柳田国男「遠野物語」の風景(その8)

シルマシや山の神の話

遠野では人が死ぬ前にしばしば前兆(シルマシ)がありました。例えば、死の床にあったはずの人が村のイベントに参加したり、お寺の和尚に話を聞きにいったりしたのが目撃されています。また、遠野には山の神と遭遇した話も多数伝わっています。なかには無礼な態度をとったため祟りにあうことも・・・・・・。

八六・八八話(不吉の前兆「シルマシ」)

【八六話】
「土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿(もとじゅく)という。此所に豆腐屋を業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬(こがらせ)川を隔てたる字下栃内(しもとちない)に普請(ふしん)ありて、地固めの堂突(どうづき)をなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶(あいさつ)し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。」
「注釈遠野物語(P267)」では堂突について以下のように解説しています。

建物の土台石を置くために土を突いて平らに固める作業。棟上げの前日に行う。七、八人で縄を持ち上げて落とす。リズムをとるための作業唄「遠野地固め節」がある

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P267

下にはその遠野地固め節の動画を引用させていただきました。政の父もこちらのような唄にあわせて堂突をしていたかもしれません。

「あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。」

「政の父」はこのようにして世を去りますが、最後に村の仲間と堂突を行えたことに満足していたのではないでしょうか。

続いての八七話・八八話は似たお話です。ここではカッパと縁の深い常堅寺(遠野物語の風景その5.参照)を舞台とした八八話を引用いたします。
【八八話】

「これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺(じょうけんじ)は曹洞宗(そうとうしゅう)にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭(ふれがしら)なり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿(もとじゅく)より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も宜(よろ)しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。」
下には常堅寺の門前の写真を引用いたしました。こちらで「何某という者」が大病をしている「何某という老人」と立話をしているところを想像してみます。

出典:uetchy, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons、常堅寺。岩手県遠野市。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jokenji_temple_%E5%B8%B8%E5%A0%85%E5%AF%BA_-_Dec_23,_2012.jpg

「常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし故(ゆえ)出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外(そと)にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失うせたり。」
死を目前に控えた「何某という老人」は常堅寺の和尚とどのような会話を交わしたかは興味深いところです。死後の世界についての質問(?)または、今生に犯してしまった罪の懺悔などいろいろ考えられます。いずれにしても和尚との会話のおかげですっきりとした気持ちであの世に行けたのではないでしょうか。

八九話(山の神)

「山口より柏崎へ行くには愛宕山(あたごやま)の裾(すそ)を廻(まわ)るなり。田圃(たんぼ)に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木(ぞうき)の林となる。愛宕山の頂(いただき)には小さき祠(ほこら)ありて、参詣(さんけい)の路は林の中にあり。登口(のぼりくち)に鳥居(とりい)立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁(かたわら)にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。」

(愛宕山の)頂上に、朽ちた木柵に囲まれた小さな石造りの祠があり、甲冑騎馬姿で、手には錫杖をもった尊像があり、その裏面には明治一八(一八八五)年一月と記されている。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P271~271

「注釈遠野物語」に記されている尊像や遠野物語にある「山神の字を刻みたる石塔」の写真を以下に引用させていただきます。このように「遠野物語」をイメージできる史跡が多く残っているのも遠野の魅力です。

「和野(わの)の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降(くだ)り来る丈(たけ)高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角(かど)にてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀(かがや)きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後(あと)をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。」
こちらのお話には以下のような注釈が加えられています。
「○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。」

上に引用させていただいたような山神塔がたくさんあるところでは、山の神に出会う確率が高いかもしれません。

九十・九十一話(山神の祟り)

【九十話】
「松崎村に天狗森(てんぐもり)という山あり。」

以下にはカッパ淵の近くからのストリートビューを掲載いたしました。以下のように標高756ⅿの三角錐の山(天狗森または天ヶ森)が見えます。

「その麓なる桑畠(くわばたけ)にて村の若者何某という者、働きていたりしに、頻(しき)りに睡(ねむ)くなりたれば、しばらく畠の畔(くろ)に腰掛けて居眠(いねむ)りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤(まっか)なるが出で来たれり。」
真赤な大男の正体は「天狗」だったのでしょうか。下に引用させていただいた「天狗の牙」が伝わるなど、遠野には古くから天狗信仰があります。

「若者は気軽にて平生(へいぜ)相撲(すもう)などの好きなる男なれば、この見馴(みな)れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪(つらにく)く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢(ちからじまん)のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。」
以前(遠野物語の風景その4・参照)では「相撲を取り平生力自慢の者」のところで「常陸山谷右エ門」に登場してもらいましたが、下には常陸山のライバルで「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築いた「梅ヶ谷藤太郎」の写真を引用いたしました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、梅ヶ谷 藤太郎、横綱(1903年頃)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yokozuna-Umegatani-T%C5%8Dtar%C5%8D-II-c1903.png

