司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その2)
大学を中退
前回(空海の風景の風景その1・参照)は地方豪族の家に生まれ、讃岐の国学、奈良の大学と順調にキャリアを積む空海の姿を追いました。官僚になることを期待されていた空海ですが、儒教を中心とした学問に疑問を感じ、大学を退学して仏教の道に進むことに。その際に記した「三教指帰」は仏教の優位性を説いた日本初の戯曲といわれています。
青年時代の空海
「空海は延暦十年(七九一)、十八歳で大学に入り、その年か、もしくはその翌年に退学してしまっている。あるいはしばらく退学の手続きはせず、出奔というかたちをとったのかもしれない。」
また、「空海の風景」で記される青年時代の姿は以下のようです。
「空海は、大学の学生であることを捨てる。退学して山林に姿をくらます前後のこの若者に出逢いたいものだとおもうが、かすかに想像するに、丸顔で中肉、肩の肉が厚く、重心がさがっているために両あしががに股で、清らかな貴公子という印象からおよそ遠く、それどころか全体に脂っ気がねばっこく、異常な精気を感じさせる若者ではなかったかとおもわれる。」
上には金剛峯寺が所蔵する弘法大師坐像(萬日大師)の写真を引用させていただきました。こちらの坐像から当時の空海の姿を想像してみます。
三教指帰(さんごうしいき)
大学を辞めるにあたり空海は日本で初めての戯曲とされる「三教指帰」を著しました。仏教の優位性を説いた「三教指帰」は空海の「出家宣言」ともいわれています。
「蛭牙公子 (しつがこうし)は色情の徒である。かれは空海の戯曲においては娼家にゆけば猿のごとく騒ぎ、美醜の見さかいもなく異性とみればそれを追い、それがために伯父の『兎角公』からもてあまされ、兎角公がこの甥のことを思いわずらったあげく、儒者の亀毛先生に説諭方を頼み入るところから戯曲の幕があがるのである。」
儒者(亀毛先生)や道士(虚亡隠士)が蛭牙公子にそれぞれの教えを説いていると、空海自身がモデルとなっている仏僧「仮名乞児(かめいこつじ)」が登場。三教(仏教・儒教・道教)を比較し、仏教が最も優れていると説きます。
戯曲に登場する儒教の権威「亀毛先生」のモデルは叔父の阿刀大足であり、空海はこちらの戯曲を通して、出家に猛反対し大学から官吏へという出世栄達の道を勧める大足に反論をしました。
出典:Kukai, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rokoshiiki.jpg
高野山の金剛峯寺には空海直筆と伝えられる「三教指帰(原題・聾瞽指帰)」が保管されていて(上に引用)、以下のように美術館や特別企画展でも鑑賞できます。文字は力強く、青年・空海の反骨精神が伝わってきそうです。
「空海の風景」から「三教指帰」についての記述を抜粋してみます。
虚亡隠士「あなたの頭を見るに、毛が一本もない・・・・・・あなたはどこの国の人です。そしてたれの子で、たれの弟子でいらっしゃるのでしょう」
仮名乞児「・・・・・・あるときはあなたの妻になる、あるときはあなたの父、あるときは母になる・・・・・・時間には始めというものがなく、あなたも私も無始のときから生まれかわり、常無く転変してきたものである。・・・・・・さればおわかりであろう、私が何国のどこの生まれで親がたれであるかということは決まっているわけではないということを。」
また、「小脇にござをかかえ、背に椅子を背負い、鉢をぶらさげ、数珠をかけている」という仮名乞児のいでたちについて虚亡隠士が尋ねると
仮名乞児「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅にのぼっている者だ」
と回答します。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム、兜率天曼荼羅図
https://colbase.nich.go.jp/
上には兜率天で弥勒菩薩が説法を行う場面を描いた「率天曼荼羅図」の写真を引用させていただきました。
なお
「空海が六十二歳で入定するとき、自分は兜率天の弥勒菩薩のそばに侍するためにゆくのだ」
といったとのこと。
「空海はぼう大な事業を地上にのこしたという点でその生涯ほど複雑なものはなかったが、同時にかれほど単純明快な生涯を送った者もないであろう」
とあります。
性欲の解釈
司馬さんは空海が大学を出奔した理由の一つが「性の課題」であったといっています。以下、関連する記述を抜粋してみましょう。
「性欲は普遍的に存在している。空海にもある。というよりは、若者のころのこの人物は人一倍それが強かったにちがいなく、その衝動に堪えかねて喘ぐような日もあったと考えてやらねばならない」
「空海は自分の体の中に満ちてきた性欲というこの厄介で甘美で、しかも結局は生命そのものである自然力を、自己と同一化して懊悩したり陶酔したりすることなく、『これは何だろう』と、自分以外の他社として観察するという奇妙な精神構造を持っていた。」
