柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その9)

狐騒動や熊退治、空を飛ぶ話も!

大正時代の遠野では狐に騙された話が新聞に載ることもありました。また、熊に襲われそうになった猟師は死んだふりをしますが・・・。明治維新には内戦から避難するお姫様や風船で空を飛ぶ正体不明の人のエピソードが残されています。そして「遠野物語拾遺」が発刊された昭和初期、遠野上空に初めて飛行機が飛び、その爆音に驚かされました。

一七〇話(狐騒動)

「これは大正十年十一月十三日の岩手毎日新聞に出ていた話である。小国の先の和井内(わいない)という部落の奥に、鉱泉の湧く処があって、石館忠吉という六十七歳の老人が湯守(ゆもり)をしていた。」
和井内で「鉱泉の湧く処」の候補としては「金鶏山鉱泉」があります。「18世紀に閉伊川街道を開削した旧新里村の偉人・鞭牛(べんぎゅう)和尚が拓いたとされる由緒ある霊泉」とのこと。昭和期までは鉱泉の近くに宿がありましたが、現在は下に引用させていただいた「安庭山荘」まで鉱泉が引かれています。

「去る七日の夜のことと書いてある。夜中に戸を叩く者があるので起き出てみると、大の男が六人手に手に猟銃を持ち、銃口を忠吉に向けて、三百円出せ、出さぬと命を取るぞとおどかすので、驚いて持合わせの三十五円六十八銭入りの財布を差し出したが、こればかりでは足らぬ。ぜひとも三百円、ないというなら打ち殺すと言って、六人の男が今や引き金を引こうとするので、夢中で人殺しと叫びつつ和井内の部落まで、こけつまろびつ走って来た。」
下に引用したストリートビュー突き当りが安庭山荘、左折して1.5kⅿ川沿いを進んだところに「金鶏山鉱泉」があります。ここでは、左側から「こけつまろびつ走って来」る石館忠吉さんの姿をイメージしてみましょう。

「村の人たちはそれはたいへんだと、駐在巡査も消防手も、青年団員も一つになって、多人数でかけつけてみると、すでに六人の強盗はいなかったが、不思議なことには先刻爺が渡したはずの財布が、床の上にそのまま落ちている。これはおかしいと小屋の中を見まわすと、貯えてあった魚類や飯がさんざんに食い散らされ、そこら一面に狐の足跡だらけであった。一同さては忠吉爺は化かされたのだと、大笑いになって引き取ったとある。この老人は、四、五日前に、近所の狐穴を生松葉でいぶして、一頭の狐を捕り、皮を売ったことがあるから、さだめてその眷属が仕返しに来たものであろうと、村ではもっぱら話し合っていたと出ている。」

上には和井内集落のストリートビューを埋め込みました。昭和の風情が残され、遠野物語の時代も想像できそうです。「駐在巡査も消防手も、青年団員」たちはこちらの道を前方に向かってかけていったと思われます。

二一〇話(熊と遭遇)

「大正十五年の冬のことであるが、栗橋村字中村の和田幸次郎という三十二歳の男が、同じ村分の羽山麓へ狩りに行っていると、向こうから三匹連れの大熊がのそのそとやってきた。見つけられては一大事だと思って、物陰に隠れて見ていると、三匹のうちの大きい方の二匹は傍(わき)へ行ってしまったが、やや小さ目の一匹だけは、そこに残って餌でもあさっている様子であった。」

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「早速これを鉄砲で射つと、当たり所が悪かったのか、すぐに振り返って立ち向かって来た。二の弾丸(たま)をこめる隙もなかったので、飛びつかれたまま、地面にごろりと倒れて死んだふりをすると、熊は方々を嗅(か)いでいたが、何と思ったのか、この男の片足を取って、いきなりぶんと谷底の方へ投げ飛ばした。」
熊(ツキノワグマ)は下に引用させていただいたような仕草で匂いをかぐとのこと。和田幸次郎さんは生きた心地がしなかったことでしょう。

また、「谷底の方へ投げ飛ばした」とありますが、上の登山日誌の画像「25/63」などの急斜面で熊に投げられたら無事ではいられなさそうです。
「どれほど遠くへ投げ飛ばされたかは知らぬが、この男は投げられるとすぐに立ち直って二の弾丸を鉄砲にこめた。そうして悠々と向こうへ立ち去る熊を、追い射ちに射ち倒した。胆は釜石へ百七十円に売ったということで、これは同年の十二月二十八日の岩手日報に、つい近頃の出来事として報道せられたものである。」

出典:東京書院 編『日本登録商標大全』 第18輯 上,東京書院,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/941573 (参照 2025-07-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/941573/1/52

熊の胆はクマの胆嚢(たんのう)を乾燥させて造られたもので漢方薬の原料として使用されました。特に牛胆や化学合成品(ウルソデオキシコール酸)が代替品として用いられる前は高値で取引きされていたようです。上には大正時代の「日本登録商標大全」から熊の胆汁などを使った胃腸薬「熊膽圓(ゆうたんえん)」の商標図を引用いたしました。

