佐々木喜善「東奥異聞」の風景(その1)

ふしぎな縁女の話

「東奥異聞」は「遠野物語(遠野物語の風景その1・参照)」の語り手で、「日本のグリム」と称される佐々木喜善がまとめた民話集です。遠野物語を補完する話も含み、東北地方の多彩な民話の世界に浸ることができます。今回のテーマは生まれながらに結婚相手が決められた「縁女」のお話。ただ、相手は一般の村の人ではなく「淵の主」や「山男」といった怪しげな者たちでした。

序文

「街頭に佇てばあまりに騒がしい。あすの日もないように、なにをあせりなにを騒ぐのでしょう。
おいでなさい。その騒々しさからそっとのがれて心おきなく語ろうではありませんか。」

以下には明治43年ごろの佐々木喜善の下宿周辺の写真を引用いたしました。現在の文京区水道一丁目周辺は当時、桜の名所として知られていました。喜善が柳田国男に初めて出会ったのが明治41年なので、彼らもこちらの桜をみていたかもしれません。沿道からは賑やかな声が聞こえてきそうです。

出典:『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』[1],尚美堂,明43.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764232 (参照 2025-07-22、一部抜粋)、江戸川桜花満開
https://dl.ndl.go.jp/pid/764232/1/13

「語る人の目はほがらかです。聞く人の心はなごやかです。胸と心はおのずからとけて春も、夏も、秋も、冬も、静かに流れてゆくでしょう。」
一方、遠野にある佐々木喜善の生家は以下に引用させていただいたような雰囲気でした。こちらのような自然に囲まれた静かな環境に身をおけば、喜善のいうように時がゆっくりと過ぎていくのが感じられるでしょう。

同じく遠野市立博物館のXへの投稿を引用させていただきました。右側の写真のようにして語る佐々木喜善を想像しながら、以下のお話を紹介していきましょう。

「腹帯の淵の主」に嫁いだ娘(1)

「生まれながらにして、人間以外のものに、すなわち妖怪変化のものの処に縁づくべき約束のもとにあり、その娘が齢(としごろ)になると種々な形式でもってそこに嫁いでゆくというような口碑伝説がいくらもある。」
先ずは「淵の主」の縁女になったお話です。
「岩手県上閉伊郡釜石町、板沢某という家の娘に見目(みめ)よきものがあった。この娘ある日クワの葉を摘むとて裏の山へいったまま、クワの木の下に草履を脱ぎ棄ておいてそのまま行くえ不明になった。家人は驚いて騒ぎ悲しんでいるとそこに一人の旅の行者が来かかりその訳を聞き、いわく、今は嘆くともせんかたないだろう。じつはこの娘は生まれながら水性の主の処へ嫁ぎゆくべき縁女と生まれ合わせていたので、いまはちょうどその時期がきて、これから北方三十里ばかり隔たった閉伊川(へいがわ)の岸腹帯(はらたい)という所の淵の主のもとにいったのだ。しかし生命にはけっして別状あるわけではなし、かえっていまでは閉伊川一流の女王となっていることであろう。そしてこれからは年に一度ずつはきっと家人に会いに参るであろうとの話であった。」
以下には岩手県宮古市の「腹帯」周辺のストリートビューを埋め込みました。娘はこのあたりのどこかで「淵の主」に大切にされて生活していたのでしょうか。

「この板沢家には氏神に大天馬(だいてんば)という祠がある。その祭りは秋九月ごろらしいが、その前夜にはかならずその娘が家に戻ってくる。玄関には盥に水を汲み入れその傍らに草履を置くとつねにその草履は濡れ水は濁りてあったということである。後世、明日は大天馬祭りだから今夜は板沢の老婆がくるというような言伝えになったのであるが近年はどうだかわからぬ。」
山形県最上郡最上町のホームページによると(下に引用させていただきました)、「大天馬」とは竜の頭を持った水の神とのことです。

黒沢には、大天馬様という神社があります。

大天馬様のお姿は頭が竜で、身体は馬、背中に鷲の翼を持っている奇妙な姿であるという。大天馬様は、この姿で雲を呼び、雨を呼んで、天空をかけめぐる神様であるという。ときどき、山奥の「まのがみ滝」に現れて、水浴びをするということです。

