種田山頭火「行乞記」の風景(その1)

旅立ち

山頭火が「行乞記」の旅に出たのは昭和5年。世界恐慌による経済悪化を受け、日本では軍部が台頭し、軍国主義への道を歩み始めました。行乞をしながら南九州をめぐるなかで、山頭火はさまざまな人や風景と出会い、数多くの句を残します。ここでは、当時の写真や記録などを参照しながら、山頭火の旅の風景を追っていきましょう。

主な出典:青空文庫、行乞記(ぎょうこつき)、底本:山頭火全集 第三巻、出版社: 春陽堂書店、入力:「さくらんぼ」氏、校正:小林繁雄氏、門田裕志氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000146/card44913.html
下には種田山頭火についてのウィキペディアの記述を引用いたしました。

1882年〈明治15年〉12月3日 – 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。

山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。

出典:ウィキペディア、種田山頭火
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%A0%AD%E7%81%AB

以下に引用したのは行乞姿の山頭火の写真です。山頭火はこちらのような姿で托鉢をしながら、旅をしていました。

出典:国会図書館・近代日本人の肖像、種田山頭火
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6391

われはけふゆく・八代

「行乞記」の最初の宿泊地は熊本・八代でした。八代は肥後熊本藩第2の城下町として栄えた場所。戦後となりますが、内田百閒は「阿房列車」と名付けた列車旅で八代を何度も訪問しています(第一阿房列車の風景その4・参照)。
以下には「行乞記」のルートについて、八代市公式サイトより引用させていただきました。

昭和5年9月、山頭火は再び放浪の旅に出ました。その記録(『行乞記』)には「愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はない」と書いています。この旅で山頭火が最初に訪れたのが八代でした。
9 月9 日、汽車で八代着。宿は萩原塘吾妻屋。
9 月10 日、午前八代町で行乞。午後に日奈久へ移動。宿は日奈久織屋。
この日の『行乞記』に、「温泉はよい、ほんたうによい、こゝは山もよし海もよし」と記述。
山頭火は 13 日に日奈久から佐敷へ移動。その後、人吉、都城、宮崎、湯布院、門司、福岡と巡り、同年 12 月に熊本に帰着
しました。

出典:八代市公式サイト、八代市立博物館未来の森ミュージアム 展示解説シートより引用
https://www.city.yatsushiro.lg.jp/

「このみちや
いくたりゆきし
われはけふゆく

しづけさは
死ぬるばかりの
水がながれて

九月九日 晴、八代町、萩原塘、吾妻屋(三五・中)

私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
七時の汽車で宇土へ、宿においてあつた荷物を受取つて、九時の汽車で更に八代へ、宿をきめてから、十一時より三時まで市街行乞、夜は餞別のゲルトを飲みつくした。
同宿四人、無駄話がとりどりに面白かつた、殊に宇部の乞食爺さんの話、球磨の百万長者の慾深い話などは興味深いものであつた。」
山頭火による木賃宿「吾妻屋」の情報は(三五・中)、宿の料金が35銭、山頭火の評価が「中」とあります。また「ゲルト」はドイツ語でお金のことです。

出典:熊本県八代郡宮地国民学校, 熊本県八代郡宮地村立宮地青年学校 [編]『宮地郷土史読本』,熊本県八代郡宮地国民学校,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1053970 (参照 2026-01-29、一部抜粋)、萩原堤
https://dl.ndl.go.jp/pid/1053970/1/87

上には昭和初期の萩原塘(萩原堤)の写真を引用いたしました。こちらは球磨川の洪水から八代の城下を守るため築かれたもので、名勝地としても知られています。

萩原堤には上のストリートビューのように、「行乞記」冒頭の句「このみちや いくたりゆきし われはけふゆく」が刻まれた句碑が建立されています。山頭火も宿のそばからこちらのような絶景を眺めていたかもしれません。

ほんたうによい・日奈久温泉

 「九月十日 晴、二百廿日、行程三里、日奈久温泉、織屋(四〇・上)

午前中八代町行乞、午後は重い足をひきずつて日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路さん夫婦とまたいつしよになつた。
方々の友へ久振に――ほんたうに久振に――音信する、その中に、――
……私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へ出ました、……歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます。
温泉はよい、ほんたうによい、こゝは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、――いや一生動きたくないのだが(それほど私は疲れてゐるのだ)。」
下には現在は観光スポットとして保存されている木賃宿・織屋の写真を引用させていただきます。なお、こちらは山頭火が宿泊した宿のなかで唯一残っている建物とされています。ここでは、お遍路さん夫婦などと雑談を交わす山頭火の姿をイメージしてみましょう。

