柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その7)
不思議な場所やお宝伝説
「タイマグラ」のような里と山の境界では見慣れぬ風体の人を見かけることがありました。ほかにも死んだはずの女が目撃された「竜の森」や巨木に太い藤が大蛇のようにからまる「宝竜の森」などの不気味な場所も紹介されています。また、阿曽沼時代の「角城館跡」や源義家が陣を張った「八幡沢館」などには今もお宝が眠っているかもしれません。
一二一話(タイマグラの怪)
「土淵の鉄蔵と言う男の話に、早池峯山の小国村向きにあるタイマグラという沢には不思議なことばかりあるという。下村の某という男がいわな釣りに行ったところが、山奥の岩窟(がんくつ)の蔭に、赤い顔をした翁(おきな)と若い娘とがいた。いずれも見慣れぬ風俗の人たちであったそうである。」
以下には「タイマグラキャンプ場」を運営する早池峰山荘のインスタグラムを引用させていただきました。こちらの投稿のように「タイマグラという沢(現・薬師川と思われる)」ではイワナの放流が行われ、今でも川釣りを楽しむことができます。
「このタイマグラの土地には、谷川を挟んで石垣の畳を廻(めぐ)らした人の住居のようなものが幾か所も並んである。形は円形に近く、広さは二間四方ばかりあって、三尺ほどの入り口も開(あ)いている。昔は人が住んでいたのであろうといわれ、今でもどこかで鶏の声がするという。この話をした鉄蔵も、魚を釣りながら耳を澄ましていたら、つい近くで、本当に朗らかな鶏の鳴き声がはっきりと聞こえたそうである。これはもう十年近くも前の話であった。」
近年では昔の人の住居のかわりに上に引用させていただいたような色とりどりのテントが並んでいて、魚釣りなどのアウトドアを楽しめる場所になっています。
一二二話(タイマグラと安倍が城)
「タイマグラ」からは遠野物語65話(遠野物語の風景その6・参照)で語られた「安倍が城」も眺められるといいます。
「このタイマグラの河内(かつち)に、巨岩で出来た絶壁があって、そこに昔安倍貞任の隠れ家があったといい、ここを安倍ヶ城とも呼んでいた。下から眺めるとすぐ行けそうに見えるが、実は岩がきつくて、特別の路を知らぬ者には行くことができぬ。その路を知っている者は、小国村にも某という爺様一人しかいない。」
以下には安部が城を経由して早池峰山へ向かう登山日誌を引用させていただきました(登山情報サイトYAMAPより)。こちらの4枚目・5枚目の写真に「安部が城」周辺の風景が写されています。
徳兵衛山・早池峰剣ヶ峰・早池峰山東尾根縦走 / はるトーチャンさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
「土淵村の友蔵という男は、この爺様に連れられて城まで行ったことがあるそうな。その時もすぐ近くに見えている城までなかなか行けなくて、小半日かかってようやく行きついた。城の中は大石を立て並べて造った室で、貞任の使ったという石の鍋(なべ)、椀(わん)、包丁や石棒等があった。昔は雨の降る時など、この城の門を締める音が遠く人里まで聞こえたものだそうだが、その石の扉は先年の大暴風の時に吹き落とされて、岩壁から五、六間下に倒れていたという話である。」
上の登山日誌の表紙の写真は「早池峰剣ヶ峰から(見た)徳兵衛山」とのこと。こちらにも「安倍が城」の扉になりそうな大岩が点在しています。
【一二四話(竜の森)】
「村々には諸所に子供らが恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵に結ばれた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃(やじり)が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。」
下には遠野市立博物館のXから「竜ノ森」の画像を引用させていただきました。
「この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川でいわなに似た赤い魚を捕り、神様の祟りを受けたと言い伝えられている。この森に棲むものは蛇の類などもいっさい殺してはならぬといい、草花の様なものも決して採ってはならなかった。人もなるべく通らぬようにするか、余儀ない場合には栃の樹の方に向かって拝み、神様のご機嫌にさわらぬ様にせねばならぬ。先年死んだ村の某という女が、生前と同じ姿でこの森にいたのを見たという若者もあった。また南沢のある老人は夜更けにこの森の傍らを通ったら、森の中に見知らぬ態(なり)をした娘が二人でぼんやりと立っていたという。」
