柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その8)

大入道や動物の神・妖怪たち

「ノリコシ」は別名「見越入道」ともよばれる巨大な妖怪です。「ノリコシ」の撃退方法も記されているので頭の片隅に入れておいてください。また、遠野各地では狐や貉などが化けて出てし、さまざまな被害が報告されています。近代の遠野では動物を用いた「飯綱使い」が流行り、人々はこぞってその霊験にあやかろうとしますが・・・。

一七〇話(ノリコシ)

「ノリコシという化け物は影法師のようなものだそうな。最初は見る人の目の前に小さな坊主頭となって現れるが、はっきりしないのでよく見ると、その度にめきめきと丈(たけ)がのびて、ついに見上げるまでに大きくなるのだそうである。だからノリコシが現れた時には、最初に頭の方から見始めて、だんだんに下へ見下してゆけば消えてしまうものだといわれている。」
遠野周辺では「ノリコシ(乗越入道)」と呼ばれていますが、他のエリアでは「見越入道」と呼ばれることもあります。下には「見越入道」の妖怪図を引用いたしました。

出典:Sawaki Suushi (佐脇嵩之, Japanese, *1707, †1772), Public domain, via Wikimedia Commons、佐脇嵩之『百怪図巻』より「見越入道」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suushi_Mikoshi-nyudo.jpg

「土淵村の権蔵という鍛冶屋が師匠の所へ徒弟に行っていた頃、ある夜遅くよそから帰って来ると、家の中では師匠の女房が燈を明るくともして縫物をしている様子であった。それを障子の外で一人の男が隙見をしている。誰であろうかと近寄って行くと、その男はだんだんに後ずさりをして、雨打ち石のあたりまで退いた。そうして急に丈がするすると高くなり、とうとう屋根を乗り越して、蔭の方へ消え去ったという。」
こちらのお話では「ノリコシ」が自ら去ったため「頭のほうから下に向かって見下していく」必要はなかったようです。なお、「ノリコシ」の撃退方法としてはこれ以外にも「『乗越入道、見抜いた』と唱える」という方法もあるとされます(ウィキペディア・乗越入道)。

一七二話(ノリコシに追われる)

「遠野新町の紺屋の女房が、下組町の親戚へ病気見舞に行こうと思って、夜の九時頃に下横町の角まで行くと、そこに一丈余りもある大入道が立っていた。肝を潰して逃げ出すと、その大入道が後から袖叩きをして追いかけて来た。」
下には明治時代の遠野の写真を引用させていただきました。ここでは左上あるいは左下のような街並みのなかに「大入道」から必死に逃れようとする「紺屋の女房」の姿を置いてみます。

「息も絶えるように走って、六日町の綾文という家の前まで来て、袖叩きの音が聞えないのに気がついたのでもう大丈夫であろうと思い、後を振返って見ると、この大入道は綾文の家の三階の屋根よりも高くなって、自分のすぐ後に立っていた。」
大入道はさらに大きくなり、「綾文の家の三階」を越えていました。下に引用した「見越入道」のような姿を想像してみましょう。

出典:李冠光賢 画 ほか『怪物画本』巻1,和田茂十郎,明14.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984890 (参照 2025-07-05、一部抜粋)、見越入道
https://dl.ndl.go.jp/pid/12984890/1/15

「また根がぎりに走って、やっと親戚の家まで行きついたが、その時あまり走ったので、この女房は脛が腫(は)れ上がって、死ぬまでそれが癒らなかったそうである。明治初年頃にあった話だという。」

六日町の通りには現在、1888年(明治21年)に建てられた「及川家住宅(古軒)主屋」が残されています。上のストリートビューの左側の家です。
遠野物語拾遺の「明治初年」に当てはまるかは分かりませんが、もしかしたら「紺屋の女房」もこちらの脇を走り抜けていたかもしれません。

一七〇話(カッパの証文)

