佐々木喜善「東奥異聞」の風景(その3)
飛んだ神の話
今回は火事から飛んで逃げた神様のお話が中心となります。主役は神話に登場するような神様ではなく、「隠し念仏」の本尊「黒仏」や「オシラサマ」、「ゴンゲンサマ」、さらに偉いお坊さんの「杖」といった造形物です。後半は東北に伝わる正法寺版「分福茶釜」にかかわる奇想天外なストーリーを追っていきましょう。
「隠し念仏」の本尊・黒仏
「神たちはおおよそ飛んで歩くものとみえて、西洋の神々の背には翅(はね)が生えていたり、東洋の神たちはへんな図案的な雲に乗っている。いずれも飛ぶということの象徴である。」
下には雲に乗った神様たちを描いた「阿弥陀聖衆来迎図」を引用いたしました。
出典:ColBase、阿弥陀聖衆来迎図
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11974-2?locale=ja
「しかしここにいおうとするのは、そんな神話や古典などの挿し絵にあるような神ではなく、現在われわれの間に秘信されている煤ぼけた木像やなにかが飛んだり、または歩いたりした話である。ただ困ることにはこんな類の話が非常に多いのだから、ここにはごくその範囲を狭くして、そんな類話のなかからとくに火事のときに避難して飛んだという神さまのことのみをいおうと思う。
それについて、第一に言いたいことは、奥州地方に行なわれている秘事念仏宗の最大至尊仏である黒仏(くろぼとけ)さま(1)であるが、この仏は従来地方の民間に偉大な感化と厳格なところの信条とを与えているかたわら、ときどき、ごく優しい童形になって現われてみたり、また御自分のお気に召さぬとかなたこなたに飛び移られたりなどしている。」
「秘事念仏宗」は「隠し念仏」といわれることもあり、浄土真宗に真言密教の儀式・呪術的な要素を取り入れた民間信仰です。「南山大学人類学研究所・人類学研究所通信第9号」によると、本尊の「黒仏」は親鸞自刻像に親鸞の火葬骨灰を塗ったものとされていました。
以下には浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の御影(13~14世紀の作品)を引用いたします。つり上がった眉や高く張った頬、引き締まった口元などから意思の強さが伝わってきそうです。
出典:Nanbokucho-period artist, Public domain, via Wikimedia Commons、Shinran Shonin, Nara National Museum, Japan
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinran_(Nara_National_Museum)_(cropped).jpg
「東奥異聞」の注釈には「黒仏」は国内に8体あったという記載があります。
「(1)秘事念仏の黒仏は日本に八体あるという俗説である。すなわち総本家京都鍵屋に一体、それから叡山に一体豆腐買いの本尊というのがあるという。奥州には白河大綱の総本家、陸中胆沢郡佐倉川村渋谷地家盛岡北山本誓寺とこれだけはわかっているがあとはわからぬという。(後略)」
なお、下の引用文にもあるとおり、東北地方で流行した「隠し念仏」は「京都鍵屋(五兵衛善休)」から「山崎杢左衛門」たちに伝えられたのが始まりとのことです。
仙台藩水沢領主伊達主水(もんど)家の小姓山崎杢左衛門ら四名が京都に上り、真宗仏光寺昌蔵院に寄宿中に秘事者の鍵屋五兵衛善休より相伝したのにはじまるという。
出典:新纂浄土宗大辞典、隠し念仏
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%BF%B5%E4%BB%8F
「この秘事念仏が奥州にはいってきた時代は、中央部の総本家、渋谷地家の大先生の話だと、いまからちょうど百五十年前のことだという。今年は御先祖さまの菩提かたがた百五十年祭でもやろうかとのことであったから、年表を繰ってみると、安永元年か二年あたりのことらしい。この渋谷地家の御本尊はごく小さな、といっても六、七寸くらいの腰細跪坐の真っ黒なお姿である。」
「隠し念仏」とは少し異なりますが、下には江戸時代、浄土真宗が禁止されていた南九州で流行した「隠れ念仏」の本尊の例(木造親鸞聖人坐像)を引用させていただきました。こちらの真っ黒なお姿から、「隠し念仏」の本尊をイメージしてみましょう。