以下には同じ「竜が森」周辺と思われる土淵町のストリートビューも掲載しておきます。
「竜ノ森ばかりでなく、この他にも同じような魔所といわれる処がある。土淵村だけでも熊野ノ森の堀、横道の洞、大洞のお兼塚などすくなくないし、また往来でも高室のソウジは恐れて人の通らぬ道である。」
下には「熊野ノ森の掘」と「高室のソウジ」の写真を引用させていただきました。
なお、「高室のソウジ」とは遠野市立博物館の別のポストによると「デンデラノ(右上)へ向かう道路」とのこと。参考のため下には同地点と思われるストリートビューを埋め込みました。
一二五話(宝竜ノ森)
「字栃内林崎にある宝竜ノ森も同じような場所である。この森の祠は鳥居とは後向きになっている。森の巨木にはものすごい太い藤の蔓(つる)がからまり合っており、ある人が参詣した時、この藤がことごとく大蛇に見えたともいわれる。佐々木君も幼少の頃、この祠の中の赤い権現頭を見て、怖ろしくて泣いたのをはっきり覚えているという。」
上には遠野市立博物館が投稿した「宝竜ノ森」の画像を引用させていただきました。現在、周辺は森ではなくなっているようですが、「赤い権現様」は今も鎮座されています。
以下には同地点と思われるストリートビューも掲載いたしました。中央部の丘陵の左側に鳥居があり、上には背を向けるようにお堂(祠)が建っています。
一二九話(六神石神社の御本尊)
「上郷村大字佐比内(さびない)、赤沢の六神石神社の御本尊は、銅像にしてもと二体あった。昔から金の質が優れて良いという話であったが、一体はいつの間にか盗まれてなくなり、一体ばかり残っていた。」
下には六神石神社の写真を引用させていただきました。こちらは奈良時代の大同2年(807年)に創建された歴史のある神社です。
出典:遠野市観光協会公式サイト・遠野時間、六神石神社、https://tonojikan.jp/tourism/rokkoshi-shrine/
「その一体もある時盗み出した者があって、これを佐比内鉱山の鉱炉(かま)に入れて、七日七夜の間吹いたけれどもどうしても溶(と)けないので、盗人も恐れ入って社に返してきたという。今もある御神体がすなわちそれである。」
出典:東北森林管理局ウェブサイト、岩手南部森林管理署遠野支署の見所、佐比内鉄鉱山遺跡「案内掲示板」の画像(https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/introduction/gaiyou_kyoku/annai/midokoro/midokoro_2018_02.html)を加工(一部抜粋)して作成
上に引用させていただいたのは佐比内鉄鉱山遺跡の一番高炉跡の写真です。こちらの遺跡は現在、佐比内ため池の底に沈んでいて、水量が少ないときのみ高炉跡の一部を見ることができます(東北森林管理局ウェブサイトによる)。
一三〇話(沼跡から発見された観音様)
「左比内に太田館という丘がある。昔石田宗晴という殿様が住んでいたが、気仙から攻められて滅亡した。その時館の主は白毛の馬に乗ったまま、丘の下の丸井戸という沼に入って死に、その甲につけていた千手観音も、共に沈んでこの沼の底に在ると伝えられる。」
地域情報紙(コミュニティーかみごう)によると太田館の規模などは以下のようでした。
【太田館】佐比内、宇南田部落南側の丘にある中世の館跡で、阿曽沼氏の臣太田某の居館と伝えられている遺構の頂部に長さ約50メートル巾約11メートルの本丸と数段からなる廓。長さ約30メートル巾3メートル高さ4メートルの土塁と平行する空堀の跡が残っている。阿曽沼広長が遠野領奪還の合戦の時には阿曽沼方について戦ったと伝えられている。
出典:コミュニティーかみごう、上郷町地域づくり推進協議会、第386号
「丸井戸」がどちらにあったかは分かりませんが、こちらのストリートビュー(左上は太田館方面への側道)に見える森の周辺にあったと想像してみましょう。
