宮本輝「天の夜曲」の風景(その5)

長崎旅行

熊吾は大学病院で診察を受ける博美に付き添って、急行雲仙で長崎に向かいます(天の夜曲の風景その4・参照)。長崎の街は活気を取り戻していましたが、原爆の爪痕も多く残っていました。今回はテンポの速い「流転の海」シリーズのなかでは比較的のんびりしたシーンが多いので、観光情報も交えながら風景を追って行くことにしましょう。

急行雲仙の中で

「列車が岡山駅に停車したとき、熊吾は駅弁売りから茶を三つ買った。夜中の二時半であった。大きないびきをかいていた若い勤め人風の律儀そうな男が起きて来て、慌てて茶を買い求め、通路でそれを飲みながら煙草を吸おうとポケットをさぐった。ズボンのポケットから出てきた煙草の箱は空だった。」
とあります。

下には昭和30年代の長万部駅の駅弁売りの方を撮影した写真を引用させていただきました。ここでは眠そうな顔をした熊吾が列車の窓からお茶を買う姿を置いてみます。

若い勤め人の目を覚まし、いびきを止めさせようとした熊吾は自分のホープを勧めました。以下に勤め人と熊吾の会話を抜粋します。

熊吾「どちらまでお帰りですが?」
若い勤め人「長崎です」
熊吾「原爆が落とされたとき、あなたは長崎にいらしたのですか?」
若い勤め人「ええ、でも私はまだ十五歳でして、諫早におりました」
熊吾「諫早も被害を受けましたか?」
若い勤め人「いえ、長崎の中心部にそんなとんでもない爆弾が落ちたなんてことは気づきませんでした。あくる日の朝、黒い雲が流れてきまして、あとになって、あれが死の灰だったのかと、ぞっとしましたが」

また
「原爆投下のあと百年間は草木も生えないと教えられたが、ことし自分の務める会社の近くでは、あじさいがきれいに咲いていた」
とのことでした。

旅館を変更

長崎駅に到着した熊吾たちは、改札口前でラムネを飲みほしますが一向に汗は引きません。
熊吾は急行雲仙で「若い勤め人」から教えてもらった金屋町の「大杉旅館」に向かおうとしますが、博美は行きたがらない様子です。
博美「私の友だちの家の隣やねん」
しかも大杉旅館の経営者と、その友だちとは縁戚筋にあたるとのこと。
熊吾「そこには泊まりとうないのか」
博美はうなずき、大杉旅館の替わりに浦上天主堂の近くにある上野町の商人宿を候補に挙げました。
熊吾「そこやったら泊ってもええのか」
博美「私のことを知ってる人は、たぶんいてへんはずやけど・・・・・・」

上のマップには金屋町と上野町の位置関係を示しておきます。長崎駅と金屋町は約15分、長崎駅から上野町までは約45分の道のりです。
熊吾「よし、先に病院へ行こう。お前が診察を受けちょるあいだに、わしは旅館に行って荷物を置いてくる。病院はどこも混んじょるけん、診察を受けるまでだいぶ待たされるじゃろう。わしは旅館に荷物を置いたら、すぐ病院に行く」

下には昭和30年代の長崎駅前の写真を引用させていただきました。1949年に建てられた三代目駅舎はステンドグラスを備えた三角屋根がシンボルでした。ここでは駅前で客待ちをしているタクシーに博美が乗るところをイメージしてみましょう。

以下はタクシーに乗り込んだ博美と熊吾の会話です。
博美「旅館まで歩くのん?」
熊吾「ああ、歩きとうてたまらんのじゃ」
博美「歩いたら遠すぎるわ」
熊吾「歩き疲れたら、タクシーを拾うけん」

戦争の爪痕

熊吾は汗をふきながら旅館に向かって歩きました。
「熊吾は、額や首筋から伝い流れる汗をハンカチで拭きながら、それにしてもこの長崎ののどかさは何だろうと思った。街のあちこちには歯が抜けたような空地が点々と存在している。その空地では子供たちが遊んでいる・・・・・・」
下には被爆直後の山王神社二の鳥居の写真を引用しました。鳥居の左側が吹き飛んでしまうほど原爆の威力が大きかったことが分かります。

こちらは長崎駅から上野町への途中にあるので、熊吾も同様の風景を見ていたかもしれません。ここでは、このような場所でも子供たちが遊んでいるところをイメージしてみます。

出典:unknown US government photographer, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanno_torii_and_camphor_trees.jpg

長崎駅から上野町の辰巳屋に向かう途中、ピースを十箱買い、水を飲ませてもらいます。
熊吾「長崎は初めてですが、十一年前に原爆が落ちた街とは思えませんな。のどかじゃが活気もある」

上には長崎有数の繁華街・浜町や日本三大中華街の一つ長崎新地中華街にも近い「春雨通り」の、昭和31年ごろの写真を引用させていただきました。

こちらの風景のように長崎の街は復興していましたが、原爆の爪痕はまだ残っていました。
「熊吾の言葉に老婆は穏やかな笑みを浮かべて首を横に振り、毎日毎日、人が死んでいく」
といいます。

診察結果は?

