柳田国男「遠野物語」の風景(その3)

幽霊や精霊たち

佐々木喜善氏の曽祖母はお葬式が終わっても何度もその姿を現し、皆を驚かせます。また、手紙を運んだお礼に沼の女からもらったのは米を黄金に換える不思議な石臼でした。茸採りの途中で金の樋(とい)と金の杓を発見しますが持ち帰れず・・・・・・。ほかにも大なる坊主や天狗といった山男たち、恐ろしげな山女たちも現れます。

二二話(佐々木氏の曾祖母の霊)

「佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶たやすことを忌むがところの風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡(いろり)の両側に坐り、母人(ははびと)は旁(かたわら)に炭籠(すみかご)を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。」
佐々木氏とは柳田国男に遠野物語を語った「佐々木喜善」のことです。下には佐々木氏の生家のストリートビューを引用させていただきました。なお、こちらは現在もご子孫が住まわれており、一般公開はされていないのでご注意ください。

「平生腰かがみて衣物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取(すみとり)にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。」
下には遠野地方の囲炉裏のある家の写真を引用させていただきました。こちらで祖母・母の前を亡くなった祖母が歩いて行く様子をイメージしてみましょう。幽霊のはずですが(?)歩くと足音が聴こえ、裾が触れると炭取が回るなどの不思議な現象が起きていました。

「母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡(ねむり)を覚ましただ打ち驚くばかりなりしといえり。」
離縁せられたる婦人(狂女)は曾祖母の姿に気付きましたが、他の親類たちには見えなかったようです。

「同じ人の二七日の逮夜(たいや)に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱え立ち帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付(つき)正しく亡くなりし人の通りなりき。」
佐々木氏の家は上の航空写真・中央部の街道沿いにあり、佐々木家の墓地(ダンノハナと佐々木喜善の墓地)が道を挟んで北東にあります。曾祖母はお経を聴いて皆の顔を見たあと、門のところで名残を惜しんでいたのでしょうか。
「これは数多(あまた)の人見たる故に誰も疑わず。いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。」
多くの人が幽霊を見たということですが、これは祖母と母、「離縁せられたる婦人」が幽霊を見たことに誘発された集団催眠のような現象だったのでしょうか。

佐々木家では、夜となく昼となく彷徨するトヨに困りはて、座敷牢をつくって閉じこめてしまった。『遠野物語』の二二話に、幽霊になって出たと紹介されている喜善の曾祖母ミチは、娘の精神異常を苦にして座敷の鴨居に帯をかけて縊死したのだという。

出典:菊池照雄、山深き遠野の里の物語せよ、梟社、1989、P28

また、上に引用させていただいたように、曾祖母(ミチ)の死因は「乱心のため離縁せられたる婦人=トヨ」の精神異常にあったとされています。語り手(佐々木氏)は「執着」の原因をあえて伏せておいたのかもしれません。

二七話(池端の石臼)

「早池峯より出でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川(へいがわ)という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台の淵というあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで来べしとなり。」
「原台の淵」とは宮古市腹帯にある閉伊川の淵のことです(ウィキペディア・遠野物語)。下にはその周辺のストリートビューを引用しました。このあたりで若い娘から突然声をかけられ、手紙を託されているところをイメージしてみましょう。

「この人請け合いはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部(ろくぶ)に行き逢えり。この手紙を開きよみて曰く、これを持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。」
「六部」とはお経を持って全国を回る行脚僧のこと。下に引用した「東海道五十三次・蒲原」では中央部に描かれていて、細長い箱のなかには経文や仏像・仏具などが入っています。

出典:Museum of Fine Arts Boston, Public domain, via Wikimedia Commons、広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)蒲原 岩淵よりふじ川を見る圖』
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kanbara_Gyosho_Tokaido.jpg

「これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。」
下には物見山(別名・長富士)を見渡せるストリートビューを引用いたします。こちらの中腹で手紙を渡すと、お礼として黄金の出る石臼をもらいました。六部のいう「大なる災」が何であったかは不明ですが、手紙を書き換えてもらったことにより幸運が訪れます。

「この宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。」
ただ、妻は欲をかいたばかりに水の中に吸い込まれ、見えなくなってしまいました。