「その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳(ひ)きて萩(はぎ)を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。」

「村の若者何某という者」は再び天狗と出会い、怒りを買うようなことをしてしまったのでしょうか。

【九一話】
「遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵(だんしゃく)家の鷹匠(たかじょう)なり。町の人綽名(あだな)して鳥御前(とりごぜん)という。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処ありどころとを知れり。年取りてのち茸採(きのこと)りにとて一人の連れとともに出でたり。」
下には遠野南部家(明治30年男爵を受爵)の居城・鍋倉城跡の写真を引用させていただきました。鳥御前もこちらのお城に出入りしていたと思われます。

「(中略)さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山(むけえやま)という山より、綾織(あやおり)村の続石(つづきいし)とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端はより四五間(けん)ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰(かげ)に赭(あか)き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢(であ)いたり。」

出典:写真AC、伝説の巨石 続石(岩手県遠野市)
https://www.photo-ac.com/main/detail/23121521&title=%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%B7%A8%E7%9F%B3%E3%80%80%E7%B6%9A%E7%9F%B3%EF%BC%88%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E9%81%A0%E9%87%8E%E5%B8%82%EF%BC%89

「彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡(ひろ)げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構(かま)わず行きたるに女は男の胸に縋(すが)るようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯(たわ)むれて遣(や)らんとて腰なる切刃(きりは)を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙(あ)げて蹴(け)りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。」
下には赤ら顔をした山神のお面の写真を引用させていただきます。色赤き男に蹴られた鳥御前は気を失ってしまいました。

「連なる男はこれを探(さが)しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥(やまぶし)のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟(たたり)をうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合(しりあい)なりき。今より十余年前の事なり。」

九四(狐のいたずら)

九三話にも登場する「菊池菊蔵という者」のお話。
「この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞(ふるま)われたる残りの餅(もち)を懐(ふところ)に入れて、愛宕山の麓(ふもと)の林を過ぎしに、象坪(ぞうつぼ)の藤七という大酒呑(おおざけの)みにて彼と仲善(なかよし)の友に行き逢えり。」

菊蔵の仲良しの友、象坪の藤七(ここでは狐の化身)も当時実在した人物である。そして象坪家の背後の小高い山は象坪山で、見上げる位置によっては長く山裾をひく具合が象の頭部から鼻にかけてのようにも見える。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P286

下のストリートビューからの愛宕山は「注釈遠野物語」に述べられているように、象の鼻に見えるでしょうか。物語の現場はこの愛宕山の麓の林でした。

「そこは林の中なれど少しく芝原(しばはら)あるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を指さし、ここで相撲(すもう)を取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱(かか)えては投げらるる故、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。」
遠野物語には「相撲」というキーワードが何度か登場し、民間の娯楽として定着していたことが分かります。ここでは、2代目梅ヶ谷と常陸山の立合いの写真を引用させていただきました。物語では「梅常陸時代」の二人のように互角ではなく、菊蔵が一方的に藤七を投げていましたが・・・・・・。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、常陸山(左)と2代梅ヶ谷(右)に立合いを指導する23世吉田追風(中央)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hitachiyama_vs_Umegatani_and_Oikaze.jpg

「四五間(けん)も行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。

なお、「遠野物語」では狐の仕業にしていますが、「注釈遠野物語」では「この象坪山は第八九話の愛宕山であり、そこでは山から下りてきた『丈高き人』が山の神であると語られている。(中略)『餅󠄀』は山の神と結び付く話が多いことも考えておきたいところである。」
と記しています。

上に引用させていただいたのは「遠野市立博物館」において展示された山の神像です。少し怖いお顔をされていますね。狡賢い手を使って餅󠄀を横取りするのは、山の神ではなく、狐のほうがイメージに合っているように思えます。

旅行などの情報

続石

第91話は続石の近くで鷹匠の鳥御前が山神様と出会うストーリーでした。続石が作られた目的については諸説あり、鳥居のような形状をした岩の間は人が余裕をもってくぐれます。

また、上に引用させていただいた「泣石」も名所の一つです。こちらは弁慶が最初に笠石を置いたとされる巨石で、他の石の下になるのは残念だといって一夜中泣き明かしたことが名前の由来です。途中には「弁慶の昼寝場」という名前の平地もあり、「弁慶」は遠野ではポピュラーな歴史上の人物であった事がわかります。

続石は「続石観光専用駐車場」から15分ほどの山中にあります。クマ鈴などの熊対策をして、歩きやすい服装でお出かけください。

基本情報

【住所】岩手県遠野市綾織町上綾織6地割
【アクセス】JR遠野駅から徒歩で約12分
【参考URL】https://tonojikan.jp/kanko/tsuzukiishi.php