「遠野物語58話」の「河童の駒引き」と似た話です(遠野物語の風景その5・参照)。

「橋野の沢檜川の川下には、五郎兵衛淵という深い淵があった。昔この淵の近くの大家の人が、馬を冷やしにそこへ行って、馬ばかり置いてちょっと家に帰っているうちに、淵の河童が馬を引き込もうとして、自分の腰に手綱を結えつけて引っ張った。馬はびっくりしてその河童を引きずったまま、厩に入り、河童はしかたがないので馬槽(うまふね)の下に隠れていた。」
下には「瀧澤神社奥の院」の近くを流れる沢檜川(沢桧川)の動画を引用させていただきました。水が透明でカッパも住みやすそうです。

「家の人がヤダ(飼料)をやろうとして馬槽をひっくりかえすと、中に河童がいて大いにあやまった。これからは決してもうこんな悪戯をせぬから許してくださいといって詫び証文を入れて淵へ帰って行ったそうだ。その証文は今でもその大家の家にあるという。」

上には岩手県北上市の「染黒寺」に伝わる河童の詫び証文の写真(右下)を引用させていただきました。こちらの河童は北上川に馬を引きずり込んだりする悪さをしたためお寺の住職に捉えられたとのこと。今後いたずらをしないとの手形を残し、許されて帰っていきました。その後、心を改め、今では水の神として地域を守ってくれているとのことです。

一八一話(蛇はご先祖様)

「家のあたりに出る蛇は殺してはならぬ。それはその家の先祖の人だからという、先年土淵村林崎の柳田某という人、自分の家の川戸(かど)にいた山かがしを殺したところ、祟(たた)られて子供と自分がひどく病んだ。」

「川戸」とは川から直接、生活用水を引く設備のことです。水辺を好む「山かがし(下に画像を引用)」がやってくることも多かったと思われます。

出典:Komeccho, Public domain, via Wikimedia Commons、ヤマカガシは水辺を好む
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rhabdophis_tigrinus.jpg

「巫女(いたこ)に聞いてもらうとおれはお前の家の祖父だ。家に何事もなければよいがと思って、案じて家の方を眺めているところをお前に殺されたといった。詫びをしてやっと許してもらった。また佐々木君の近所のある家でも、川戸で蛇を殺してから病気になった。物識りに聞くとおれはお前の家の母だが云々といった。こういう実例はまだいくらでもある。」

一八七話(曹源寺のむじな)

「上郷村字板沢の曹源寺の後の山に、貉堂(むじなどう)という御堂があった。昔この寺が荒れて往持もなかった頃、一人の旅僧が村に来て、この近くの清水市助という家に泊った。そこへ村の人が話を聞きに集まって、いろいろの物語をするついでに、村の空寺に化物が出るので、住持も居ついてくれず困っているという話をすると、それなら拙僧が行ってみようと、次の日の晩に寺に行くと、誰もおらぬといったのに寺男のような身なりの者が一人寝ていた。」
以下には曹源寺周辺のストリートビューを引用いたしました。こちらの中腹に「貉堂」があります。

「変に思ってその夜は引き返し、翌晩また行ってみたがやはり同じ男が寝ている。こやつこそ化物と、かっと大きな眼を開いて睨(ね)めつけると、寺男も起き直って見破られたから致し方がない。何を隠そう私はこの寺に久しく住み、七代の住僧を食い殺した貉だと言った。それから釈迦如来の檀特山の説法の有様を現じて見せたとか、寺のまわりを一面の湖水にして見せたとかいう話もあり、結局本堂の屋根の上から、九つに切れて落ちて来て、それ以来寺には何事もなく、今日まで続いて栄えているという話になっている。山号を滴水山というのも、その貉の変化と関係があるとのように語り伝えている。」

なお、曹源寺へと続く「清水川橋」の銘板には、「遠野物語拾遺」にちなんだ、むじな(アナグマ)のレリーフが施されています。

一八九話(馬木の内稲荷神社)

