田中貢太郎「四谷怪談」の風景(その1)

幽霊の代名詞「お岩さん」

今回は「皿屋敷(皿屋敷の風景)」や「牡丹燈籠」とならんで日本の三大怪談とよばれる「四谷怪談」の風景を追っていきましょう。お話には多彩なバリエーションがありますが、ここでは「東海道四谷怪談」の原典とされ、元禄時代の実話を記した「四谷雑談集」に沿った小説をもとにします。天然痘の後遺症で醜い顔になったお岩でしたが、美男の伊右衛門を婿にとり、しばらくは幸せに暮らしていました・・・。

お岩さんの実像

文政年間(1825年頃)、鶴屋南北の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」が大ヒットし、その主役である「お岩さん」は最も有名な幽霊とされてきました。

出典:Katsushika Hokusai, Public domain, via Wikimedia Commons、葛飾北斎『百物語』提灯お化けのお岩さん
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shunkosai_Hokuei_Obake.jpg

上には盆提灯からお岩の顔が現れるという葛飾北斎の絵を引用いたします。こちらは歌舞伎(東海道四谷怪談)の「提灯抜け」という演出にヒントを得ているとのことです。
併せて、以下には江戸東京博物館による「提灯抜け」の仕掛けについての動画も引用させていただきました。

「お岩さん」は江戸初期に実在した女性で、その屋敷(田宮邸)の跡に建つ「(四谷)於岩田宮稲荷神社」の由緒には以下のように記されています。
「東京都指定旧跡 田宮稲荷神社跡

田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品でお岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で焼失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一)に指定されました。戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。」
このように実際のお岩さんは幸せな人生を送ったとされています。
「四谷雑談集」はお岩が亡くなった寛永一三(1637)年から50年ほど経った元禄時代(1688~1704年)と、時代設定が合いません。そのため「四谷雑談集」は元禄時代の別事件と既に著名だった「お岩稲荷」とが結びつけられたという説や、お岩より数代後の同家(田宮家)の実話であるなどの説があります。

出典:Utagawa Hiroshige, Public domain, via Wikimedia Commons、廣重画「忠臣藏 夜討二 亂入」、横大判錦絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Act_XI_Second_Episode-_Ronin_Breaking_into_the_Inner_Building_of_Moronao%27s_Castle_

元禄時代には戦国時代からの武断政治が文治政治へ転換し、俳句や浄瑠璃、歌舞伎などを含む芸能が発展しました。赤穂事件を題材とした「仮名手本忠臣蔵」が流行したのもこの頃で「東海道四谷怪談」はその外伝として交互に演じられたとのことです。上には「仮名手本忠臣蔵」の討ち入り場面を描いた歌川広重の絵を引用いたしました。

お岩について

それでは物語に入りましょう。なお、引用させていただく文章は青空文庫の四谷怪談(田中貢太郎)をベースにさせていただきます。
「元禄(げんろく)年間のことであった。四谷左門殿町に御先手組(おさきてぐみ)の同心を勤めている田宮又左衛門(たみやまたざえもん)と云う者が住んでいた。その又左衛門は平生ふだん眼が悪くて勤めに不自由をするところから女(むすめ)のお岩に婿養子をして隠居したいと思っていると、そのお岩は疱瘡(ほうそう)に罹(かか)って顔は皮が剥(む)けて渋紙を張ったようになり、右の眼に星が出来、髪も縮れて醜い女となった。」

「疱瘡」とは天然痘のことで当時は不治の病として恐れられていました。健康を回復しても下に引用した事例のように顔にあばたが残ることが多かったようです。

出典:『痘瘡面上図』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539382 (参照 2025-06-02、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2539382/1/5