「その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁にあり。家の名を池の端というもその為なりという。」
上には「池の端という家」周辺のストリートビューを引用いたしました。右側には「池端の石臼」の木札がたち、写真奥側にあったとされる池の跡には「石臼神社」が建立されています。

二八話(早池峯の山男)

「始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。」
「遠野の南部家入部」とは1627年、南部直義公が八戸から遠野に国替えになった出来事のことです。遠野では例年「遠野さくら祭り」の一環として「南部氏遠野入部行列」を実施していて、江戸時代初期にタイムスリップした気分を味わえます。

「その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りておりしころ、或る日炉の上に餅をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻(しきり)に中を窺うさまなり。」
下には囲炉裏で焼かれる餅󠄀の写真を引用いたします。小屋の外までいいにおいが漂っていたのではないでしょうか。

出典:写真AC、もちを焼く
https://www.photo-ac.com/main/detail/867328/

「よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼ねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉しげになお食いたり。餅皆になりたれば帰りぬ。」
毎日、食料を取られてはたまらないと考えた猟師は以下のような一計を講じます。
「次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。」
すると
「案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。」

出典:写真AC、早池峰山の小田越コース二合目付近の登山道
https://www.photo-ac.com/main/detail/31038405/

上には早池峰山・小田越コース二合目付近の写真を引用しました。
「大なる坊主」はあわてて早池峰山中に帰ろうとしますが(?)、口にやけどをおっていたため険しい斜面を登りきれず、谷底へ転落してしまいます。

二九話(金銀を広げる天狗たち)

「鶏頭山(けいとうざん)は早池峯の前面に立てる峻峯(しゅんぽう)なり。麓の里にてはまた前薬師(まえやくし)ともいう。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛けず。」
以下には「遠野物語拾遺」98話で米屋商人・万吉が天狗からもらった品々の写真を引用させていただきます。鶏頭山の天狗もこちらのような高下駄で闊歩していたのでしょうか。

「山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞(まさかり)にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞(ふるまい)のみ多かりし人なり。」
佐々木喜善の祖父は明治時代末に70歳ほどで亡くなりました(遠野物語・八四話)。同世代の友人が「若き時」とは江戸時代末のお話と思われます。

「或る時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。」
遠野には多くの金山がありましたが特に「小友蟹沢(かんさ)金山」は江戸時代に栄え、遠野の在世を豊かにしたといわれています。もしかしたら天狗たちもこちらで稼いでいたかもしれません。なお、以下には小友蟹沢金山跡から湧き出ている天然水「黄金の滴」の写真を引用させていただきます。

出典:げんきなおらほのまち小友町公式サイト、黄金の滴
https://otomo-tono.com/areamap/%E5%B0%8F%E5%8F%8B%E9%87%91%E5%B1%B1%E8%B7%A1/

「注釈遠野物語」によると「鶏頭山」の候補は三か所(鶏頭山1445m・早池峰剣ヶ峰1827m・薬師岳1644m)あるとのことですが、ここでは鶏頭山の動画を引用させていただきました。こちらの12:45ぐらいから山頂付近の様子が撮影されています。このあたりに大男が三人、「あまたの金銀をひろげ」ているところを想像してみましょう。

「この男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷いて来たるなりと言えば、然らば送りて遣るべしとて先に立ち、麓近きところまで来たり、眼を塞げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。」

麓まで送ったのは途中に見られたくないものがあったからかもしれません。また、このような話を広めることにより、山人は自分たちの生活圏を守ろうとしたとも思われます。

三二(白い鹿を追って)

「千晩(せんば)ヶ岳は山中に沼あり。この谷は物すごく腥(なまぐさ)き臭(か)のするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに少なし。昔何の隼人(はやと)という猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。」
下には今年(2025年)撮影された白い鹿の動画を引用させていただきました。

「その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢(かたあし)折れたり。その山を今片羽山(かたはやま)という。さてまた前なる山へきてついに死たり。その地を死助(しすけ)という。死助権現(しすけごんげん)とて祀れるはこの白鹿なりという。」
下には各地点の位置関係が分かるグーグルマップです。