「日露戦争の時、この殿様の後裔という太田初吉が出征することになり、神仏に無事を祈願したところが、巫女の言うにはこの丸井戸の中に、観音様と大黒天とが沈んでいるゆえ、それを掘り出してから出陣せよとのことであった。すなわち人々に助けられて沼跡を掘りかえしてみると、大黒天の方は見当たらなかったが、観音様は見つけ出した。極めて小さな八分ばかりの御像であった。今の沢口の観音堂の御本尊がそれである。」
一三一話(お宝伝説)
「金の鶏や漆万杯の話がある館跡はいくつもある。土淵の一村だけでも、字角城の角城館、下栃内の八幡沢館などいずれも松の根を掘りに行って壷を見つけたとか、放れ馬の蹄に朱漆がついて帰って来たとかいう口碑がある。」
「角城館」は阿曽沼氏時代の館とされ、周辺に建てられた神社群は遠野遺産認定番号80(角城館麓の神社群)に指定されました。
なお、「角城館麓の神社群」は以下のストリートビューの森の中にあります。山麓には古道があり、釜平神社や不動様、お稲荷様、駒形神社、山神様、石神様などが点在しているとのことです。
また、「八幡沢館」は源義家軍が陣を張り、安倍氏と戦ったところとされています(遠野物語の風景その6・参照)。埋まっていたのは平安時代の武将たちの持ち物だったでしょうか。
「また字琴畑の奥の長者屋敷には、五つ葉のウツギがあって、その木の下には宝物が埋まっていると伝えている。字山口の梵字沢館にも、宝物を匿して埋めた処があるという。堺木(さかいげ)の乙蔵爺が死ぬ前に、おればかりその事を知っている。誰か確かな者に教えておきたいと言っていたが、誰も教わりにゆかぬうちに爺は死んでしまった。」
ここで、「堺木の乙蔵爺」は遠野物語12話に登場する「新田乙蔵」のことです。以下のように「あまりに臭ければ」人が寄り付かなかったようです。
「土淵村山口に新田乙蔵(にったおとぞう)という老人あり。村の人は乙爺(おとじい)という。今は九十に近く病(や)みてまさに死(し)なんとす。年頃(としごろ)遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖(くちぐせ)のようにいえど、あまり臭(くさ)ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々(ところどころ)の館(たて)の主(ぬし)の伝記、家々(いえいえ)の盛衰、昔よりこの郷(ごう)に行(おこな)われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。」
乙蔵爺の言葉を信じるなら、今でも「梵字沢館」のどこかに宝物が埋まっていると思われます。
一三二話(かると石)
「上郷村字佐比内の笹久保という処には、昔一人の女長者が住んで栄えたと伝えられる。その笹久保の前の稲荷淵のほとりに、かると石という大石が今でもあるが、これはその女長者の家の唐臼の上につけた重し石であったという。」
下には唐臼を用いた米などの脱穀作業の写真を引用しました。杵がシーソーのようになっているのが特徴、(杵の)取っ手側を足で踏んで杵を振り上げ、足を外すと杵が落ちるしくみです。写真で杵の裏側にのせているのが重し石と思われます。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、唐臼による作業
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RICE_POLISHING_BY_FOOT_POWER.jpg
一方、下には引用したのは女長者の「かると石」周辺のストリートビューです。歴代の重し石がならべられているのでしょうか。
一三八・九(最も古い家・宮家の物語)
【一三八話(宮家)】
「遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭に乗ってはいって来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。」
こちらについては、以下に引用させていただいたように遠野物語1話でも述べられています。
「その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯崎(うぐいすざき)という山端(やまばた)に住んでいたと聞いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいたばかりであったともいっている。」
鶯崎や愛宕山の近くには下のストリートビューのような「猿が石川」が流れています。「宮家」が気仙方面からはるばる船に乗ってやってきたことを伝えているのでしょうか。