「それはお岩が二十一の春のことであった。又左衛門夫婦は酷(ひど)くそれを気にしていたが、そのうちに又左衛門は病気になって歿(な)くなった。そこで秋山長右衛門(あきやまちょうえもん)、近藤六郎兵衛(こんどうろくろべえ)など云う又左衛門の朋輩が相談して、お岩に婿養子をして又左衛門の跡目を相続させようとしたが、なにしろお岩が右の姿であるから養子になろうと云う者がない。皆が困っていると、下谷(したや)の金杉(かなすぎ)に小股潜(こまたくぐり)の又市(またいち)と云う口才のある男があって、それを知っている者があったので呼んで相談した。又市は、

「これは、ちと面倒だが、お礼をふんぱつしてくだされるなら、きっと見つけて来ます」
 と、云って帰って往ったが、間もなく良い養子を見つけたと云って来た。それは伊右衛門(いえもん)と云う摂州(せっしゅう)の浪人であった。伊右衛門は又市の口に乗せられて、それでは先ず邸(やしき)も見、母親になる人にも逢(あ)ってみようと云って、又市に跟(つ)いてお岩の家へ来た。」

お岩の家

下の地図(江戸切絵図)の丸で囲んだ場所が実在のお岩の屋敷跡です。こちらの地図は江戸時代末期に作成されたもので、既にお岩さんの家跡が「於岩イナリ(稲荷)」と記されています。

出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286668 (参照 2025-06-02、一部抜粋・加工)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1286668

以下には近年の「於岩イナリ(於岩稲荷田宮神社)」周辺のストリートビューを掲載いたしました。

なお、「於岩稲荷田宮神社」の北側には寺院が並ぶ「南寺町」があり、今も多くの寺院が残っています。特に永心寺の山門と本堂は戦災を逃れた江戸時代の建造物で、2019年に新宿区の文化財に指定されました。下に引用させていただいた永心寺のストリートビューから「四谷怪談」の当時をイメージしてみましょう。

「伊右衛門は美男でその時が三十一であった。お岩の家ではお岩の母親が出て挨拶(あいさつ)したがお岩は顔を見せなかった。伊右衛門は不思議に思ってそっと又市に、
『どうしたのでしょう』
 と云うと、又市は、
『あいにく病気だと云うのですよ、でも大丈夫ですよ、すこし容貌(きりょう)はよくないが、縫物が上手で、手も旨いし、人柄は至極柔和だし』
と云った。伊右衛門は女房は子孫のために娶(めと)るもので、妾(めかけ)として遊ぶものでないから、それほど吟味をするにも及ばないと思った。この痩浪人(やせろうにん)は一刻も早く三十俵二人扶持(ぶち)の地位(みぶん)になりたかったのであった。
双方の話は直ぐ纏(まと)まった。伊右衛門は手先が器用で大工が出来るので、それを云い立てにして御先手組頭三宅弥次兵衛(みやけやじべえ)を経て跡目相続を望み出、その年の八月十四日に婚礼することになり、同心の株代としてお岩の家へ納める家代金十五両を持って又市に伴(つ)れられ、その日の夕方にお岩の家へ移って来た。」
下には1959年に公開された映画(東海道四谷怪談)の一場面を引用いたしました。伊右衛門役の天地茂は当時30歳弱で物語の設定どおりの色男でした。

出典:新東宝株式会社, Public domain, via Wikimedia Commons、『東海道四谷怪談』1959年7月1日公開
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yotsuyakaidan-2.jpg

「お岩の家では大勢の者が出入して、婚礼の準備を調えていたので、伊右衛門は直ぐその席に通された。そして、その一方では近藤六郎兵衛の女房がお岩を介錯(かいしゃく)して出て来たが、明るい方を背にするようにして坐らしたうえに、顔も斜に向けさしてあった。伊右衛門は又市の詞(ことば)によってお岩は不容貌(ぶきりょう)な女であるとは思っていたが、それでもどんな女だろうと思って怖いような気もちで覗(のぞ)いてみた。それは妖怪(ばけもの)のような二た目と見られない醜い顔の女であった。伊右衛門ははっと驚いたが、厭(いや)と云えば折角の幸運をとり逃がすことになるので、能(よ)いことに二つは無いと諦めてそのまま式をすましてしまった。」
下には明治時代に発行された「四ツ谷雑談」から婚礼時の図を引用いたしました。お岩の顔を見て驚く様子が描かれています。