また、大天馬様のお姿は蛇体であるともいい、水の神であり、その使いのものは蛙であるというので、木や石で造った蛙がたくさん奉納されています。

 蛇にしても、蛙にしても水と縁があり、もともと農作に関係ある神であろう。大天馬様の奥の院は「まのがみ滝」であるといい、いまでも雨乞いの場所になっています。

出典:最上町役場公式サイト、歴史・文化・史跡(向町地区)
https://town.mogami.lg.jp/

以下にはその「大天馬」を祀った黒沢神社(山形県最上市)周辺のストリートビューを掲載いたしました。こちらを板沢家の祠に見立て、久しぶりに戻ってきた娘が(家のものが用意した)草履を履き、家を懐かしんでいるところをイメージしてみましょう。

「腹帯の淵の主」に嫁いだ娘(2)

「この腹帯の淵についての伝説はまだまだ後にもある。この淵の付近に農家が一軒ある。あるときこの家の家族同時に三人まで急病に罹った。なかなか直らない。ところがある日どこからとなく一人の老婆がきていうには、この家には病人があるが、それは二、三日前に庭前で赤い小ヘビを殺したゆえだという。家人はそれを聞いていかにも思い当たりおり返していろいろと聞くと、その小ヘビはじつはこの前の淵の主(ぬし)の使者で、この家の三番娘を嫁にほしいので遣わしたのであった。どうしても三番めの娘は水で死ぬとのことであった。その話を聞いていた娘は驚愕と恐怖のあまりに病気になった。そうして医薬禁厭の効なくとうとう死んでしまった(その娘が病気になると同時に、他の三人の病人はたちまちに直った)。そういう死にようゆえに家人は娘の死体をば夜中ひそかに淵のほとりに埋め、偽の棺をもって公の葬式はした。一日ばかりたってから淵のほとりにいってみると埋めた処にはすでに娘の屍はなかった。この話は大正五年ごろの出来事である。」

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、大正時代の岩手軽便鉄道遠野駅
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tono_Station_in_Taisho_era.JPG

上には大正時代の岩手軽便鉄道遠野駅の写真を引用いたしました。手前にはお見送りする娘たちがいますが、「三番めの娘」もこちらのような姿だったでしょうか。鉄道が走るようになっても、遠野ではこのような不思議な事が起こっていました。

「それからはその娘の死亡した日には、たとえ三粒降るまでもその家の庭前に雨が降る。またその淵に石木などを投げ入れてもかならずその家の庭に雨が降るという。この部落では娘の家への遠慮から淵で子どもらが水浴することを厳禁している。どういうことでもこの淵に障るとその家の屋根に雨が降りかかるので、これはその美しかった娘のわが屋へのなにかの心遣いであろうというのである。そしてどこのなんぴとが言い出したともなくその娘はその淵の三代めの主へお嫁にいったのだということが伝承された。二代めには上閉伊郡甲子村コガヨとかコガトとかいう家の娘が上がったといわれている。その家では隣の釜石の祭礼には玄関に盥に水を入れ草履を揃えておけば、水が濁り草履はまた濡れているともいわれ、その日にはかならず雨が降ること今日も同じであるということである。」

ノボトの婆

「岩手県上閉伊郡松崎村字ノボトに茂助という家がある。昔この家の娘、秋ごろでもあったのか裏のナシの木の下にゆき、そこに草履を脱ぎ置きしままに行くえ不明になった。しかしその後、幾年かの年月をたってある大嵐の日にその娘は一人のひどく奇怪な老婆となって家人に会いにやってきた。その態姿はまったく山婆のようで、肌にはコケが生い指の爪は二、三寸に伸びておった。そうして一夜泊りでいったがそれからは毎年やってきた。」

「遠野物語8話(遠野物語の風景その1・参照)」の「サムトの婆」と類似した内容ですが、遠野物語では地名が「サムト(寒戸)」と記されているのに対し、「東奥異聞」では「ノボト(登戸)」となっているのが大きな違いです。実際には「寒戸」という地名はないとのこと。「寒戸」になった理由としては著者(柳田国男)の聞き違い・誤記という説やプライバシーへの配慮説などがあり、定まっていません。
下のストリートビューの中央、木の下に立っているのは遠野市松崎町に設置された「サムトの婆」の石碑です。ここでは「ノボトの婆」が山の方からやってくるところを想像してみましょう。

「そのたびごとに大風雨あり一郷ひどく難渋するので、ついには村方からの掛合いとなり、なんとかしてその老婆のこないように封ずるようにとの厳談であった。そこでしかたなく茂助の家にては巫子山伏を頼んで、同郡青笹村と自分との村境に一の石塔を建てて、ここより内にはくるなというて封じてしまった。その後はその老婆はこなくなった。その石塔も大正初年の大洪水のときに流失して、いまはないのである。」

