佐々木喜善「東奥異聞」の風景(その2)
黄金のウシの話
遠野周辺には似たような金山伝説が多数伝わっています。キーワードは「黄金の牛」と「ウソトキ」、「七十五人または千人」など。佐々木喜善は聴き取り調査を行った15例以上の言い伝えから、主要な話を抜粋し、類似点・相違点を述べています。また、喜善は派生の話がこのように数多く発生した要因を解明しようとしますが・・・。
東北の黄金伝説
「思想というものに、そう大差がなかろうと思うのは大間違いで、昔の人の心持を今日の常識から考えてみていかにも理解のできぬことが雑多にあります。それはどういう事がらかと言いますと、かれらはまったく思いもよらぬ配合や継ぎ合せをやっていることでありますが、しかしまた人の心の一面にはそういう突飛な思想(想像・空想)を喜ぶ傾向も十分に抱持しているのであります。いわゆる奇想天外からきたものほど、素朴なわれわれの祖先が印象をふかくし、かつ正直に請け入れ、むしろ喜び迎えたかに思われますのがふしぎはないことと思われます。そのよき例は、奥羽の鉱山地方に広く流布されている黄金牛(キンノベココ)口碑でありまして、すなわち私はそのことをこれからぽつぽついおうと思うのであります。」
東北地方では古くから金の採掘が盛んでした。下に引用させていただいた「中尊寺金色堂」などのきらびやかな建築物はその産金を用いてつくられました。その「金色堂」などの噂を聞いたマルコポーロが「東方見聞録」にて日本を「黄金の国ジパング」と紹介したことが、日本の英語名「JAPAN」の元になったとされています。
出典:文化庁・日本遺産ポータルサイト、中尊寺金色堂
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4119/
「奥州の黄金の歴史はかなり古いものであるようでありますが、どうしてそれがいささかも似てもつかぬウシとこうやすやすとむすびついたかは真にふしぎな話であります。田舎者の学究には文献に徴すべきいっさいの縁が絶たれております。考えてもらちの明かぬことは世間の長者に問うたほうが学問のためにも礼儀であり、また事の近道でもあります。私はそういう考えからこの小さな報告書を書いてみたいと心がけておったのであります。」
なお、中尊寺金色堂の金箔は、日本初の金の産出地とも伝えられる「玉山金山」製ともいわれています。以下には「玉山金山」のイメージ動画を引用させていただきました。
「黄金のウシの話は、いずれも墜坑口碑に関係(まつわ)っております。すなわち鉱山師がウシの形態をして親金(おやがね)に掘り当てたが、それを坑中から外へ取り出そうとするとふいに坑が落ちて、七十五人の鉱夫(かねわり)、あるいは千人百人の鉱夫(かねわり)らが惨死したと言い、そのとき、ふしぎな理由でたった一人の人間(それは男もあり女もありますが)のみが助かったというのがこの口碑の構図であります。つぎにそれらの二、三の例を挙げつつ話を進めてゆきましょう。」
出典:文化庁・日本遺産ポータルサイト、みちのくGOLD浪漫
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story069/
上には「玉山金山」の「千人坑」の写真を引用させていただきました。こちらにも落盤により鉱夫千人が犠牲となったという伝説が残っています。
小松長者の伝説
「陸中国遠野郷(いまの上閉伊郡)小友(おとも)村に、長者がありまして、その家に一人の下男がおりました。この男はちょっと変り者で、おれは芋を掘るのだといって、年から年中寸暇さえあれば鍬を持って近所の山谷に分け入り、あっちこっちと土を掘っておりました。世間ではこの男のことを愚者だといって笑ったのです。ところがとうとうある年の大晦日の晩がたに、同村字日石(ひいし)という所の谷合いで黄金のヒに掘り当てました。黄金の一塊をおのが荒屋に持ち帰って、形ばかりの床の間に供えると、その光が破れ戸を透して戸外まで洩れ輝いたというような話も残っております。それからはこの下男が、世間から小松殿あるいは小松長者といわれるような身分となりました。」
以下の文献によると、「小松長者」が発見したのは僧ケ沢という金山だったとのことです。
僧ヶ沢金山跡
出典:高橋嘉太郎 著『岩手県下之町村』,岩手毎日新聞社出版部,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020748 (参照 2025-07-28)、僧ヶ沢金山跡
