司馬遼太郎「空海の風景」の風景(その4)

空海、入唐を決意

空海は四国などでの修行(空海の風景の風景その3・参照)を行うとともに、奈良・大安寺の勤操大徳を師として学問に励みます。奈良仏教には6つの宗派があり、空海が特に共感したのは「華厳経」でした。そしてその発展形ともいえる密教経典「大日経」を目にした彼は入唐の決意をします。なお、今回からは空海の最大のライバルとなった最澄の少年時代の姿も追っていきましょう。

空海の師・勤操(ごんぞう)

青春における空白の七年間、空海は「求聞持法」などの修法をするだけでなく、経典を系統的に学んでいました。
「若い空海は、奈良の大安寺に出入りしている。この寺の首座である勤操に惹かれていた。勤操のほうも『これほど聡明な若者がいるか』と、驚嘆する気持ちだったにちがいない。」

また、
「かれが勤操というこの時期の有力な学僧から格別な庇護をうけたことは、かれにとって重大なことであった。勤操との関係におけるかれの資格は、近事(ごんじ)というものだったと思われる。近事とはこの当時の寺院の用語である。僧たる資格なくして師に仕え、師の指導によって仏事をおこなう者、というほどの意味で、男の場合を近事男、女の場合は近事女といった。空海は、勤操の近事男になった。」
とあります。

上にはその勤操を偲ぶ「勤操大徳忌」の映像を「奈良テレビNEWS」公式チャンネルから引用させていただきました。こちらの映像のように後に勤操は空海が渡唐する手助けをしてくれることになりますが、先ずは勤操の名前で諸官寺の経蔵に出入りし、自由に経典を読めるようになったのが利点でした。

東大寺で学ぶ

当時の奈良仏教は華厳(けごん)、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、三論(さんろん)、律(りつ)の6部門からなっていました。空海は7年間の空白の期間にそれらを習得しますが、特に華厳経に魅かれたとしています。

「華厳学は東大寺がその部門のための単科大学としてたてられている。かれが華厳にうちこんだということは、若いころ日本国第一の官寺である東大寺に自由に出入りしていたことを暗示している。気の弱い僧なら門前で尻ごみするほどのこの官寺に、かれはぬけぬけと出入りし、経蔵に入りこんだり、無資格ながら講筵に顔をのぞかせたりしていたことになる。」

出典:AnonymousUnknown author, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sangatsudo_in_het_Todaiji_tempelcomplex_te_Nara_in_Japan,_KITLV_151030.tiff

上には華厳経が日本で初めて講義されたともいわれている東大寺・法華堂(三月堂)の大正時代の写真を引用しました。当時の華厳学の中心は東大寺で、今でいうと東京大学のようなところだったでしょうか。法華堂は奈良時代に建てられた東大寺最古の建物なので空海もこちらで講義を聴講していたかもしれません。ついでに空海が鹿の頭をなでるシーンもイメージしてみましょう。

華厳経

空海においての華厳経の位置づけについて司馬さんは以下のように述べます。
「後年のかれは、『過去のどの宗も真言密教に及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている』という意味のことをいったり書いたりした。」

出典:Mass Ave 975, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Todaiji02.JPG

また、華厳経については多くの文字数を割いて解説していますので、一部抜粋してみましょう。
「この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっている説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在をうごきは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる」

上には東大寺大仏殿の本尊・毘盧遮那仏の写真を引用させていただきました。若き日の空海がこちらの本尊に祈りをささげる場面を想像しておきます。

久米寺東塔の下で

「一個の塵に全宇宙が宿る」や「静中動あり、動中静あり」などの華厳経が示す宇宙原理の理解を深めた空海でしたがそれをどのように活かすかについては解決の糸口が得られません。

「『三乗五乗十二部経をよんでも十分に納得できなかった』という時期の空海というのは、傍目からみても、ある日は風のように大安寺の境内を横切って行ったり、目がすわって食が摂れなくなったり、奈良あたりの路上で大学当時の旧知にひさしぶりに出遭っても相手の人体さえさだめられずそそくさと去るようなこともあったにちがいない。」
とあります。

そんな時
「山野に起き伏ししている乞食僧のたれかが、『そういう経があると聞いたがね』といったかもしれない。『久米寺の東塔の下だよ』というふうに。」
注)「御遺告」では夢のお告げと記述されていることも併記しています

出典:Ogiyoshisan, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kumedera2_DSCN9499_20100504.JPG