二一九話(狩人や漁夫のお守り)

「狩人は山幸の呪(まじない)にオコゼを秘持している。オコゼは南の方の海でとれる小魚で、はなはだ珍重なものであるから、手に入れるのはすこぶる難しい。」
以下には遠野市立博物館で展示された「オコゼ」の写真を引用させていただきます。

「これと反対に漁夫は山オコゼというものを秘蔵する。山野の湿地に自生する小貝を用い、これは長さ一寸ばかり、煙管のタンポの形に似た細長い貝で、巻き方は左巻であったかと思う。これを持っていると、漁に利き目があるといって、珍重するものである。」

「山オコゼ」については柳田国男とも交流のあった南方熊楠が「『山オコゼのこと』(『郷土研究』4巻7号初出:『南方熊楠全集』第3巻 194頁 平凡社)」において、以下のように述べているとのこと。

キセルガイの殻を人に見せないように持ち歩くと、利益を得られると述べています。ただし、種類が多いためどれかを明確にせねば、どれが「山オコゼ」というかわからなかったそうです。

出典:公益財団法人 南方熊楠記念館公式サイト、山オコゼ、https://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/2021/05/19/11584

下には和歌山県の白浜町にある「南方熊楠記念館」のインスタグラムより、キセルガイの投稿を引用させていただきます。こちらのような貝を人に見せないように持ち歩いていると、いずれ釣果を得られるようかもしれません。

二二一話(縫の呪文)

「旗屋の縫は当国きっての狩りの名人であったといわれているが、この名高い狩人から伝わったという狩の呪法がある。たとえ幾寸という短い縄切れでも、手にとってひろげながら、一尋二尋三尋半と唱えて、これを木に掛けておけば、魔物は決して近寄らぬものだという。」

上には遠野物語62話(遠野物語の風景その6・参照)にも説明のある「サンズ縄」結界の張り方についての投稿を引用させていただきました。

二三一話(お姫様の金平糖)

「維新の当時には身に沁みるような話が世上に多かったといわれる。官軍にうち負かされた徳川方の殿様が、一族ちりぢりに逃げ落ちた折のことであったが、ある日村のなかに美しいお姫様の一行が迷って来た。お姫様の年ごろははたち前らしく、今まで絵にも見たことがないうつくしさであった。駕籠に乗っておられたが、その次の駕籠にやや年をとったおつきの婦人が乗り、そのほかにもお侍が六人、若党が四人、医者坊主が二人までつき添っていた。」
以下に引用したのは明治時代初期に撮影された駕籠かきの写真です。駕籠はもう少し立派だったと思われますが、お姫様の美しさはこちらの写真からイメージできるかもしれません。

出典:Museum of Photographic Arts Collections, No restrictions, via Wikimedia Commons、日下部金兵衛、駕籠かき
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Title-_Kago_Bearers_(6950790598).jpg

「村の若い者は駕籠舁(か)きに出てお伴をしたが、一行が釜石浜の方へ出るために仙人峠を越えていった時、峠の上には百姓の番兵どもがいて、無情にもお姫様に駕籠から降りて関所を通れと命じた。お姫様は漆塗りの高下駄に畳の表のついたのを履かれて、雇われて行った村の者の肩のうえに優しく美しい手を置いた。その様子がいかにもいたわしく淋しげであったから、心を惹かれた若者たちは二日三日も駕籠を担いでお伴をしたという。」
下には伊達家のお姫様の豪華な駕籠の写真を引用させていただきました。

出典:See page for author, CC0, via Wikimedia Commons、伊達家の順姫(むねひめ)用の竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物。江戸時代中期・18世紀(東京富士美術館蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Date_Clan%E2%80%99s_Palanquin_with_Arabesque_Design_in_Maki-e_Lacquer.jpg

「佐々木君の祖父もの駕籠舁きに出た者の一人であった。駕籠の中にはお姫様は始終泣いておられたが、涙をすすり上げるひまに、何かぼりぼりと噛まれた。たぶん煎豆でも召し上がっているのであろうと思ったところが、それは小さな菓子であった。今考えると、あの頃からもう金平糖があったのだと、祖父が語るのを佐々木君も聞いた。」
下には色とりどりの金平糖の写真を引用いたしました。金平糖はもともとポルトガルの「コンフェイト」と呼ばれる砂糖菓子で、戦国時代に日本にキリスト教宣教師のルイス・フロイスが織田信長に献上したのが最初とされています。明治初期の遠野にはまだ普及しておらず、珍しいお菓子と思ったことでしょう。

出典:Midori, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、金平糖
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kompeito_konpeito.JPG

「またお姫様が駕籠からおりて関所を越えられる時に、何ゆえにこんな辛い旅をあそばすのかとお聞きしたら、お姫様はただ泣いておられるばかりであったが、おつきの老女がかたわらから、戦が始まったゆえと一口答えた。あれはどこのお城の姫君であったろうと、常に追懐したという。」

二三四話(妖怪・油取り)