出典:編輯人不詳『四ツ谷雑談 : 今古実録』,栄泉社,明17.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/882268 (参照 2025-06-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/882268/1/5


「いよいよお岩の婿養子になった伊右衛門は、男は好いし器用で万事に気の注(つ)く質(たち)であったから、母親の喜ぶのは元よりのこと、別けてお岩は伊右衛門を大事にした。しかし、伊右衛門は悪女からこうして愛せられることは苦しかった。苦しいと云うよりは寧(むし)ろあさましかった。それもその当座は三十俵二人扶持に有りついたと云う満足のためにそれ程にも思わなかったが、一年あまりでお岩の母親が歿くなって他に頭を押える者がなくなって来ると、悪女を嫌う嫌厭(けんお)の情が燃えあがった。」

上には同じく1979年の東海道四谷怪談・予告編を引用させていただきます。最初の場面でお岩さんが鏡を覗く姿が・・・・・・。ちなみに、「東海道四谷怪談」のお岩さんは天然痘ではなく、毒薬を飲まされて顔が醜くくなってしまう筋書きになっています。

喜兵衛、伊右衛門をそそのかす

ここからは伊藤喜兵衛という悪役が登場し、伊右衛門をそそのかしにかかります。
「その時御先手組の与力に伊藤喜兵衛(いとうきへえ)と云う者があった。悪竦(あくらつ)な男で仲間をおとしいれたり賄賂(わいろ)を執ったりするので酷く皆から嫌われていたが、腕があるのでだれもこれをどうすることもできなかった。その喜兵衛は本妻を娶らずに二人の壮(わか)い妾を置いていたが、その妾の一人のお花(はな)と云うのが妊娠した。喜兵衛は五十を過ぎていた。喜兵衛は年とって小供を育てるのも面倒だから、だれかに妾をくれてやろうと思いだしたが、他へやるには数多(たくさん)金をつけてやらなくてはいけないから、だれか金の入らない者はないかと考えた結局(あげく)、時どき己(じぶん)の家へ呼んで仕事をさしている伊右衛門が、容貌の悪い女房を嫌っていることを思いだしたので、伊右衛門を呼んで酒を出しながらそのことを話した。」

伊右衛門が「同心」で三十俵二人扶持というのは、時代劇「必殺仕事人」で東山紀之さんが演じられていた渡辺小五郎と同じです。上には「必殺」の渡辺家での一場面を引用させていただきました。「ムコ殿」という姑(キムラ緑子さん)の声が聞こえてきそうです。一方の伊藤喜兵衛は「与力」という中間管理職で、警察であれば警察署長、司法なら裁判官と検察官を兼ねるような役職だったようです(ウィキペディア・与力)。「必殺」でいうと渡辺さんの上役・増村倫太郎にあたります。以下に引用させていただいたように、2022年新春放送では生瀬勝久さんが役をつとめられていました。

伊右衛門は上役の喜兵衛から「お花」を引き受けてくれとの相談を持ちかけられます。
「『お前が引受けてくれないか、そのかわり一生お前の面倒を見てやるが』
 伊右衛門はその女に執着を持っていたから喜んだ。
『あの妖怪(ばけもの)と、どうして手を切ったら宣(よ)いのでしょう』
『それは、わけはないさ』

「喜兵衛は伊右衛門に一つの方法を教えた。伊右衛門はそれを教わってから家を外にして出歩いた。そして、手あたり次第に衣服(きもの)や道具を持ち出したのですぐ内証(ないしょ)が困って来た。お岩がしかたなしに一人置いてあった婢(げじょ)を出したので、伊右衛門の帰らない晩は一人で夜を明さなければならなかった。お岩は伊右衛門を恨むようになった。」