 「九月十一日 晴、滞在。

午前中行乞、午後は休養、此宿は夫婦揃つて好人物で、一泊四十銭では勿躰ないほどである。」
「行乞記」にもあるように、木賃宿は相部屋が原則で、行商人や旅役者、遍路、旅僧といった利用客が多かったとのことです。「木賃宿」についての説明をウィキペディアから引用いたします。

本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、棒鼻と呼ばれた宿場町の外れに位置し、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、食事は宿泊客が米など食材を出しあい、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。

出典:ウィキペディア・木賃宿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B3%83%E5%AE%BF

 「九月十二日 晴、休養。

入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と共に活動見物、あんまりいろいろの事が考へ出されるから。」
昭和4年の「熊本県下市町村要覧」という資料によると、日奈久町の映画館は「曙座」という名称でした。

出典:九州新聞社調査部 編『熊本県下市町村要覧 : 昭和御大典記念』,九州新聞社出版部,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1036942 (参照 2026-01-30、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1036942/1/92

山頭火がどのような映画を見たかについての情報は見つけられませんでしたが、ウィキペディア・1930年の日本公開映画によると、昭和5年の9月ごろに公開された映画の一つとしてジャズ・シンガー(アメリカ)があります。下にはその一部を切り出した予告編を引用させていただきました。

脚気が悪化した・佐敷町

 「九月十三日 曇、時雨、佐敷町、川端屋(四〇・上)

八時出発、二見まで歩く、一里ばかり、九時の汽車で佐敷へ、三時間行乞、やつと食べて泊るだけいたゞいた。
此宿もよい、爺さん婆さん息子さんみんな深切だつた。
夜は早く寝る、脚気が悪くて何をする元気もない。」

旧佐敷町(芦北町)にある浄土真宗・勝延寺の近くには上のストリートビューのような山頭火句碑が建立されています。こちらの近くに川端屋があったのでしょうか(確認はできておりません)。

「行乞記」を書きはじめた・人吉

 「九月十四日 晴、朝夕の涼しさ、日中の暑さ、人吉町、宮川屋(三五・上)

球磨川づたひに五里歩いた、水も山もうつくしかつた、筧の水を何杯飲んだことだらう。
一勝地で泊るつもりだつたが、汽車でこゝまで来た、やつぱりさみしい、さみしい。」
下には山頭火がここまで歩いて汽車に乗ったと思われる「一勝地駅」のストリートビューを掲載いたします。大正3年に建てられた歴史のある建築物で、勝負事にご利益がありそうな駅名のため「必勝お守り記念入場券」が人気とのことです。

「郵便局で留置の書信七通受取る、友の温情は何物よりも嬉しい、読んでゐるうちにほろりとする。
行乞相があまりよくない、句も出来ない、そして追憶が乱れ雲のやうに胸中を右往左往して困る。……
一刻も早くアルコールとカルモチンとを揚棄しなければならない、アルコールでカモフラージした私はしみじみ嫌になつた、アルコールの仮面を離れては存在しえないやうな私ならばさつそくカルモチンを二百瓦飲め(先日はゲルトがなくて百瓦しか飲めなくて死にそこなつた、とんだ生恥を晒したことだ!)。
   呪うべき句を三つ四つ
 蝉しぐれ死に場所をさがしてゐるのか
・青葉に寝ころぶや死を感じつゝ
 毒薬をふところにして天の川
・しづけさは死ぬるばかりの水が流れて
熊本を出発するとき、これまでの日記や手記はすべて焼き捨てゝしまつたが、記憶に残つた句を整理した、即ち、
・けふのみちのたんぽゝ咲いた
・嵐の中の墓がある
 炭坑街大きな雪が降りだした
    □
・朝は涼しい草鞋踏みしめて
 炎天の熊本よさらば
・蓑虫も涼しい風に吹かれをり
 熊が手をあげてゐる藷の一切れだ(動物園)
・あの雲がおとした雨か濡れてゐる
・さうろうとして水をさがすや蜩に
・岩かげまさしく水が湧いてゐる
・こゝで泊らうつくつくぼうし
・寝ころべば露草だつた
・ゆふべひそけくラヂオが物を思はせる
・炎天の下を何処へ行く
・壁をまともに何考へてゐた
・大地したしう投げだして手を足を
・雲かげふかい水底の顔をのぞく
・旅のいくにち赤い尿して
・さゝげまつる鉄鉢の日ざかり
単に句を整理するばかりぢやない、私は今、私の過去一切を清算しなければならなくなつてゐるのである、たゞ捨てゝも/\捨てきれないものに涙が流れるのである。
私もやうやく『行乞記』を書きだすことが出来るやうになつた。――
私はまた旅に出た。――
所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だつた、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。
私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。
………………」
「私もやうやく『行乞記』を書きだすことが出来るやうになつた。」とあるように、「行乞記」は人吉・宮川屋で書き始められます。下には「宮川屋」の所在地についての貴重な情報を「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」様の公式WEBサイトから引用させていただきました。