熊吾は長崎大学病院に博美を迎えに行きます。以下は診察室を出たところでの熊吾と博美の会話です。

熊吾「どうじゃった?」
博美「セルロイドの塊は、京大病院で取ってもらうことにになった」
熊吾「それを取り除いてから、また長崎へ来るのか?」
博美「皮膚の移植がうまいこといくかどうかは七・三の割合やて・・・・・・成功するかもわからんほうが三。うまいこと移植できても、元の皮膚には戻らへんねんて。・・・・・・私、移植手術はあきらめますって、お医者さんに言うてきた」

出典:ENERGY.GOV, Public domain, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HD.4F.014_(11873260886).jpg

上には被爆直後の長崎医科大学附属病院(長崎大学病院の前身)の写真を引用しました。こちらの写真のように、爆心地の近くあった病院は甚大な被害を受けました。

昭和31年には病院は復旧していましたが、多くの被爆者が訪れていており、博美の二人前に診察を受けていた十五歳の少女もその一人でした。
博美「あの十五歳の子にとって怖いのは、きれいな顔に戻られへんことやあらへんねん。放射能のせいで、赤血球とか白血球とかが無茶苦茶になってて、いつまで生きられるかってことやねん」

ロシア人墓地へ

次の日、熊吾は博美の曽祖父(ロシア人)のお墓参りに出かけます。
「市電の通る道から坂道をのぼって行き、博美の案内で空き地の多い町の路地から路地を辿って、樹木の涼しい一角に入ると、教会の屋根が見えてきた。丈の低い、あちこちが崩れた煉瓦塀に挟まれた狭い道をさらにのぼると、左右に外国人の墓が無数に並んでいた。・・・・・・」
とあります。

長崎には国際墓地が複数あり、博美の曽祖父のお墓がどこにあったかわかりませんが、下には国際墓地のなかでも規模の大きな「稲佐悟真寺国際墓地」の写真を引用させていただきました。ここでは写真奥の方から坂を上がってくる熊吾たちをイメージしてみます。

博美「あそこが出島」
「長崎の町に狭い入り江のように入り込んでいる海と、その向こうの街並みが見えた」
とあります。

下に引用したのは稲佐悟真寺国際墓地の山道を上りきった稲佐山登山道路のストリートビューです。左側にはロシア正教の礼拝堂が見えています。当時は高層ビルなどは少なく、長崎港や出島などの対岸の景色を一望できたことでしょう。

熊吾たちが行ったかどうかはわかりませんが、稲佐山登山道路を更に上っていくと夜景スポットとしても有名な稲佐山山頂展望台にたどりつきます。下には、昼間の展望台からの写真を引用させていただきました。

出典:写真AC、稲佐山展望台から見た長崎の街並み
https://www.photo-ac.com/main/detail/24031403&title=%E7%A8%B2%E4%BD%90%E5%B1%B1%E5%B1%95%E6%9C%9B%E5%8F%B0%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E8%A1%97%E4%B8%A6%E3%81%BF

ロシア人墓地まで行くと、
博美が
「あれや」
と墓石の一つを指差します。
博美「マカール・サモイロフ」
それが彼女の曽祖父の名前でした。没年は一九一〇年の八月と彫られています。
熊吾は以下のような思いに浸りました。
「明治の末期にこの長崎で死んだということは、十中八九、バルチック艦隊の乗員だったのであろう。このマカール・サモイロフという男が、海軍においていかなる階級であったのかはわからないが、なぜ祖国に帰らず、長崎で日本人の女とのあいだに子をもうけ、日本で死に、日本で埋葬されたのか・・・・・・」

出典:Houjyou-Minori, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Russian_Cemetery_of_Goshin_temple.jpg

上には「稲佐悟真寺国際墓地」のロシア人墓地の写真を引用しました。奥に見えるのはストリートビューにも写っていたロシア正教の礼拝堂です。

ここでは、顔も見たこともない曽祖父になぜか愛着を感じるという博美が
「もう一生、来られへんかもしれへんから、ちゃんとお別れしとかんと・・・・・・」
といいながら長い間、黙とうするシーンを想像してみましょう。

旅行などの情報

稲佐悟真寺国際墓地

「天の夜曲」で熊吾と博美がお参りにいったと国際墓地の候補の一つです。悟真寺という浄土宗のお寺ですが、境内にはロシア人や中国人、ポルトガル人、オランダ人などのお墓が並んでいます。稲佐山のロープウェイ駅からも徒歩10分ほどでアクセスできるので観光の途中にも寄りやすいでしょう。

山道には上に引用させていただいたような煉瓦造りの塀が続いていて、階段からは長崎市街や港の風景を見渡すことができます。

基本情報

【住所】長崎県長崎市曙町6-14
【アクセス】長崎駅からバスに乗り、悟真寺バス停で下車
【参考URL】https://www.nagasaki-tabinet.com/

浦上天主堂

熊吾たちが宿泊した上野町の近くにある人気の観光スポットです。原爆被災により破壊されますが1959年に鉄筋コンクリートで再建、1980年には当時の姿を模してレンガ貼りに改装されました。

出典:Yoshio Kohara, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82_-_panoramio.jpg

室内の窓には多くのステンドグラスがはめられ荘厳な雰囲気を味わえるでしょう。また、教会内部には被爆の焼け跡から頭部のみ発見された通称「被爆マリア像」が展示され、敷地内には被爆した石像なども残されるなど戦争の恐ろしさを伝えています。

基本情報

【住所】長崎県長崎市本尾町1-79
【アクセス】平和公園電停から徒歩約8分
【参考URL】https://www.nagasaki-tabinet.com/