千晩ヶ岳は現在「仙磐山」と呼ばれ、片羽山は雄岳と雌岳の双耳峰です。また「死助権現」は当初、笛吹峠と界木峠の間にある権現山山頂付近に祀られていましたが、現在は笛吹峠の釜石側に移され「笛吹大権現」と呼ばれています。

上には「笛吹大権現」の周辺のストリートビューを引用させていただきました。鳥居の上方に祠が設置されています。

三三(白望山の黄金)

「白望(しろみ)の山に行きて泊まれば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋のころ茸を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞こゆることあり。」
「注釈遠野物語」ではこちらの現象を「タタラ製鉄」と関連付けています。以下に引用させていただきました。

北上山地の花崗岩風化地帯からは、良質の砂鉄が採取されたのでタタラ製鉄が盛んな地域であった。(中略)たたら製鉄の火が空を焦がしていたのだから、白見山での夜の発光現象や大木を切り倒す音、歌声などは、里人の知らない山間に住む製鉄民の存在をうかがわせるものであった。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P143~144

続けて島根県雲南市の田部家が復興した「たたら製鉄」の動画を引用させていただきました。こちらのような作業を屋外で行ったとすれば、周辺は昼のように明るくなったことでしょう。

「この山の大さは測るべからず。五月に萱(かや)を苅りに行くとき、遠く望めば桐(きり)の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと能わず。」
下に引用させていただいたように白望山には「マヨイガ」という幻の家があるとされ(遠野物語63話)、全貌を把握できない不思議な山でした。

「かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋(とい)と金の杓(しゃく)とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。」
山中にあった樋と杓の意味について「注釈遠野物語」では以下のような解説をしています。

この金は黄金であろう。金沢村は藩政時代は金の大産地であった。そして柳田は(中略)これは昔の人は「霊魂の宿る所と見て居った」のであろうという。また、内藤正敏は鉱山師としてのかね掘りを想定している。そして「樋」は鉱石を流水で流して比重によって選鉱するときに使う樋であるとし、「杓」はカッチャと呼ばれる土砂を掘る道具をこの地方ではシャクシというところから、これも採鉱用具であるという

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P141

「また来んと思いて樹の皮を白くし栞(しおり)としたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。」
一緒についてきた人々が「夢でも見たのではないか」と嫌味をいう場面を想像してみましょう。

三四話・三五話(山女)

「白望の山続きに離森(はなれもり)というところあり。その小字(こあざ)に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。」
以下には遠野での炭焼きの資料や小屋の写真(右下)を引用させていただきます。木炭づくり(炭焼き)には何日もかかかるため、木材を入手できる場所に小屋を建て、泊まりこみで作業をしていました。

「或る夜その小屋の垂菰(たれごも)をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂たれたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。」
金や鉄を産出する山中では多くの家族が生活しており、もちろん女性もいました。下には盛岡市の郷土舞踊「金山踊」の衣裳に身を包んだ女性の写真を引用いたします。お祭りなどでは彼女たちが華やかな踊りを奉納したことでしょう。

出典:『岩手の産業と名勝』,岩手県書籍雑誌商組合,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1111957 (参照 2025-04-14、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1111957/1/43

続く三五話も「山女」の話です。

「佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばわりたるを聞けりとぞ。」

旅行などの情報

遠野ふるさと村

「遠野ふるさと村」は昭和初期の遠野の集落を再現した施設です。江戸時代から明治時代に造られた六棟の曲り家と一棟の直家が移築され、内部の見学もできます。こちらでは地元のまぶりっと衆(遠野の方言で「守り人」)が昔の生活について教えてくれたり、農作業をみせてくれたりするので、「遠野物語」時代の生活が身近に感じられるでしょう。

他にも上に引用させてただいた白馬やポニー、たぬきやりすなどとのふれあいが楽しめるのも魅力の一つ。炭焼き小屋では地元で切り出した木材を使った炭作りが、水車小屋ではわら打ちや製粉が行われています。

基本情報

【住所】岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛5-89-1
【アクセス】遠野駅より早地峰バスで約25分
【参考URL】https://tonojikan.jp/tourism/tono-furusatomura/

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