熊本県人吉市の那須先生から、お便りをいただきました。
山頭火ファンの共有の情報としたいので、公表させていただきます。

「山頭火行乞記」の書き出しの名文は、人吉の宮川屋という宿屋で生まれました。

その「山頭火の宮川屋」の所在地が、謎のままで特定できてなかったのですが、ついに判明したのです。

(中略)
「宮川屋を検証する会」の歯科医をされている那須智治さん(71)の調査の結果です。
その場所は、昭和19年の山田川山津波によって流出され跡形もなくなっているそうです。
現地は復旧されないまま山田川河川敷となり、宮川屋前の道路には出町橋が継ぎ足されているそうです。”

 那須先生からの連絡、「出町橋」は以前はコンクリー橋に木造の橋を継いでいたそうですが、昭和49年7月に新しいコンクリートの橋ができ、今はその姿は残っていないそうです。

出典:NPO法人まつやま山頭火倶楽部公式WEBサイト、山頭火・行乞記の故郷「宮川屋」のこと…。https://santokaclub.blogspot.com/2012/10/blog-post_333.html

下には「出町橋」周辺のストリートビューを引用いたしました。山田川山津波が起きる前、橋の左側の部分は陸地になっていて、そちらに宮川屋があったとのことです。

 「九月十五日 曇后晴、当地行乞、宿は同前。

けふはずゐぶんよく歩きまはつた、ぐつたり労れて帰つて来て一風呂浴びる、野菜売りのおばさんから貰つた茗荷を下物に名物の球磨焼酎を一杯ひつかける、熊本は今日が藤崎宮の御神幸だ、飾馬のボシタイボシタイの声が聞えるやうな気がする、何といつても熊本は第二の故郷、なつかしいことにかはりはない。
あはれむべし、白髪のセンチメンタリスト、焼酎一本で涙をこぼす!
この宿はよい、若いおかみさんがよい、世の中に深切ほど有効なものはない、それにしても同宿の支那人のやかましさはどうだ、もつと小さい声でチイチイパアパアやればよいのに。
鮮人はダラシがないことは日本人同様、ツケアガルことは日本人以上、支那人は金貯め人種だ、行商人の中で酒でも飲んでゐる支那人をみたことがない。
昨夜は三時まで読書、今夜もやつぱり寝つかれないらしい。

 九月十六日 曇、時雨、人吉町行乞、宮川屋(三五・上)

けふもよく辛抱した、行乞相は悪くなかつたけれど、それでも時々ひつかゝつた、腹は立てないけれど不快な事実に出くわした。」
人吉は人吉藩相良氏の城下町として栄えたところで、以下のストリートビュー(鍛冶屋町通り)のようにタイムスリップしたような気分を味わえる通りも残っています。

下の画像にて、人吉の街中で托鉢をする山頭火をイメージしてみます。

出典:ChatGPTにより生成された画像、『城下町で托鉢をする眼鏡をかけた僧』などのキーワードをベースに生成、生成日:2026年1月30日

「人吉で多いのは、宿屋、料理屋、飲食店、至るところ売春婦らしい女を見出す、どれもオツペシヤンだ、でもさういふ彼女らが普通の人々よりも報謝してくれる、私は白粉焼けのした、寝乱れた彼女からありがたく一銭銅貨をいたゞきつゝ、彼女らの幸福を祈らずにはゐられなかつた、――不幸な君たち、早く好きな男といつしよになつて生の楽しみを味はひたまへ!」
昭和初期の人吉町の全景を以下に引用いたしました。

