柳田国男「遠野物語」の風景(その9最終回)

遠野の地名や祭り

遠野には棄老伝説のある「デンデラノ」とそこで死んだ者のお墓「ダンノハナ」という地名が数多く残っています。なかでも佐々木喜善のお墓がある山口地区はこの2つがセットで残る貴重な場所です。また、遠野では「ゴンゲサマ」が舞いながら災いを払ってくれる「神楽舞」や勇壮な「獅子踊」など、多彩な伝統芸能を見ることができます。

九七話(臨死体験)

「飯豊(いいで)の菊池松之丞(まつのじょう)という人傷寒(しょうかん)を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺(ぼだいじ)なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。」

「注釈遠野物語P293」によると「キセイ院」とは遠野市青笹町の曹洞宗「天英山喜清院」のことです。下には喜清院の門側のストリートビューを引用いたしました。また、「傷寒」とは「漢方医学で、腸チフスなどの急性の熱性疾患をいう」とあります。

「足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下(まえさがり)に行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快(こころよ)し。寺の門に近づくに人群集せり。何故(なにゆえ)ならんと訝(いぶか)りつつ門を入れば、紅(くれない)の芥子(けし)の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。」
菊池松之丞が喜清院の門に入ると、辺り一面には紅色の花が広がっていました。下にはヒナゲシ畑の写真を引用いたします。こちらの空中を気持ちよさそうに飛ぶ松之丞の姿をイメージしてみましょう。なお、実際の喜清院にはヒナゲシ畑はありませんが、シダレ桜の名所として知られています。

出典:写真AC、ヒナゲシ畑
https://www.photo-ac.com/main/detail/30217903&title=%E3%83%92%E3%83%8A%E3%82%B2%E3%82%B7%E7%95%91

「この花の間に亡(な)くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚(よ)ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集(つど)い水など打ちそそぎて喚(よ)び生(い)かしたるなり。」

九九話(明治29年の大津波)

「土淵村の助役北川清という人の家は字火石(ひいし)にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元(もと)の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。」
下には「先年の大津波(=明治二九年に起きた「明治三陸地震津波」)」の被害を表す写真を引用いたしました。

出典:English: Imperial Household Ministry(present-day “Imperial Household Agency”)., This photo was taken by Tomezo Kunifu.日本語: 宮内省(現・宮内庁), 撮影者:国府留蔵, Public domain, via Wikimedia Commons、1896年明治三陸大津波によって、対岸の細浦から志津川町権現浜に漂着した民家
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanriku_Great_Tsunami.JPG

「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪(なみ)の打つ渚(なぎさ)なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々(はるばる)と船越(ふなこし)村の方へ行く崎の洞(ほこら)あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。」

この渚は、現在、田の浜の防波堤になっている辺りといわれ、今となっては、その痕跡すら見ることができない。また、「渚=波打ち際」には、異界・異郷との接点という特別な意味があり、その接点上で、恋しい妻の亡霊を見たと解すべきであろう。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P301

上に引用させていただいたように、現在の「田の浜」は地形が変わってしまっているとのこと。ここでは防波堤の近くにある「荒神海水浴場」のストリートビューを掲載して、死んだはずの妻に出会う場面を想像してみましょう。

「男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛(かわい)くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元(あしもと)を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退(の)きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰(やまかげ)を廻(めぐ)り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩(わずら)いたりといえり。」

一〇〇話(夢の中で取り憑く狐)

「船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里(きりきり)より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定(ひつじょう)化物(ばけもの)ならんと思い定め、やにわに魚切庖丁(うおきりぼうちょう)を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。」
「注釈遠野物語(P303)」によると国道四五号の開通により、「四八坂」は廃止になったとのこと。ここでは、周辺に残る林道のストリートビューからこちらの場面を想像してみましょう。夜の出来事でしたが、人の顔がはっきりと見えたのは月明かりがさしていたからと思われます。