「話が先に走るようだが、三十二歳、大唐の長安で『理趣経』を得たとき、この年齢のころ、空海はすでに性欲はいやしむべきものという地上の泥をはなれてはるかに飛翔してしまっている。それどころか性欲そのものもまたきらきらと光耀を放つほとけであるという、釈迦がきけば驚倒したかもしれない次元にまで転ずるにいたるのである」
ここで司馬さんは理趣経の「十七清浄句」の一部を取り出し、解説します。
「妙適清浄の句、是菩薩の位なり
欲箭清浄の句、是菩薩の位なり
触 清浄の句、是菩薩の位なり
愛縛正常の句、是菩薩の位なり」
以下は一段目についての記述です。
「妙適とは唐語においては男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。インド原文ではsurataという性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内密教研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。・・・・・・『男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である』という意味である。」
出典:Henry Flower, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Khajurahosculpture.jpg
上にはカジュラホ・パールシュバナータ寺院の男女交合像を引用しました。続いて4段目の解説も抜粋します。
「愛縛とは形而上的ななにかを指すのではなく、形而下的姿態をさす。インドのブンデルカンドの廣野にある廃都カジュラホの、そこに遺っているおびただしい数の愛の石造彫刻こそ愛縛という字義のすさまじさを物語るであろう。理趣経はいう。男女たがいに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位であると断ずるのである。」
インドの世界観に惹かれる
空海の実家・佐伯氏ゆかりの「佐伯院」に隣接した「大安寺」は奈良の都でも有数規模の官寺でした。
「大安寺には長安に留学した僧や、その弟子たちといった、海外で生活したひとびとが多く住んでいる。また鑑真のような唐僧や菩提仙那(ぼだいせんな)のようなインド僧も住んだことがあり、あたかも長安もしくはインドの縮景であるかのような観を呈していた。」
ここでは上に大安寺の東塔跡の写真、下には大安寺天平伽藍復元CGの写真を引用させていただきました。
「インドの祇園精舎は兜率天宮をもって規模としている。大唐西明寺はその祇園精舎を規模としている。本朝の大安寺はその西明寺をもって規模としている」
「従って大安寺は、弥勒菩薩が日夜説法しているという兜率天宮の写しである。・・・・・・大安寺の境内に足を踏み入れることじたいが、きらびやかな象徴に満ちたインド的世界に入りこむことであったにちがいない。」
また、
「儒教は世俗の作法にすぎない」
「インド人は、それとは別の極にいる。・・・・・・自分が生きていることを考える場合、自分という戸籍名も外し、人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化しめてからはじめて物事を考えはじめるのである」
とも。
史伝などの具体性を好む(儒教的)唐文化と真理や抽象性を追求する(仏教的)インド文化の違いに触れた空海について以下のように記しています。
「空海は大学の学生としては中国文明のなかに身を置き、私的関心としては大安寺に出入りしてインド文明にひきよせられている。この両極端の文明を往来して空海が身を引き裂かれなかったとすればむしろそのほうが不思議であろう。・・・・・・」
空白の七年
「空海は、十九歳になる。妙な青年だったにちがいない。頭髪はよもぎのようで、乞食のなりをしている。ござをかかえ、背中に椅子を背負っているのは『兜率天へゆく旅姿だ』と、みずからその戯曲の中で説明しているように、尋常の目からみればばかばかしいほどに気勢った乞食だったのであろう。」
「かれが大学をとびだし『三教指帰』を著してから入唐までの七年間ほどが空白にちかい。七年間とは仮名乞児のころである。」
三教指帰にある「爰(ここ)ニ一沙門アリ」について司馬さんは以下のように述べています。
「沙門とはどうせ大安寺に縁のある僧にちがいない。その僧とは、山野をあるきまわっている乞食のような僧であったろう。そうではなく堂々たる官僧であるともいう。しかしそれが三論宗の学匠(勤操)だったといわれるが、この場合どちらでもよく、ただ私度僧のほうがこの時期の空海の風景にはよく適う」
「『学生よ。お前がそこまで仏法のことに熱心ならいい工夫を教えてやろう』と、一沙門は、この儒生に万巻の経典をたちまち暗誦できるという秘術を教えたのである。」
その秘術とは「虚空蔵求聞持法」といい、「ある真言を、ある場所へゆき、そこで一定の時間内に百万べんとなえるというものである。・・・・・・要するに、インドに伝わる記憶術であった」