出典:『球磨郡誌』,熊本県教育会球磨郡教育支会,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1042262 (参照 2026-01-29、一部抜粋)、人吉町全景
https://dl.ndl.go.jp/pid/1042262/1/14

「今夜はさびしい、広い二階に飴売の若い鮮人と二人きりである、彼は特におとなしい性質で好感が持てる、田舎まはりの仲買人から、百姓衆の窮状を聞かされた、此旧盆を迎へかねた家が多いさうな、此辺の山家では椎茸は安いし繭は安いし、どうにもやりきれないさうな、桑畑をつぶしてしまひたいけれど、役場からの慰撫によつて、やつと見合せてゐるさうな、また日傭稼人は朝から晩まで汗水垂らして、男で八十銭、女で五十銭、炭を焼いて一日せいぜい二十五銭、鮎(球磨川名産)を一生懸命釣つて日収七八十銭、――なるほど、それでは死なゝいだけだ、生きてゐる楽しみはない、――私自身の生活が勿躰ないと思ふ。」
下には昭和初期の球磨川での鮎釣りの写真を引用いたします。県外からも釣客がやってくる有名な釣りスポットだったようです。

出典:松崎明治 著『写真解説日本の釣』,三省堂,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1262891 (参照 2026-02-02、一部抜粋)、九州球磨川の友釣
https://dl.ndl.go.jp/pid/1262891/1/29

「向ひのラヂオが賑かだ、どこからかジヤズのリコードが響いてくる、ジヤズジヤズダンスダンス、田舎の人々でさへもう神経衰弱になつてゐる。
都会のゴシツプに囚はれてはゐなかつたか、私はやつぱり東洋的諦観の世界に生きる外ないのではないか、私は人生の観照者だ(傍観者であらざれ)、個から全へ掘り抜けるべきではあるまいか(たまたま時雨亭さんの来信に接して考へさせられた)。
鰯の新らしいのを宿のおかみさんに酢漬にして貰つて一本いただく、鰯が五銭、酢醤油が二銭、焼酎が十三銭。
一昨夜も昨夜も寝つかれなかつた、今夜は寝つかれるといいが、これでは駄目だ、せつかくアルコールに勝てても、カルモチンに敗けては五十歩百歩だ。
二三句出来た、多少今までのそれらとは異色があるやうにも思ふ、自惚かも知れないが。――
・かなかなないてひとりである
 一すぢの水をひき一つ家の秋
・焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」
下には人吉駅前に建てられた山頭火の句碑周辺のストリートビューを掲載いたしました。こちらには「焼き捨てて・・・」の句が刻まれています。

「今日は行乞中悲しかつた、或る家で老婆がよちよち出て来て報謝して下さつたが、その姿を見て思はず老祖母を思ひ出し泣きたくなつた、不幸だつた――といふよりも不幸そのものだつた彼女の高恩に対して、私は何を報ひたか、何も報ひなかつた、ただ彼女を苦しめ悩ましたゞけではなかつたか、九十一才の長命は、不幸が長びいたに過ぎなかつたのだ(彼女の老耄と枝柿との話は哀しい)。」

旅行などの情報

日奈久温泉センター(ばんぺい湯)

「温泉はよい、ほんたうによい」とあるように日奈久温泉を気に入った山頭火は、織屋に3泊しています。日奈久温泉のお湯を気軽に楽しめる場所としておすすめなのが日奈久温泉センター(愛称ばんぺい湯)です。こちらは江戸時代の肥後細川藩「御前湯」をルーツに持つ歴史ある施設。2009年には江戸時代の趣を再現した建物にリニューアルし(下に引用いたしました)、当時の雰囲気を今に伝えています。

出典:ja:User:Sanjo, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、日奈久温泉センター「ばんぺい湯」(熊本県八代市、2025年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Banpei-yu_Hinagu_Onsen_2025.jpg

温泉センターの建物の1階は昔ながらの公衆浴場、2階はサウナ・露天風呂付きの大浴場となっているのでお好みの方をご利用ください。泉質は弱アルカリ性単純温泉で、肌に優しい美人の湯としても有名。神経痛や筋肉痛などにも効能があるとされます。

基本情報

【住所】熊本県八代市日奈久中町316
【アクセス】日奈久温泉駅出口から徒歩で約10分
【参考URL】https://hinagu-spa.com/

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