山男の縁女となった上郷村の娘

「同郡上郷村の某所に一人の容貌美しき娘があって、あるとき急病で死んだ。一郷一村その死を嘆かぬものがなかった。それから三年ほどたってあるとき同村の狩人六角牛山(ろっかうしざん)という深山に狩りにゆき、カウチの沢というに迷い入ると、たいへんなガロにゆき当たった。」

オガセの滝を見に行く ~ 六角牛山-2023-07-22 / Gonzaburouさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「ガロ」とはガレ(ガレ場)ともいい、険しい岩場のことです。また、「カウチの沢」とは河内川のことでしょうか。
上に引用させていただいた登山記録(登山情報サイトYAMAPより)のなかで「4/13」などが河内川の様子です。また、「狩人」がゆき当たったのは「7/13」の画像のような「ガロ」だったかもしれません。

「さてそれからはどこへもゆきえぬので立ち止まり行く手のほうを見るとある岩の上に一人の女が立っている。おやふしぎだ何者かと思ってよく見ると、それは先年死んだはずの村の娘である。狩人は驚いて、そこにいるのは某ではないか?というと、女もさも懐かしそうに下を見おろして、はいと答う。狩人はどうしておまえはこんな処にきておった。家ではおまえは死んだものとばかり思って嘆き悲しんでいるのにというと、じつは私は死んだように見せかけられて、こんな深山に連れてこられております。私を見たということを村に帰ってもけっしていってくれるなと女はいう。」

こちらは遠野物語の6話(遠野物語の風景その1・参照)と同じく山男にさらわれた娘のお話です。遠野物語6話では「青笹村大字糠前」の長者の娘、こちらは「上郷村」の容貌美しき娘となっている点が異なりますが、夫が自分の子供を食ってしまうこと、山で娘を見たことを人に言ったら命が危ないと忠告されることは共通しています。

「狩人はかさねてそれはどうした訳かと問うと、私は夫との間に幾人かの子どももあったが、夫はみなおれに似ぬからといってどこへか持っていってしまう。たぶん殺して食うことと思います。それがこわくつらくて幾度かこの山を逃げ出そうと思っても、もう心にそう思ってさえすぐに覚られてそれを責められる。いまはもう諦めてここで死ぬ決心をしております。夫は普通の人間とそう違いがないがただどうも疑いぶかくて困ります。そして私には普通の語で話すけれども、ときどき寄り集まってくる朋輩どもとは私にはまったくわからない言葉で話しております。さあこうしているうちにも夫が帰ってくるといけないから早く元きたほうへ帰っておゆきなさい。先刻もいったとおりけっしてこの山で私を見たということを村に帰ってから話してはなりません。もし忘れて話したらその夜のうちにもおまえさんの生命と私の生命は亡くなりましょうといった。これはその狩人が老年におよんで死ぬときに話したことであったということである。」

神隠しにあった男性

「同郡某村というので、非常に容貌よき一人の若者が急死した。それがまたある狩人がある山にて、ふしぎな山女と連れだって歩いているのを二、三年たってから見たというような話もあった。これは女ではないが同趣向のものである。予の話した柳田國男氏の『遠野物語』にもあるが、女は比較的無事円満に山に住み山男の子どもなどを産んでいることができるらしいが、男は多淫の山女に縁引きされると初めのうちはひどく好遇されるけれども、精力消耗してくるとたちまち殺されて食われてしまうということである。その男子もいま生きていれば五十七、八になるが、十八、九歳のさいに死亡し山で見られたというから、もういまは、とくに殺されてこの世にはおらぬことと思われる。」

出典:Apple2000, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、オオカマキリ 交尾の際にオスを捕食するメス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mantis_Tenodera_aridifolia01.jpg

こちらの山女は交尾後などに雄を食べてしまうカマキリの雌(上に引用)を想起させます。誘拐された男性はさらわれた女性よりつらい後半生が待っているようです。

大うなぎの元へ?

「同郡大槌町大槌川の付近、正内(しょうない)という処に一人の娘があった。この娘は生まれながらに土地の巫子から水性のもののもとへ縁女にとられると予言されておったが、やがて十三歳になったときの夏の日、大槌川にて水浴するとて朋輩の女児とも四、五人ずつとともにつねに川にゆくが、この娘のみ一人連れから離れてある岩のほとりに寄り水中にからだを浸していたが、そうすること四、五日してからついにその水中に沈んで死んだ。死体を見ると陰部に粘液が付着していた。たぶんウナギかなにかの仕わざであろうといったと、これはいまより十年ほど前の話である。