「上郷村佐比内の佐々木某という家の婆様の話である。以前遠野の一日市の甚右衛門という人が、この村の上にある鉱山の奉行をしていた頃、ちょうど家の後の山の洞で、天気のよい日であったにもかかわらず、にわかに天尊様が暗くなって、一足もあるけなくなってしまった。」
「天尊様が暗くなって」とは日食のような天体現象が起きたのでしょうか。鉄鉱山のあった「佐比内鉄鉱山遺跡」に向かう道は下のストリートビューのような勾配のある険しい道です。その上、真っ暗になったらさぞ心細かったことでしょう。

「そこで甚右衛門は土にひざまずき眼をつぶって、これはきっと馬木ノ内の稲荷様の仕業であろう。どうぞ明るくしてください。明るくしてくだされたら御位を取って祀りますと言って眼を開いてみると、元の晴天の青空になっていた。それで約束通り位を取って祭ったのが、今の馬木ノ内の稲荷社であったという。」

下には馬木の内稲荷神社が見えるストリートビューを掲載しました。こちらは五月ごろの写真ですが、鳥居のまわりには桜も咲いていてお散歩をしたくなる雰囲気です。

一九三話(多賀神社の狐)

「遠野の城山の下の多賀神社の狐が、市日などには魚を買って帰る人を騙して、持っている魚をよく取った。いつも騙される綾織村の某、ある時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしているはずの婆様が、あんまり遅いから迎えに来た。どれ魚をよこしもせ。おら持って行くからと手を出した。その手をぐっと引いてうむを言わせず、口に塩をへし込んで帰って来た。その次にそこを通ると、山の上で狐が塩へしり、塩へしりといったそうである。」

上には多賀神社の鳥居付近のストリートビューを引用いたしました。山の上から「塩へしり、塩へしり」という狐の恨み言が聞こえてくるところを想像してみましょう。

一九六話(大慈寺の狐)

「遠野の大慈寺の縁の下には狐が巣をつくっていた。綾織村の敬右衛門という人が、ある時酒肴を台の上に載せてそこを通ったところが、ちょうど狐どもが嫁取りをしていた。あまりの面白さに立って見ていたが、やがて式も終わったので、さあ行こうとして見たら、もう台の肴はなくなってたそうな。」

上には大慈寺周辺のストリートビューを埋め込みました。また、「狐の嫁取り」をイメージできるお祭りとして新潟県柏崎市で開催されている「狐の夜祭り」の写真を引用させていただきました。敬右衛門は大慈寺の近くでこちらのような幻想的な提灯行列に見とれていたと想像してみましょう。

出典:新潟県庁公式サイト、【柏崎】4年ぶりに開催 幻想的な雰囲気漂う「狐の夜祭り」
https://www.pref.niigata.lg.jp/

二〇一話(飲綱使いの話)

「小友村鮎貝の某という者、ある日遠野の町へ出る途中で、見知らぬ旅人と道連れになった。その旅人はそちこちの家を指ざして、この家にはどういう病人があるとか、あの家にはこんな事があるとかいろいろの事を言うのが、皆自分のかねて知っていることによく合っているので、某は心ひそかに驚いて、おまえ様はこの路は始めてだというのに、どうしてそんな事までわかりますかと聞くと、なにわけはない、おれはこういう物を持っているからと言って、ごく小さな白い狐を袂(たもと)から取り出して見せた。」
ここでは「白い狐」とは「イイズナ(飯綱)、学名(Mustela nivalis)」のことで、下に引用した写真のように冬になると羽毛が真っ白になります。

出典:Stormbringer76, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、Weasel Mustela nivalis winter (Bialowieza Forest).
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mustela_winter.jpg

「そうしてこれさえあれば誰でも俺のように何事でもわかるし、また思うことが何でもかなうというので、某は欲しくてたまらず、いくらかの金を出してその小狐の雌雄を買い取り、飼い方使い方をくわしく教えてもらったという。」
「小友村鮎貝の某」が教えてもらったのは「飯綱(いづな)の法」または「管狐術」と呼ばれる呪術で、妖怪博士の井上円了によると以下のようなものでした。