字荷沢にあり字長野地方金鉱最も多し、伝説によれば慶長年間既に発見採掘の端緒を開けりと、名を小松と呼ぶものあり、採金を試み一朝にして巨万の富を得(後略)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1020748
また、以下には平泉の黄金文化を支えたとされる鹿折金山で、明治時代に採取された巨大金鉱石「モンスターゴールド」の写真を引用させていただきました。ここでは「小松長者」がこちらのような石を満足気に眺めるところを想像してみましょう。
「小松殿はそれからはみずから鉱夫どもを督して、そのヒを掘り伝いゆき、まる三年めのやはり大晦日の日にウシの形をした親金に掘り着けました。小松殿は大喜びでただちに坑外に大酒宴を催して夜を明かし、明くれば元朝のめでたい日の朝日が登るとともに、改めて坑の入初めの式を挙げ、それから黄金のウシの額の片角に錦の手綱を結びつけて歌声もろともに引っ張らせたが、その角がぽきりと折れてしまいました。こんどはその首に綱を結びつけて引っ張ると、ウシが二、三歩動いたかと思うたとき、突然坑が落ちて、鉱夫どもが七十五人惨死したというのであります。」
以下には岩手周辺の郷土芸能にもなった「金山踊」の写真を引用いたしました。ちなみに小松長者たちは
「金のウシこに錦の手綱、おらも曳きたい曳かせたい」
と歌っていたとのことです。
出典:『岩手の産業と名勝』,岩手県書籍雑誌商組合,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13735232 (参照 2025-07-24、一部抜粋)、金山踊
https://dl.ndl.go.jp/pid/13735232/1/42
「そのとき炊事男(あるいは時知らせの男とも言います)に、ウソトキ、あるいは、オソトキ(2)と呼ぶ男がおりましたが、親金がなかなか動きそうもないので、おまえも坑中にはいって手伝ってくれといわれて、みんなと同様に手綱に取り付いていましたが、ふいに坑口のほうで、ウソトキ、ウソトキと呼ぶ声がするので、手綱を放して駆け出して坑を出てみるとなんぴともいませぬ。これはおのが空耳かと思って再び坑中にはいっていると、また外で呼び声がする。それから三度めの呼び声があまりに火急で鋭かったのでハッと思って駆け出し、坑口から片足の踵が出るか出ぬ間の瞬間にドンと坑が落ちたのだとも言います。とにかくこうしてこのオソトキ一人のみ助かったのであります。」
下には佐渡金山に残る坑道の一つ「角行坑」の写真を引用しました。誰かに呼ばれた「オソトキ」がこちらのような坑口を出た途端に天井が落ちて・・・・・・。
出典:シン日本紀行, CC0, via Wikimedia Commons、佐渡金山 角行坑
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%BD%90%E6%B8%A1%E9%87%91%E5%B1%B1_%E8%A7%92%E8%A1%8C%E5%9D%91.jpg
佐々木喜善は脚注でウソトキ(オソトキ)の名前の由来について以下のように推測しています。
「この男はあまり正直者で、御飯をきちんと正確な時間にしか出さなかったので、鉱夫どもは逆に偽時だといって諷したとも言い、またこの男は時を知らす役目であったが、あまり正確に時間を守るのでみんなからそう逆諷されたとも言います。」
女性のウソトキ
なお、男性だけでなく女性のウソトキの話も伝わっています。こちらは「オトタツ」と呼ばれていました。
「話はこれで全部でありますが、その一人助かった者が女であったというほうを申しますと、同郡上郷村字左比内(さひちい)の奥の金山で、やっぱりウシの形をした親金に掘り当てまして、坑中に千人の鉱夫どもがはいって、その金のウシを引き出そうとしたがどうしても力がおよびませぬ。そこで炊事女のオトタツという娘も坑のなかに入れられて手伝っていますと、ふいに坑口の外でオトタツ、オトタツという呼び声がするので、これは母親の声かと驚いて、坑外へ駆け出る刹那、坑が落ちて、なかの千人の鉱夫が死んだという話であります。」
佐比内(さひない)から赤沢、長岡と当町の東部には多くの金山跡があります。特に佐比内の朴木(ほうのき)金山は有名です。また、隠れキリシタンの遺跡(墓)や遺物(マリヤ観音)が伝わっています。
出典:一般社団法人紫波町観光交流協会公式サイト、金山跡/キリシタン
https://www.shiwa-kanko.jp/history/history-124/
