%95%99%E5%AE%A4_02.jpg

「というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。」

その後、嘉助や佐太郎、耕助などが次々と登校してきますが、教室に「赤毛のおかしな子」がいるのを見て困惑します。あとからやってきた最年長(六年生)の一郎は事情を聴くと、その子に対し以下のように呼びかけます。

一郎「だれだ、時間にならないに教室へはいってるのは。」
耕助「お天気のいい時教室さはいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」
嘉助「しからえでもおら知らないよ。」
一郎「早ぐ出はって来こ、出はって来。」
「けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。」

出典:花巻市役所公式サイト、集合写真編、大正の頃の卒業記念写真
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/index.html

「ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。」
上に引用させていただいたのは大正時代の(尋常)小学校の卒業写真です。羽織袴姿に混じって、洋装(学生服)の子もちらほら見られます。ここでは例えば、左端の学生服を着た子を「赤毛のおかしな子」に見立ててみましょう。
その子は服装や髪型だけでなく顔つきも地元の子とは違っていました。

「それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。」

「あいづは外国人だな。・・・・・・学校さはいるのだな。・・・・・・」
などと、みんながガヤガヤといっていると
「そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱(かや)や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。」

すると嘉助がすぐ叫びました。
「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ。」

上には「八ヶ岳おろし(風の三郎様)」により揺れる木々の動画を引用させていただきました。学校のうしろの山の萱や栗の木もこちらのようだったかもしれません。

なお、賢治は一部地域での風の神の名前「風の三郎様」から「風の又三郎」の着想を得たともされています。「風の三郎様」のことを賢治に伝えたのは盛岡高等農林学校時代の親友・保阪嘉内(下に写真を引用)で、「銀河鉄道の夜(・・・の風景その1・参照)」のカムパネルラのモデルの一人とされる人物です。

出典:metac.cocolog-nifty.com, Public domain, via Wikimedia Commons、盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと(後列左)。嘉内の右が宮沢賢治。前列は左が小菅健吉、右が河本義行。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Miyazawa_Kenji_and_group.jpg

また、実際に彼の地元山梨には「風の三郎社」という暴風雨除けの祠があり、賢治のファンも訪れるそうです。下にはその写真を引用させていただきました。赤い祠(利根神社)の右側の苔むした小さな祠が「風の三郎社」です。

出典:八ヶ岳歩こう会公式サイト、風切りの里を歩く~三社参りの道~
https://ywa.jp/

始業を待つ子供たちは外でけんかを始め、気がつくと「変な子」は教室からいなくなっていました。
「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」
「二百十日で来たのだな。」
「靴はいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」
「髪赤くておかしやづだったな。・・・・・・」

又三郎の正体

子供たちが噂をしていると
「これはまたなんというわけでしょう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポをかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。」

先生「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」
「先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻ってきました。すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。」

上に引用させていただいたのは昭和時代、夏休みが終わって久しぶりに登校したときの「前へならえ」の写真とのこと。「風の又三郎」の子供たちもこちらのようによく日焼けしていたことでしょう。

「変な子」を5年生の列に並ばせた先生は、もう一度「前へならえ。」と号令をかけます。
「みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。・・・・・・」

その後、生徒たちは先生にうながされて教室に入ります。
先生「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹にも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。」

下には宮沢賢治も遊んだ豊沢川の写真を引用させていただきました。こちらで「風の又三郎」に登場する子供たちが元気よく泳いでいるシーンを想像してみましょう。

出典:花巻ビュー公式サイト、賢治さんと豊沢川、夏の豊沢川
https://hanamaki.hatenablog.com/archive

先生「けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾いや魚とりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。
皆が手を下ろしたあと、嘉助が再度手をあげます。
嘉助「先生。」
先生「はい。」
嘉助「高田さん名はなんて言うべな。」
先生「高田三郎さんです。」
嘉助「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」
「嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。」

夏休みの宿題

先生はまた言いました。
「きょうはみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
「みんなはばたばた鞄をあけたりふろしきをといたりして、通信簿と宿題を机の上に出しました。そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。」
下には大正時代に「東京府師範学校同窓会」が編集した「夏休の練習」の表紙の写真を引用させていただきました。こちらは東京エリアの宿題帳とのことですが、「風の又三郎」の舞台である岩手にも類似の教材があったと思われます。

出典:東京都庁公式サイト、東京都公文書館、80年前の夏休みの宿題帳~公文書館のイチ押し資料
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-archives/07edo_tokyo/0701syoko_kara09

先生「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しますから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治さんと良作さんとですね。ではきょうはここまでです。あしたからちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除をしましょう。ではここまで。」

高田三郎の父も謎の人物!

二学期の始業式の日、学校には高田三郎の父も来ていました。以下は先生が宿題を集める場面の引用(続き)です。
「・・・・・・そして先生が一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人が立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。」
大正から昭和にかけては夏の正装として白麻の背広が流行しました。高田三郎の父も、下に引用した広告見本のような服を着ていたと想像してみます。

出典:清水正巳 著『意匠文案満載必ず利くチラシの拵らへ方』,佐藤出版部,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/955172 (参照 2025-03-15、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/955172/1/62

一郎は掃除をしながら先生に質問します。
一郎「先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」
先生「そうです。」
一郎「なんの用で来たべ。」
先生「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」
一郎「どこらあだりだべな。」
先生「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」
一郎「モリブデン何にするべな。」
先生「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

嘉助「そだら又三郎も掘るべが。」
佐太郎「又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」
嘉助「又三郎だ又三郎だ。」
一郎「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ。」
嘉助「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」
「嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。」

旅行などの情報

早池峰と賢治の展示館

宮沢賢治の童話「猫の事務所」のモデルとされる旧稗貫郡役所を復元した展示館で下に引用させていただいたように黒猫の事務長がお出迎えしてくれます。

賢治は地質調査のためにこの地を何度も訪れていて、常宿とした旧石川旅館での宴会の再現コーナーも見どころです。また、本文でご紹介したように高田三郎の父が勤務する鉱山のモデル「猫山鉱山」で採掘されたモリブデン鉱石も展示されていて、「風の又三郎」の世界観にも触れることができるでしょう。ほかにも賢治の童話などを多数所蔵する「賢治文庫」もあるので、ゆっくりと過ごしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】岩手県花巻市大迫町大迫3-161
【アクセス】JR新花巻駅から車で約20分
【参考URL】https://www.city.hanamaki.iwate.jp/index.html

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