管狐(くだきつね)の名称の起りたるは、之を使ふ人ありて竹筒を持ちながら呪文を唱ふれば、狐忽ち其管(くだ)の中に入り、問に応じて答をなすといふ

出典:井上円了 著『迷信解』,哲学館,明37.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/759905 (参照 2025-07-09、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/759905/1/13

こちらの信仰のもととなっている「飯綱権現」は白狐に乗った烏天狗の姿をしています。霊験あらたかとされ、さまざまな分野で活用されてきました。例えば戦国武将・上杉謙信公からの信仰も厚く、以下に引用させていただいたように謙信公の兜の前立は「飯綱権現」でした。

また、「えさし郷土文化館」のポスト(以下に引用させていただきました)にあるように、多くの情報を素早く集められるという「飯綱の法」は忍術のもとになったともいわれています。

「それからこの人は恐ろしくよく当たる八卦置きになった。始めのうちは隣近所に行って、今日はこっちのトト(父)は浜からこれこれの魚を持って来る。浜での価はいくらだから、持って来て幾らに売れば儲かるというようなことを言っていたが、それが的中するのでおいおいに信用する人が多く、自分もまたたちまちの中に村で指折られる金持になった。しかしどうしたものか何年かの後には、その八卦が次第に当らなくなり、家もいつの間にか元通りの貧乏になって、末にはどこかの往来でのたれ死にをしたということである。飯綱(いづな)は皆こういうもので、その術には年限のようなものがあって、死ぬ時にはやはり元の有様に戻ってしまうものだと云えられている。これと似寄りの話はまだこの他にも方々ある。」
このように効験のある「飯綱の法」でしたが効力には「年限」があるのが玉に瑕でした。

二〇二話(飯綱の離し方)

こちらの方の「年限」はさらに短かったようです。
「この飯綱使いはどこでも近年になってはいって来た者のようにいっている。土淵村でも某という者が、やはり旅人から飯綱の種狐をもらい受けた。そして表面は法華の行者となって、術を行なうと不思議なほど当たった。その評判が海岸地方まで通って、ある年大漁の祈禱に頼まれて行った。浜の浪打際に舞台をからくり、その上に登って三日三晩の祈禱をしたところが、魚がさっぱり寄ってこない。気の荒い浜の衆は何だこの遠野の山師行者といって、彼を引担いで海へ投げ込んだが、ようやくのことに波に打上げられて、岸へ登って夜にまぎれてそっと帰って来た。」
命からがら逃げかえった某は飯綱を逃そうとして自宅の近くの小烏瀬川に行きます。下にはその近くと思われるストリートビューを掲載いたしました。

「それから某は腹が立ち、またもう飯綱がいやになって、その種狐をことごとく懐中に入れ、白の饅頭笠をかぶって、家の後の小烏瀬川の深みに行き、だんだんと体を水の中に沈めた。小狐どもは苦しがって、皆懐から出て、笠の上に登ってしまう。その時静かに笠の紐を解くと、狐は笠とともに自然に川下へ流れてしまった。飯綱を離すにはこうするより外に、術はないものと伝えられている。」

上には遠野で捕獲された「飯綱」のはく製の写真を引用させていただきました。こちらは「土淵村の某」が飯綱がいやになって川に放した「飯綱」の子孫なのかもしれません。

旅行などの情報

曹源寺

遠野物語拾遺189話で貉が住みついていたと伝わるお寺です。開基は1574年と伝えられる古刹ですが、戦国時代末から江戸時代初期にかけて一族間での争いがあり世情が混乱しました。その影響を受けて寺の住職は不在となりますが、このことが遠野物語拾遺「むじな堂」の話が生まれるきっかけになったとされます。

なお、「むじな堂」は本堂裏手の丘の中腹にあるので歩きやすい靴でお出かけください。上でもご紹介しましたが、お寺手前にある「むじな」のレリーフをチェックするのもお忘れなく。

基本情報

【住所】岩手県遠野市上郷町板沢24-9
【アクセス】岩手上郷駅出口から徒歩で約27分
【参考URL】https://sotozen-navi.com/detail/index_30256.html