「しばらくの間は正体を現わさざれば流石(さすが)に心に懸り、後(あと)の事を連(つれ)の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅(おびや)かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。」

「さてはと合点(がてん)して再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐(きつね)となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭(やと)うことありと見ゆ。」

一〇三話(雪女)

「小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。」
下には雪女がでそうな遠野の満月の夜の写真を引用させていただきました。

「里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊(そりっこあそ)びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。」

遠野の駅前には上の写真のような美しい雪女の像が設置されています。以下には「水木しげるの遠野物語」から水木さんのコメントを引用させていただきました。

「雪女はよく息を吹きかけ人を凍死させたりするというが、遠野の雪女は童子を引き連れているというし、恐ろしい感じはあまりしないようだね。」

「しかしやはり戒めの言葉とは、なっているようだ。」

出典:水木しげるの遠野物語、小学館、2015年(第9版)、P223

一〇九話(雨風祭)

「盆のころには雨風祭とて藁(わら)にて人よりも大なる人形を作り、道の岐(ちまた)に送り行きて立つ。紙にて顔を描き瓜(うり)にて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。」
下に引用させていただいた大きな藁人形は雨風祭用、右上の小さな藁人形は虫祭用に造られたものと思われます。

「雨風祭の折は一部落の中にて頭屋(とうや)を択(えら)び定め、里人(さとびと)集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓(ふえたいこ)にてこれを道の辻まで送り行くなり。」
以下には雨風祭のときに「道の辻」に送られた藁人形の写真を引用いたしました。

「笛の中には桐(きり)の木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る』という。」

一一〇話(ゴンゲサマ)

「ゴンゲサマの霊験(れいげん)はことに火伏(ひぶせ)にあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮(ひぐれ)宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快(こころよ)くこれを泊(と)めて、五升桝(ます)を伏せてその上にゴンゲサマを座(す)え置き、人々は臥(ふ)したりしに、夜中にがつがつと物を噛(か)む音のするに驚きて起きてみれば、軒端のきばたに火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰(く)い消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。」

上には遠野郷八幡宮でのゴンゲサマの動画を引用させていただきます。パクパクと噛んでもらって災いを吹き飛ばしましょう。

一一一話・一一二話(ダンノハナ)

【一一一話】
以下は遠野地方の棄老(姥捨て)伝説に関するお話です。
「山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡(ひわたり)、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習(ならい)ありき。」

「注釈遠野物語P329・P330」では遠野に残るダンノハナ・デンデラノの分布図を掲載し
「一般に知られているダンノハナと蓮台野(デンデラノ)は土淵村の高室と青笹の善応寺であり、それぞれ対になっている。その他のダンノハナとデンデラノとの関係は、まだ確かめられていない。」
と記しています。
下には土淵村・高室のダンノハナ・デンデラノの航空写真を掲載いたしました。ダンノハナとデンデラノの間には曾祖母ミチの霊が現れた(遠野物語の風景その3・参照)佐々木喜善氏の生家があります。

老人はいたずらに死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。」

【一一二話】
ここからは土淵村・高室のダンノハナ・デンデラノのお話になります。
「ダンノハナは昔館(たて)のありし時代に囚人を斬(き)りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞(おおほら)へ越ゆる丘の上にて館址(たてあと)よりの続きなり。」
「館址」については「注釈遠野物語P332」では「阿曾沼の家臣の山口修理が住んでいたと伝えられている(『遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書』)」とあり、ダンノハナにある佐々木喜善氏などのお墓からは下のようなのどかな景色を望めます(遠野市立博物館の投稿を引用させていただきました)。

「蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷(えぞやしき)という四角に凹(へこ)みたるところ多くあり。その跡(あと)きわめて明白なり。あまた石器を出す。」
下には山口デンデラ野の写真を「遠野時間」の公式サイトから引用させていただきました。なお、「遠野時間」によると中央部の建物は「当時の住居をイメージして再現したレプリカ」とのことです。遠野物語以前にはこちらのような建物が複数あり、老人たちは助け合いながら生活していたと思われます。