出典:Tokyo National Museum, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kokuzo_Bosatsu_(Akasagarbha)_-_Google_Art_Project_(cropped).jpg
上に引用したのは知恵の菩薩とされる虚空蔵菩薩(梵名はアーカーシャガルバー)の画像です。
「記憶力をつけるために虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の方法でとなえる。ついでながら、真言とはやはり言語の一種であるにはちがいない。しかし、人間の言語でなく、原理化された存在(法身如来)たちがしゃべる言語である。」
以下には虚空蔵菩薩の真言を引用させていただきました。
真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」
出典:ウィキペディア、虚空蔵菩薩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9
虚空蔵菩薩の真言を教わったとき、『これが、自然の本質がおのれの本質を物語るときの言語か』と、その意味不明の言語をうそぶきつつ、体のふるえるようなよろこびを感じたであろう。真言は、同時に咒(しゅ)としての力をもつ。修法者の修法さえ通ずれば宇宙をうごかすことも可能であるという意味において真言は咒であり神変の働きをもつ。空海は絶対無二の科学をそこに感じたにちがいない。」
「哲学好きのかれも、認識だけにとどまりがちなこの時代の仏教に物足りなさも考えていた。そこへ『虚空蔵求聞持法』という、インドから長安をへてはるばると日本へもたらされた密教的断片に接するにおよんで、人間の功利性に応えるところの自然科学を知ったのである。」
そしてこうも言っています。
「空海とは別な方法で科学を知ってしまった後世が、この空海をあざけることは容易であろう。しかし密教の断片において科学の機能を感じた空海のそれと、後世が知ったつもりでいる科学との、はたしてどちらがほんものなのか。自然の本質そのものである虚空蔵菩薩に真贋の判定をさせるとすればどちらがその判定に堪えうるかということになると、人間のたれもが(つまりは所詮自然の一部であるにすぎない人間としては)、回答を出す資格を持たされていない。」
修行場所を探して
一沙門「一定の場所へゆけ」
空海「では大和の葛城山など、いかがでありましょう」
空海はやや賢らに訊きます。下には和歌山県公式チャンネルによる、葛城修験のPR動画を引用させていただきました。こちらの一帯は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地としても知られています。
一沙門「それは、君自身がみつけることだ」
「空海は近畿で当時の行者たちが霊(く)しき山であると評価している山々へはひとわたりのぼったようでもある。『虚空蔵求聞持法』を身につけ、真言を百万べん唱えることを中心とする困難な苦行をあちこちの山々でやってみた。しかしいっこうに自然の本質がかれに対して電撃的な感応をあたえるというようにはゆかなかった。」
とあります。
そんな時、新しい行場として彼の脳裏に浮かんだのは故郷の四国の風景でした。
旅行などの情報
大安寺
「空海の風景」で大安寺は、空海がインドや唐の文化に触れた重要な場所として描かれています。聖徳太子が創建した「熊凝道場」を起源とし、「百済大寺」という官寺などを経て平城京に移り「大安寺」と名前を改めました。官寺という性質上「悪病難病封じ」の祈祷が盛んに行われ、今では「がん封じ」のお寺として知られています。
また、上に引用させていただいたような手書きの「だるまみくじ」も人気のアイテム。一つ一つ表情が違うので、お好みのだるまを選んでみてください。戦災や地震などにより現在の大安寺は場所を移転していますが、周辺には「塔跡」や「境内跡」などの遺跡が残り、空海の時代を偲びながら散策を楽しめます。
基本情報
【住所】奈良県奈良市大安寺2-18-1
【アクセス】JRまたは近鉄奈良駅でバスに乗りかえ、大安寺バス停にて下車
【参考URL】http://www.daianji.or.jp/
不動山の巨石
「不動山の巨石」は上でご紹介した葛城修験の動画にも登場する行場です。近畿一円で修行した際に空海も足を運んだかもしれません。こちらの行場の成り立ちについては以下のような伝説があります。役行者は葛城山から吉野金峯山へ橋を架けるように一言主(ひとことぬし)に命じますが、醜い容貌を恥じて夜しか作業をしなかったため石を集めるだけにとどまったとのことです。
行場に続く635段の階段はハイキングコースとして整備されています。風穴の近くで耳を澄ませると「紀の川の流れる音」や「あの世の音」が聞こえるとも!ぜひ、お試しください。
基本情報
【住所】和歌山県橋本市杉尾
【アクセス】JR橋本駅から車で約25分
【参考URL】https://hashimoto-tourism.com/shop/fudou/
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