現在、東塔はありませんが、かわりに久米寺多宝塔(江戸時代頃に京都の仁和寺から移築)の写真を引用し、以下の場面をイメージしてみましょう。

「東塔の下にねむっていた大日経にはじめて接した空海のよろこびは、想像を絶するものがあったにちがいない。昼は塔内に籠って経を読み、夜は松林の中の僧房にでも泊めてもらったのであろうか。・・・・・・もっともそのあたりはすばしっこい空海のことである。『私は、勤操上人のお使をしている』ということで、存外、大いばりで寺僧に斎を出させていた、と考えるほうがかれの情景としてはふさわしいようではある。」

入唐を決意

華厳経に出てくる思想上の存在「毘盧遮那仏」に親しんでいた空海にとって、類似の存在である大日経の「大日如来」は違和感がありませんでした。
「空海はこの大日経を、漢文の部分はおそらくよほどすみやかに読めたのではないかと思える。」

「大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。空海がもとめていたのは、とくにこの後者―――即身成仏の可能性と、諸仏、諸菩薩と交感してそこから利益をひきだすという法―――であった。」

下には根津美術館蔵に所蔵される大日如来像の写真を引用させていただきました。

出典:https://m.sohu.com/n/486519965/, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mahavairocana.jpg

「ただし、空海にも解せない部分がある。大日経には仏と交感してそこから利益をひきだすという方法が書かれている。・・・・・・宇宙の言語である真言を必要とし、また交感のためには真言だけでなく印を結ぶなどの所作を必要とした。この部分は大日経においても文章的表現が困難であるだけでなく、多くは梵字(サンスクリット)で書かれている。」

そして空海は大日経における上のような不明の部分を伝授してもらうために入唐を決意しました。
「遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明な目的を持って海を渡ろうとした人物はいない」と司馬さんは章を結んでいます。

最澄登場

ここで司馬さんは空海の最大のライバルとなる最澄を登場させます。
「最澄は、若い空海について知るところがない。顔も名前も知らなかったにちがいない。最澄の前半生は幸運にめぐまれ、若くして国王の崇敬をうけた。かれは決して倨傲なに人間ではなかったが、空海のような無名の若者を知らずとも、その立場は済んだ。」

出典:Wikimedia Commons、最澄像 平安時代 一乗寺所蔵の国宝天台高僧像10幅のうちのひとつ、平安時代(11世紀)、藝術新潮1974年 10号 増大特集日本の肖像画
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%9C%80%E6%BE%84%E5%83%8F_%E4%B8%80%E4%B9%97%E5%AF%BA%E8%94%B5_%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3.jpg

一方で
「かれは温雅な外貌をそなえ、質実な人柄をもち、現世においてはきらびやかな栄誉につつまれ、はるかな後世にいたるまでその門流から多くの天才たちを輩出した。しかしながら彼一個の生涯となれば、どうであろう。とくにその後半生は苦渋にみち、空海の体系に圧迫され、空海の機略に翻弄され、また奈良仏教の側の攻撃から自分の体系を防衛せねばならず、執拗に宗論をくりかえし、しかも自分の体系を自分一代で完成させることなく死んだ。その生涯は、見様によっては凄惨としかいいようがない。」
とも記されています。上には一乗寺に伝わる国宝の伝教大師最澄像を引用しました。

同時期に唐に渡ることになる最澄は、空海より7つ年上でした。父の名前は三津首百枝(みつのおびとももえ)といい、中国大陸からやってきた後漢の皇帝の末裔ともいわれています。

滋賀県大津市坂本周辺に父百枝の私宅があり、その跡にたつ「生源(しょうげん)寺」には最澄が産湯に使ったとされる井戸が残っています。上にはその産湯とその脇に立つ童形像の写真を引用させていただきました。ここでは大事そうに「広野(ひろの)」という名前だった最澄をあやす母の姿を想像してみましょう。

最澄の少年時代

最澄は仏教への帰依心がつよかった父の影響もあり、早くから僧になる道を歩みます。
「かれは空海のように大学に入るようなわき道をせず、十二歳前後で早くも出家した。十五歳で得度を志願し、十八歳で得度し、二十歳で受戒した。出家、得度、そして受戒という、官僧としてのなだらかな経歴を、弱年の時期に折り目ただしく経ているあたり、いかにも最澄らしい。」