「これは維新当時のことと思われるが、油取りが来ると言う噂が村々にひろがって、夕方過ぎは女子供は外出無用との御布令さえ庄屋肝入りから出たことがあったそうな。毎日のように、それ今日はどこ某の娘が遊びに出ていて攫(さら)われた、昨日はどこで子供がいなくなったという類の風説が盛んであった。ちょうどその頃川原に柴の小屋を結んだ跡があったり、ハサミ(魚を焼く串)の類が投げ棄ててあったために、油取りがこの串に子供を刺して油を取ったものだなどといって、ひどく怖れたそうである。油取りは紺の脚絆(きゃはん)に、同じ手差をかけた人だといわれ、油取りが来れば戦争が始まるとも噂せられた。」

出典:竜斎閑人正澄 (Japanese), Public domain, via Wikimedia Commons、竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「神隠(かみかくし)」の題で描かれた隠し神(右)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Masasumi_Kami-kakushi.jpg

「油取り」は他の地方では「隠し神」とも呼ばれることがあります。上には江戸時代に描かれた「隠し神」の図を引用いたしました。維新の頃の不安定な情勢が人々の不安を引き起こしたのでしょうか。

「これは村のたにえ婆様の話であったが、同じような風説は海岸地方でも行われたと思われ、婆様の夫冶三郎爺は子供の時大槌浜の辺で育ったが、やはりこの噂に怯(おび)えたことがあるという。」

出典:佐々木喜善 著『老媼夜譚』,郷土研究社,昭2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464152 (参照 2025-07-11、一部抜粋、辷石谷江刀自
)https://dl.ndl.go.jp/pid/1464152/1/5

「たにえ婆様」とは遠野物語71話(遠野物語の風景その7・参照)に登場する隠し念仏者・辷石谷江さんのことです。上には再度写真を引用いたします。

二三四話(空飛ぶ僧侶)

「これも同じ頃のことらしく思われるが、佐々木君が祖父から聞いた話に、赤い衣を著た僧侶が二人、大きな風船に乗って六角牛山の空を南に飛び過ぎるのを見た者があったということである。」

出典:Utagawa, Hiroshige, Public domain, via Wikimedia Commons、1877年5月に築地海軍操練場で行なわれた風船試揚の図。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsukiji_kaigunsho_renpei.jpg

上には1877年(明治10年)に行われた気球の飛揚試験の図を引用いたしました。同年12月には京都の仙洞御所で有人飛行に成功していますので、同じ時期に気球を飛ばす人がいてもおかしくはありません。ただ、当時の気球は軍用に開発されたとのこと。「赤い衣を著た僧侶が二人」は何を目的にして空を飛んでいたのでしょうか。

二三六話(飛行機がやってきた)

「昭和二年一月二十四日の朝九時頃には、この地方を始めて飛行機が飛んだ。飛行機は美しく晴れた空を六角牛山の方から現われて、土淵村の空を横切り、早池峯山の方角に去った。村人のうちには飛行機を見たことはもちろん、聞いたこともない者が多かったから、ブロペラの音が空に響くのを聞いて動転した。」
以下には昭和2年に石川島飛行機が陸軍向けに試作した偵察機「T2」の写真を引用いたしました。こちらのような複葉機がプロペラの轟音を響かせながら飛んでいく様子を想像してみましょう。

出典:Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons、T-2
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Exp_aufklaerer_ishikawajima_T-2.jpg

「佐々木君かねて飛行機について見聞していたので、村の道を飛行機だ、飛行機だと叫んで走ると、家々から驚いた嫁娘らが大勢駆け出し、どこか、どこかとこれもあわてて走り歩いた。そのうちに飛行機は機体を陽に光らせて山陰に隠れたまま見えなくなったが、爆音はなおしばらく聞え、人々は何か気の抜けたようになって、物を言うこともしなかった。また同じ年の八月五日にも、一台の飛行機が低く小烏瀬川に沿って飛び去った。その時は折柄の豪雨であったからたいていの人は見ずにしまったという。」
気球が飛び、飛行機がやってくるなどした遠野では、天狗やカッパたちの隠れ棲む場所が減っていきました。

旅行などの情報

安庭山荘

狐が仕返しにきた「遠野物語拾遺170話」で登場していただいた施設です。源泉(金鶏山鉱泉)は川の上流にあり、昭和時代には源泉のそばに宿(金鶏荘)が営業していたとのこと、その宿が「遠野物語拾遺」の現場であったかもしれません。遠野方面から安庭山荘へは、以下に引用させていただいたようなりんごのバス停や林道を経由するルートをたどります。

安庭山荘の浴槽はこぢんまりとしていますが、単純硫黄冷鉱泉の源泉は元気が回復し、肌がつるつるになると評判です。営業期間は4月上旬から11月下旬(午前10時から午後4時)なのでご注意ください。

基本情報

【住所】岩手県宮古市茂市2-112-1
【アクセス】JR宮古駅から車で約1時間
【参考URL】https://www.city.miyako.iwate.jp/gyosei/soshiki/nisatosogojimusho/2/3/1169.html