「この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大鷲(おおわし)がその襟首(えりくび)をつかんで、攫(さら)って空高く飛び揚がり、はるか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。その隙に短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろとも岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることもできないので、下著の級布(まだぬの)を脱いで細く引き裂き、これに鷲の羽をない合せて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくて何としても渡ることができずにいると、折よく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることができたと伝えられる。」
【一三九話(鮭の皮)】
こちらの話では宮家を救った(138話)のは「倉堀家」の船だったと記されています。そして、宮家のピンチを知らせてくれたのは「鮭の皮」でした。
「宮の家が鶯崎に住んでいた頃、愛宕山には今の倉掘家の先祖が住んでいた。ある日倉堀の方の者が御器洗場(ごきあらいば)に出ていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変事があるに相違ないと言って、さっそく船を仕立てて出かけてその危難を救った。そんな事からこの宮家では、後々永く鮭の皮はけっして食わなかった。」
愛宕山の近くにある「卯子酉様(遠野物語拾遺の風景その3・参照)」の案内板には宮家と倉堀家について以下のように記されています。
卯子酉様
出典:卯子酉神社の案内板より
遠野一帯が大きな湖であったその昔、鮭の背にのって宮家と倉堀両家の先祖が猿ヶ石川をさかのぼってここにたどりついたという話があります。(後略)
昔から両家が助け合ってきたことを示すお話なのかもしれません。
一六六話(不思議な光)
「最近、宮守村の道者達が附馬牛口から、早池峯山をかけた時のことである。頂上の竜ケ馬場で、風袋を背負った六、七人の男が、山頂を南から北の方へ通り過ぎるのを見た。なんでもむやみと大きな風袋と人の姿とであったそうな。」
下には早池峰山の写真を引用させていただきました。山頂付近の緑の緩斜面は「竜ケ馬場」と呼ばれています。
「むやみと大きな風袋と人の姿」という表現からは以下に引用した「風神」の姿も想起されます。ここでは写真の「竜ケ馬場」に風神のような大男たちを置いてみることにしましょう。
出典:Ogata Kōrin, Public domain, via Wikimedia Commons、鬼神としての風神/俵屋宗達 風神雷神図屏風の右隻より、風神図(部分)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wind-God-Fujin-by-Ogata-Korin.jpg
「同じ道者達がその戻り道で日が暮れて、道に踏み迷って困っていると、一つの光り物が一行の前方を飛んで道を照らし、その明りでカラノ坊という辺まで降りることができた。そのうちに月が上って路が明るくなると、その光り物はいつの間にか消えてしまったということである。」
「カラノ坊」とは登山口の一つ「河原の坊」のことでしょうか。上には河原の坊周辺のストリートビューを掲載いたしました。こちらまできてほっと一息つく道者達をイメージしてみましょう。
旅行などの情報
タイマグラキャンプ場
早池峰山の南麓にあり、キャンプ場周辺からは下の写真のような絶景を眺めることができます。「タイマグラ」はアイヌの言葉で「森の奥へと続く道」という意味とされ、早池峰山に登る前夜に身を清めるであったとのことです。
キャンプ場は芝のフリーサイトが約100張、常設テントが8張が設けられ、野外炊事場やトイレ・シャワーなどの設備が整っています。周辺は自然が豊かで、登山はもちろん、渓流釣りや川遊び、ハイキングなどのアウトドアの起点としてもおすすめです。
基本情報
【住所】岩手県宮古市江繋5-3-3
【アクセス】東北自動車道紫波ICから約90分
【参考URL】https://genkisha.com/camp