「国分寺としては、『三津首広野(最澄の俗名)を得度させてもよいか』という願いを国士の長に出すのである。国司の庁はそれを審査し、許可する。余談ながら、その国司の庁の許可の写しが、おどろくべきことにこんにちに至るまで残っている。所蔵しているのは、京都大原の来迎院である。」

下にはその写しの写真を引用しました。
「『三津首広野』という名前が書かれている。その横に、最澄の戸籍も明記されている。滋賀郡古市郷戸主正八位三津首浄足戸口年拾五、とあり、ここで浄足とあるのは、最澄の一族の戸籍上の筆頭人で、三津首の長者であろう。」

出典:三浦周行 著『伝教大師伝』,御遠忌事務局 (延暦寺内),1921. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857 (参照 2024-10-26、一部抜粋)、国府牒
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857/1/12

「さらには、かれが得度の試験に合格したことにともなう『度牒』という合格証書ものこっているのである。」
度牒の写真も下に引用します。
「『沙弥最澄年十八』とあり、はじめてここでかれは最澄を名乗る。つづいて本貫の所在が書かれ、俗性が書かれ、さらに人別を他の者とまぎれぬように、体の特徴がかかれている。この時代、体の特徴は黒子であらわされるらしい。『黒子、頭左一。左肘折上一」とある。」

出典:三浦周行 著『伝教大師伝』,御遠忌事務局 (延暦寺内),1921. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857 (参照 2024-10-26、一部抜粋)、度牒
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857/1/12

「さらにかれが受戒したことを示す『戒牒』までのこっているのである。この種の文章が残っているということを最澄の性格と無縁ではないかもしれない。『僧最澄年廿』とある。ここにおいては最澄は沙弥ではなく、はじめて僧と交渉しうるようになるのである。」

下に引用した「戒牒」の三行目に「僧最澄年廿」と書かれています。

出典:三浦周行 著『伝教大師伝』,御遠忌事務局 (延暦寺内),1921. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857 (参照 2024-10-26、一部抜粋)、戒牒
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920857/1/12

「最澄はこの僧官の任用試験である受戒を、延暦四年四月六日、東大寺の戒壇院でうけた。これによってかれは生涯官僧としての栄誉と俸禄を国家から保証されるということになるのだが、しかし最澄はその道をみずから断った。この試験に合格してからわずか三ヵ月後に官寺を去り、叡山に登り、山林にかくれてしまうにいたる。かれは空海の青年期と同様、山林の修行者になる。最澄は自分があのいかがわしい私度僧と間違われることをおそれたのか、以上の文書や合格証書を大切に手篋(てばこ)かなにかに深くおさめて保存していたにちがいない。」

ここでは、こちらの証書などの最低限の荷物を持って、比叡山への道を切り開いていく若き日の最澄をイメージしてみましょう。

旅行などの情報

久米寺

空海が「大日経」の経典を発見し読みふけった場所として登場しました。実際に空海が入った塔は焼失してしまいましたが上で引用した多宝塔(重要文化財)が立ち、空海のころの東塔の礎石も眺めることができます。推古朝のころ、眼病を患った来目皇子(くめのみこ)が薬師如来を祈願し平癒したことから、本尊の薬師如来は眼の災いに効果があるとされています。

出典:Ogiyoshisan, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kumesennin_DSCN9493_20100504.JPG

また、こちらのお寺は「久米仙人」の伝説でも有名です。空を自由自在に飛べる神通力があった「久米仙人」ですが、ある日洗濯する女性のふくらはぎに目がくらみ墜落してしまったとのこと。境内には上に引用したような仙人の像も鎮座しているので、仙人にあやかって長寿祈願をしてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】奈良県橿原市内膳町1丁目6番8号
【アクセス】近鉄橿原神宮前駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1021/1/2/3/3652.html

生源寺

最澄の産湯井戸がある滋賀県のお寺で、父の私邸跡に最澄自身が開山したとされています。本尊は最澄の弟子・慈覚大師円仁作の「十一面観世音菩薩像」で「伝教大師御誕生会」が行われる8月17日・18日などに特別拝観ができます。下には公式SNSの画像を引用させていただきました。

こちらのお寺は比叡山のふもとにあり、周辺には比叡山の守護神社「日吉大社」や最澄の父(百枝天満宮神社)や母(市殿神社)を祀った神社などもあります。延暦寺と併せて巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】大津市坂本6-1-17
【アクセス】京阪電鉄・坂本比叡山口から徒歩1分
【参考URL】https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/433