なお、上に引用したように左比内周辺の金山では江戸時代、多くの隠れキリシタンが働いていました。彼らのなかには宣教師たちから最新の鉱山技術を学んでいた者もあり、金山でも重宝されていました。もしかしたら「オトタツ」も隠れキリシタンの一人であったかもしれません。
「このオトタツという娘には、盲目(あるいはそうでなかったとも言いますが)の母親がありましたが、非常な母思いの娘でありましたから、鉱山の炊事場の流し下に落ちた飯を拾って帰っては母親を養っておったとも言います。前話と同じように、ここでもこの娘一人だけが助かっているのであります。(後略)」
「もうひとつだけ例を話して話をつぎに移します。陸中国江刺郡米里村字古歌葉(こがよう)、この辺にはいまも所々に金山がありますが、昔やはり黄金のウシの形をした親金に掘り当て、坑中で祝いの大酒宴をしていると、坑が落ちてなかの千人が死んだと言い、そこにも一人のオソトキという男がいて、前話などと同様な趣向から、その者だけが生命拾いをしているということになっております。」
上には「古歌葉金山」周辺のストリートビューを引用いたしました。現在は樹木が生い茂る静かな場所ですが、金採掘が行われていた江戸時代まではこちらの奥の方から賑やかな声が聞こえていたのでしょう。
他にもある「ウソトキ」伝説
「このほかにも所々に(4)じつに金坑のあり、またかつてあったといわれる所には同様の口碑のない所がないといってもよいくらいにふだんにある話でございます。同じ話をいちいち列挙するのもくだくだしいから、地名だけを註記のほうに記しておくことにいたします。」
脚注(4)には以下のように記されています。
「この口碑のある金山およびその跡について私の手帳に控えた一端を申しますと、
陸前国気仙郡竹駒村、玉山金山、ウソイト、ウソトキ
同郡唐丹村今手山金山、三郎
陸中国和賀郡田瀬村、黄金(こがね)沢、ウソトキ
稗貫郡湯本村字日影坂万人沢、ウソトキ
江刺郡米里村字古歌葉、千人沢、ウソトキ
上閉伊郡上郷村字左比内、千人沢、オトタツ
同郡同村仙人峠の長者洞、ウソトキ
同郡土淵村字恩徳金山、ウソトキ
同郡栗橋村字青木金山、オソトキ
同郡甲子村字大橋日影沢(?)ウソトキ
同郡小友村日石金山跡、オソトキ
紫波郡佐比内村銅ヶ沢金山、ウソトキ(?)
同郡彦部星山赤坂金山、ウソトキ(?)
陸奥岩木山麓百人沢、ウソトキ
羽後国鉱山地方某所、ウソトキ
など親金が黄金のウシであることは、いずれも同様であります。」
リストアップされている「玉山金山」や「恩徳金山(岩手県遠野市土淵町栃内1地割、恩徳バス停付近)」、「彦部星山赤坂金山(岩手県紫波郡紫波町星山柏森付近)」をグーグルマップ上に配置してみます(上図)。このように北上高地周辺には金鉱脈が連なり、古くから岩手は「黄金の国」として注目されてきました。
ウソトキ伝説の謎
「私は前述のように黄金(きん)のウシ(ベココ)の口碑というのが、いかなものかということについてはほぼ言い尽くしたように思います。それで金鉱の親金がウシの形態をしていたこともそれを引っ張り出そうとして千人あるいは七十五人、百人万人と多くの生命が滅びたということも、そのときたった一人のウソトキという者が、他から呼び出されて、すなわち他動的に生命拾いをしたということも、読者のかたがたにはたいがい肯かれましたことと思います。」
金山の開発が進むにつれて鉱夫も場所を写り、「ウソトキ」の話が広がっていきます。なかには下に引用させていただいたように犠牲者数を地名にした事例もあったとのこと。慰霊や防災を祈願するのが目的だったのでしょうか。
この話は、故森嘉兵衛岩手大学教授によると、奥羽全体で三十六ヵ所に伝えられているという。(中略)地元ではどちらも七十五人という地名でよんでいる。生埋めになった人数を小字名にしているのである。
出典:菊池照雄、山深き遠野の里の物語せよ、梟社、1989、P65
「そのついでにもう一歩を進めてくだすって、私が前述しておいた疑問すなわち、どうして黄金とウシとがくっついたかということ、それからその墜死した人数の観念のうちの七十五人と決めたのがどういうわけであるかということ、もちろん百人、千人、万人とは単に多数という観念の表象語でありましょうけれども、ここに七十五人と言いきったことは合点がゆきませぬ。この七十五人口がかなり多くありまして、私は聴くたびごとにいちいち奇態に考えたことであります。つぎにはこのウソトキでありますが、これは他にいかなる名まえがあるにあっても、どうしてもその基本はやはりこのウソトキであったらしく思われます。」