「この宗門がいったん邪法として、法度禁制されて、宝暦十年五月二十五日、智識御脇(2)の徒輩が仙台の町外れの七木田の処刑場で磔刑にされるとき、故郷水沢横町の山崎杢左衛門という伊達主水の家中小姓組の家の奥座敷に、一族信徒がひそかに寄り集まって雨戸を締めきり、隠れて御本尊の前に蝋燭をともしながら、みなみな拝んでいた。すると、夕方ごろその蝋燭の火がぱっと消えたので、あわやただいま御主人らが御処刑にあい成ったかとみな泣き沈んだが、やがて点火してみると、御本尊の脇下から胸にかけてさっと血潮が飛びかかっていた。真にその時刻こそ杢左衛門らが突き殺されたのであったというが、この人は御脇であったということである。」
以下には杢左衛門が処刑されたと伝わる「小山崎刑場跡」付近のストリートビューを引用いたしました。現在は石碑のみが残され当時の様子を想像することはできませんが、近くの「水沢大林寺」境内には杢左衛門を顕彰した「山崎大導師殉教報徳の碑」が建てられているとのことです(岩手県胆沢郡水沢町編「水沢町誌」)。
江戸時代初期にはキリスト教徒による「島原の乱」などの一揆があり、幕府は宗教活動に対して神経をとがらせていました。東北地方で急成長した「隠し念仏」は「隠れ切支丹」に類する邪宗と見なされ、弾圧にあったといわれています。
「東奥異聞」では「隠し念仏」の代表的な秘事「オトリアゲ」についても触れています。
「(2)智識御脇というのは、この宗門の導師教師であってまったくの民家俗人である。しかしてまことにやかましく一師相続の伝統で、両者ともいわゆる秘事お取上げの法式を司る。(後略)」
「秘事お取上げ」については、再び南山大学人類学研究所・人類学研究所通信第9号から引用させていただきました。
その子が6・7歳前後から12・13歳までに行うのがオトリアゲである。導師の指示に従い念仏や「タスケタマエ」を息の続く限り唱え、その相格によって成仏可能か否かが判断される儀式である。(中略)合格すると、導師から「改悔文」や日常守るべき生活規範、月3回の精進日などが申し渡され、みんなに褒められ、御馳走がふるまわれる。
出典:南山大学人類学研究所・人類学研究所通信第9号、東北の「隠し念仏」と南九州の「隠れ念仏」、門屋光昭
https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication-new/thushin.html
ハス葉の黒仏さま
「ただこれでは本すじの飛んだほうの話にはならぬが、この宗派の別派に紫波派とも八重畑派とも称するものがある。これは渋谷家よりもなおずっと後年に、総本家京都柳馬場の鍵屋からの直伝だというもので、いまは紫波郡八重畑村佐藤某という家に属しているものだともいうている。この派の御本尊であるか、とにかく紫波派のほうの黒仏は火事のときに、仏壇から飛んで、家の門前の池にゆき、ハスの葉にくるまっていたので、後にはハス葉の黒仏さまと呼ばれたということである。(中略)これも民間からの聞書きだから、たしかな年代などはよくわからぬが、こっちも法度にふれて、主脳者らは捕われた。しかしよく検糺してみると邪法とは申せ、浄土真宗とあまりの相違もないので、本尊は取り上げて表派の盛岡北山の本誓寺に移し、智識をばおおいに減刑してそこの寺男とした。」
以下は盛岡に移転前の場所(岩手県紫波郡紫波町二日町字北七久保)に残る「本誓寺」周辺のストリートビューです。
「紫波町観光交流協会公式サイト」によると移転前のお寺にも、火災時、親鸞聖人の座像が池に飛んでいったという伝説が残っています。「民間からの聞書き」である「紫波郡八重畑村佐藤某」と紫波町本誓寺の「黒仏」伝説は同じ出来事をもとにしているのかもしれません。
蓮池
ある年、山麓のお寺(本誓寺)が野火による火災になり、大事な「木像親鸞聖人坐像」も火難にあい、近くの池で蓮の葉をかぶっているところを発見した。黒くこげていることから木像を「黒仏さま」とか「蓮かぶりの仏さま」と呼ばれている。
出典:紫波町観光交流協会公式サイト、石森山本誓寺
https://www.shiwa-kanko.jp/history/history-2144/