伊右衛門の博奕・女狂いを指摘され・・・

するとある日、
「その時喜兵衛の家からお岩の許(もと)へ使が来て、すこし逢いたいことがあるから夜になって来てくれと云った。お岩は夕方になっても伊右衛門が帰らないので、家を閉めておいて喜兵衛の家へ往った。喜兵衛はすぐ出迎えて座敷へあげた。

『あなたをお呼びしたのは、伊右衛門殿のことだが、あれは見かけによらない道楽者で、博奕(ばくち)打ちの仲間へ入って、博奕は打つ、赤坂(あかさか)の勘兵衛長屋の比丘尼(びくに)狂いはする、そのうえ、このごろは、その比丘尼をうけだして、夜も昼も入り浸ってると云うことだが、だいち、博奕は御法度だから、これが御頭の耳にでも入ると、追放になることは定まってる、そうなれば、あなたは女房のことだから、夫に引きずられて路頭に迷わなくてはならない、そうなると、田宮家の御扶持切米も他人の手に執られることになる、わたしはあなたの御両親とは親しくしていたし、意見もしたいと思うが、わたしは与力で、支配同然だからすこし困る、どうか、あなたが意見をして、博奕と女狂いをよすようにしてください』
比丘尼とは出家した女性のことをさしますが、ここでいう比丘尼は「歌比丘尼」とも呼ばれた遊女のことです。以下には仏画を入れた箱を持ちながら、髪を黒布で隠し、薄化粧をした典型的な歌比丘尼の図を引用いたしました。

出典:日本美術協会 編『慶長寛永風俗画集』,画報社,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1014797 (参照 2025-06-03、一部抜粋)、十七、 歌比丘尼圖(掛幅)松木善右衞門君藏
https://dl.ndl.go.jp/pid/1014797/1/26

「お岩は恥かしくもあれば悲しくもあった。お岩は泣きながら恨みと愚痴を云って帰って来たが、家は閉まったままで伊右衛門は帰っていなかった。伊右衛門はその晩は喜兵衛の家にいて、隣の部屋から喜兵衛とお岩の話を聞いていたのであった。」

旅行などの情報

四谷御岩稲荷田宮神社

由緒については上で引用した通り、江戸時代初期に実在したお岩さんに関連する史跡です。お岩さんの当時とかわらずお稲荷をお祀りしていて、拝殿の入口では狐の石造がお出迎えしてくれます。以下には2009年に撮影された田宮神社の写真を引用させていただきました。

出典:上野彦馬, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%96%BC%E5%B2%A9%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%94%B0%E5%AE%AE%

こちらでは宮司さんが在宅の場合は御朱印をいただくことができます。また不在の場合でも境内には「お言葉」と称するお守りが置いてあるので、自分の気持ちに近い札を持ち帰りましょう。参拝ごとにいただく札を並べることにより、自分の心の変化を知ることができるしくみです。

基本情報

【住所】東京都新宿区左門町17
【アクセス】東京メトロ四谷三丁目駅から徒歩約5分
【参考URL】https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_408.html

陽運寺

田宮神社のすぐそばにある陽運寺も「於岩稲荷」を名乗るスポット、こちらは日蓮宗のお寺になります。由緒によると「この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山」とのこと。境内の秦山木の下にはお岩様に縁の祠があったとも伝わっています。

また、本堂にはお岩様の木像が安置され、縁結びにご利益があるとのこと。上に引用させていただいたように境内では「隆龍」というカフェがあるのも特徴です。休憩をはさみながら「陽運寺」と「田宮神社」というお岩さんゆかりの地をめぐってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】東京都新宿区左門町18
【アクセス】東京メトロ四谷三丁目駅から徒歩約5分
【参考URL】https://oiwainari.or.jp/

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