以下には日本で唯一、商業的規模の操業が行われている金鉱山・菱刈鉱山の金鉱石の写真を引用させていただきました。こちらの金鉱石は巨大で「牛」のイメージに近いかもしれません。
「さてこう並べてみますと、キンノベココ、七十五人、ウソトキとこう三つの疑問となりますが、これはなにも金のウシでなくとも、ウマでもニワトリでもないしは玉でも茶釜でもよかったはず、またその他も同様でありましょう。しかしこれも今日流行の語原などというものがわかれば、あんがい易々なものかもしれませぬ。だが私の欲を申しますと、どうもそればかりをたよりにすることも、真に不安心なように思われます。でありますからこれはこのまま、生のままでみなさまの御垂教を仰ぎたいと思います。」
「ウマでもニワトリでも」よかったという「金のベコ」ですが、今では岩手の黄金伝説を伝える縁起物として、民芸品になっています。下には花巻市・小田島民芸所の「金のベコッコ」の写真を引用させていただきました。
「それから、話は前後してあいすみませぬが、かつて私が上郷村にこの口碑を収集に出かけましたとき、同地の老人がいうことには、おれが先年釜石から帰村するとき、仙人峠で、秋田の人だという人と道連れになって、はしなくもなにゆえにこの山を仙人山というかという話が、おたがいの間に問題になりましたが、おれはじつはこの山のある沢に長者洞という古い金山の跡があり、そこで金のウシを掘り出そうとして千人の鉱夫が坑が落ちて死んだのから、この山の名も起こったという老人たちの話を言い、それに付け加えてどうしてもいわなければならないウソトキのことまで話すと、秋田人は色をなしていうことには、それはうそだ。その金のウシと言い、千人死んだことと言い、そのオソトキの話と言い、それらはみんなおらが国の金山の話だ。この辺にそんな話はあるものかといったということでありました。」
千人峠の由来について「遠野物語拾遺5話(遠野物語拾遺の風景その1・参照)」では以下のような一説が記されています。
「遠野から釜石へ越える仙人峠は、昔その下の千人沢の金山が崩れて、千人の金堀りが一時に死んでから、峠の名が起ったという口碑があり(後略)」
岩手軽便鉄道と秋の仙人峠越え / Gonzaburouさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
また、上には登山情報サイト「YAMAP」より仙人峠付近の登山日誌を引用させていただきました。「41/66」に掲載されているのが「仙人トンネル」の真上にある「長者洞三角点」で、落盤伝説の現場と思われます。こちらの写真の周辺で「上郷村の老人」と「秋田人」とが互いに自分の土地の伝説だといって譲らない場面を想像してみましょう。
「この話はじつにおもしろい話でありまして、ぜんぜん同様の口碑がこのように所々方々にあり、しかもいずれもみなことごとくおらが所の話だとされて、主張され語られかつ保存されているのであります。こういうところが口碑伝説の本性でありますし、また同時に、ある所にあったとされて物語られる昔話や童話との分岐点でもあります。しかしこんなことは先刻みなさまが百も七十五も御承知のことでございます。そのみなさまの知識を目あてに、私はこれらの不明や疑問を述べ、その蒙を啓いていただかしてくだされたいと希う次第であります。」
旅行などの情報
玉山金山遺跡
「東奥異聞」でも「ウソトキ」伝説の地の一つに挙げられている金山跡です。陸前高田市、氷上山の中腹で発見され、産出した金は東大寺の大仏や中尊寺金色堂にも使われました。また、豊臣秀吉や伊達政宗なども玉山金山の開発に力を入れ、「千人坑」や「精錬所跡」、「検問所跡」などの遺構を残しています。なお、「玉山」の「玉」は水晶を表し、以下に引用させていただいたような良質な水晶が産出することでも知られていました。
「仙人坑跡」や「玉山神社」など、一部の遺構は「玉山金山遺跡等保護エリア」となっていて、立ち入るには入山許可申請が必要になるのでご注意ください。金山跡の入口付近には「玉乃湯」という温浴施設があり、散策後の休憩スポットとしておすすめです。こちらでは金山跡のガイドツアーも実施しているので参加してみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】岩手県陸前高田市竹駒町字上壷104-8
【アクセス】陸前高田駅から車で約20分
【参考URL】https://jp.tohoku-golden-route.com/cp/?cpid=284