出典:遠野市観光情報サイト・遠野時間、デンデラ野、https://tonojikan.jp/tourism/denderano/

「石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字(こあざ)をホウリョウという。」

「ホウリョウ」の場所について詳細は記されていませんが、文献(遠野物語に見る柳田國男の考古学的関心、黒田篤史、国立歴史民俗博物館研究報告第202 集、2017年3月、P231)には詳細な推定図が掲載されていて、グーグルマップ(上)では「山口の水車小屋」の南側に当たります。以下には「ホウリョウ」にある石塔などの写真を引用させていただきました。

「ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊(こと)なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様(もよう)なども巧たくみなり。埴輪(はにわ)もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭(えぞせん)とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋(うずもん)などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉(くだたま)も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。」

下には上の投稿でも触れられている「ホウリョウ権現(中央部の祠)」周辺のストリートビューを掲載いたしました。なお「ホウリョウ権現」の御神体は蛇とされていて、この近くでは蛇の殺生が戒められていたとのこと(柳田国男、石神問答)。そういえば、蛇を殺生したあとにザシキワラシが去った山口孫左衛門の家もこの近くにありました(遠野物語の風景その2・参照)。

「ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩(いっちょうぶ)ほどの場所なり。星谷は底の方(かた)今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば祟(たたり)ありという場所二ヶ所ほどあり。」
「注釈遠野物語P332」には「蝦夷屋敷」について以下のように記されています。
「一般に先住民の住居跡をいう。蝦夷とは、古代の東北日本によった地方民の広い呼称で、縄文人から始まって阿部一族のころまで、その実態は時代・地方によって異なる」


上に掲載したのは星谷周辺のストリートビューです。遠い昔、この周辺には「蝦夷屋敷」が建ち並び集落ができていました。

一一九(獅子踊)

「遠野郷の獅子踊(ししおどり)に古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。
○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。」
この後の歌詞をもって「遠野物語」が結ばれています。
下には「獅子踊」面の写真を引用させていただきました。

「注釈遠野物語P358」によれば遠野の「しし踊りの源流のひとつは『遠野古事記』に記されている松崎町駒木の角助踊り。もうひとつは小友の長野に伝わっているものであり、この二系統がある。」
とのこと。
下には駒木のしし踊りの動画を引用させていただきます。

徐々に舞がダイナミックになり、動画を見ているだけでも元気をいただけそうです。

それでは「どんとはれ」。

旅行などの情報

遠野めぐり(青笹・上郷エリア)

今回は遠野でも有名な写真映えスポット・荒神神社を中心に散策をしてみましょう。「荒神神社」には「田んぼの中に佇む茅葺き屋根の神社に祀られている権現様は隣の地区の権現様とケンカして片耳をかじりとったという伝説があり、荒ぶる神様として荒神様とも呼ばれています。(遠野市観光協会公式サイトより引用)」と、「遠野物語」一一〇話に似たエピソードが残っています。下に引用させていただいたように四季に応じた景観が楽しめるのも魅力です。

荒神神社は青笹・上郷エリアにあり、周辺には第二話で遠野三山の神となった三姉妹の伝説が残る伊豆神社(第二話)や「この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢う」と恐れられた笛吹峠などがあります(遠野物語の風景その1・参照)。ガイドブック「とおのあるき(岩手日報社)」にはこのエリアについて以下のように記されています。静かな場所でゆったりと遠野物語の世界に浸ってみてはいかがでしょうか。

田んぼや林の陰のあちこちにも小さな祠や石碑を見つけることができ、そのありのままの山里と暮らしと信仰の風景は、ほかとはまた違った魅力を持っています。

出典:とおのあるき、岩手日報社、2013年(第二版)

基本情報

【住所】岩手県遠野市青笹町中沢21地割8(荒神神社)
【アクセス】釜石自動車道遠野ICから約16分
【参考URL】https://tonojikan.jp/tourism/aragamijinja-shrine/

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