淵の主は「大うなぎ」だったのでしょうか。
上には鹿児島県の池田湖に生息する大うなぎの動画を引用させていただきました。大きなものでは体長1.8ⅿにもなるということ。一説にはUMA(未確認動物)・「イッシー」の正体ともいわれています。

助けてくれたのは「サケ」

「陸前国気仙郡花輪村の竹駒という所に一人の美しい娘があった。あるときこの娘が外で遊んでいるところを一羽のワシにさらわれて同郡有住村の角枯(つのがし)淵というに落とされた。すると淵のなかより一人の老人が出てきてその娘を背に乗せて家に送り届けた。じつはこの老人はサケであった。そうしてこの老人はしいて娘に結婚を申しこんでついに夫婦になった。その子孫の者はいまでもけっしてサケを食わぬということである。」

出典:黄金の国ケセンをめぐる文化財ガイド、羽縄観音堂
https://kesen-bunka.jp/article/view/0090

こちらのようなサケの神様(王)は主に東北地方において、「鮭の大助」として祀られています。例えば陸前高田市に伝わるのは以下のような民話です。
「羽縄家の主人が子牛をさらう大鷲を撃つため牛皮を被って待ち構えていたところ、大鷲にさらわれて遠い南の島に連れていかれたとのこと。そこから背中に乗せて連れ戻してくれたのが『鮭の大助』でした。」

上には大助に助けてもらった「羽縄家」が建立した「羽縄観音堂」の写真を引用させていただきました。

「ふしぎな縁女の話」についての考察

「こう列記してくると、かの三輪式口碑その他の蛇族や河童やサル、オオカミに見こまれてさらわれてゆきまたは嫁いでゆく態の事がらとは自然とその根本において異なっている。この話のほうは生まれながらにそうなれとの因縁でもって山河の主に嫁ぐということである。そこに大きな差異があるのである。この話例の口碑で注意を要するところは、その誘拐される娘なり青年なりが、われわれの目にはいったん死亡の形式になっていることである。
(中略)
こういうような信仰は山郷の人々の間には今日でもなお新しく生きている。そしてそういうふうに死んだ者は山男山女の類の族(うから)のなかにゆくといわれている。またそうでなくとも農家の若い息子が急に死ぬることなどがあれば、それに対してもただちに神秘的な想像や噂がたつことがある。」
愛する人の速すぎる死を認めたくない人々は険しい山中あるいは深い川の底に彼らが今なお生きていると信じ、また、そのような噂を流したのかもしれません。下にはそのような深山の一つ・六角牛山の写真を引用させていただきました。

「とにかくこういうふうに若い娘や男のある種の死をもって魔物他生へのふしぎな結縁の成るものだとする信仰は古より日本の民族中に潜在していた思想であるらしい。それは古いわれわれの祖先の略奪結婚の変態した信仰形跡の名ごりであるかいなか、または真実に河淵湖沼の主や深山幽谷の山男の族というような他生の魔物が存在しているかどうかは、そのほうの、考証学の諸先輩にお任せするのが適当な礼儀でもあり、また便利でもある。」

旅行などの情報

佐々木喜善記念館(伝承園)

遠野市の野外博物館・伝承園内の施設です。佐々木喜善に関する資料や協力者との交流に関する展示を通して、いかにして彼が「日本のグリム」といわれるようになっていったかを解説しています。下には展示館内部の写真を引用させていただきました。

伝承園には他にも旧菊池家住宅(国の重要文化財)などの古民家群や千体ものオシラサマを祀る「御蚕神堂(オシラ堂)」など見どころ満載です。また、「おしら亭」というレストランも併設されているので、「ひっつみ」や「ヤマメ塩焼き」などの地元グルメを味わってみてください。

基本情報

【住所】岩手県遠野市土淵町土淵6地割5番地1
【アクセス】JR遠野駅から早池峰バスで約25分、足洗川バス停から徒歩約3分
【参考URL】https://www.densyoen.jp/

佐々木喜善旧居跡

佐々木喜善は早稲田大学在学中にこちらにあった下宿から柳田国男宅に通い、遠野に伝わる不思議な話を語りました。現在は凸版印刷の敷地となっていて、傍らには遠野市による解説板も設置されています。

なお喜善が通った「柳田國男旧居跡」は新宿区市谷加賀町にあり、佐々木喜善の下宿跡から徒歩で30分ほどです。こちらにも下に引用したような解説板が設けられています。

今日は柳田にどんなお化け話を語ろうかとワクワクしながら向かう佐々木喜善をイメージしながら、これらの跡地を巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】東京都文京区水道1丁目
【アクセス】東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅から徒歩約11分
【参考URL】https://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2010/1104-01.html