「だが人情はふしぎなもので、正統の住職よりもこの寺男のほうが民間信徒の崇拝の的となって、ますます帰依者をぞくぞくと出した。この男は本誓寺で亡くなったが、今日でもその墓前には線香の煙が日夜絶えぬというが、ただしこれは余談である。さてそれから、その移された黒仏はどうなったかというに、いまでもりっぱにあって有名であるが、この寺にきてからも、火事のときには、門前のハス池まで飛んで、ハス葉にくるまっていなされた。」
出典:盛岡市 編『盛岡産業名勝名物案内』,盛岡市,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965120 (参照 2025-07-31、一部抜粋)、本警寺の黒仏
https://dl.ndl.go.jp/pid/965120/1/43
上には盛岡移転後の「盛岡北山本誓寺」の仏壇の写真を引用いたしました。右側の座像が注釈(1)に記されていた黒仏でしょうか。以下に引用した「盛岡産業名称名物案内」には「蓮葉の痕跡今尚頭上に存す」とも記されています。
就中(なかんずく)祖師象は俗に黒仏様と称し、祖師上人の直作(日本三体の一)にして文永中彦部にありしとき池魚の災あり像もまた寺と共に鳥有に帰せしものと思ひしに不思議にも蓮池の中に在るを発見せり故を以て蓮葉の痕跡今尚頭上に存す、爾来蓮冠の御真影と称して愈々名高く、遠国より遥々来り賽するもの今に多し(後略)
出典:盛岡市 編『盛岡産業名勝名物案内』,盛岡市,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965120 (参照 2025-07-31)、本警寺の黒仏
*池魚の災・・・思いもよらない災い
*烏有に帰す・・・跡形もなくなる
https://dl.ndl.go.jp/pid/965120/1/43
ここでは右側の黒仏様が「ハス葉にくるまっていなされた」場面を想像しておきましょう。
火消しの神様
「これからいよいよ話の本すじに取りかかるが、この火事のさいに飛んだ神の本場はじつはかのオシラサマ(4)であって、奥州では磐城岩代から陸奥津軽の果てにいたるまで真に無数の例をわれわれに示している。もしこれを数字にとったなら百のうち九十余まではそうだということができるだろう。」
「(4)一例をいうと、気仙郡広田唐丹(とうに)方の村々が先年山火事が延長して全村三、四百戸焼失したときに、同村の裏の竹林に村中にある多くのオシラたちが避難して飛んできていたという。また一個だけの例だと、上閉伊郡甲子村大字大橋の半四郎という家のオシラは、この家の火事のとき、仙人峠を越えて同郡上郷村字沓掛の観音堂の別当の家まで飛んできていたが、後にそれとわかって連れて帰ったという。」
以下に引用させていただいたのも火事を逃れたオシラサマとのことです。
「しかしこのほうの研究調査はネフスキイ氏と共同でやっていることゆえここにはその材料を使うのを遠慮して、左にそれと抵触せぬように思う部類のみを二、三例話そう。」
「ネフスキイ氏」とはニコライ・ネフスキーのことで、オシラサマの研究成果としては民俗学者・折口信夫主宰の「土俗と伝説」に投稿した「遠野のまじなひ人形」などがあります。下にはネフスキーファミリーの写真を引用いたしました。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、Nikolai Aleksandrovich Nevsky (1892-1937) and his wife Iso (Isoko) Mantani-Nevskaya (萬谷イソ, 萬谷磯子, 1901-1937), and their daughter Yelena. Photograph taken in Japan, c. 1929.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nevsky_family_1929.jpg
「私はこれもじつは秘事念仏の黒仏ではないかと思い、それがなにかの関係で本家を離れて御堂住居になられたであろうと想像するものに、陸奥国三戸郡五戸町の観音堂の御本尊で、黒地蔵と申す丈七、八寸くらいの胸部で合掌し細腰跪坐のお像がある。いまから三十年ばかりも前のことであろうが、なにかのわけでこの観音堂が焼けたとき、この黒地蔵がどこへか飛んでいって姿を隠してしまって、久しく行くえ不明のままであったが、あるとき同町新町の福村某という者が夢枕に立たれて、自分はいま御堂の後ろの竹林のなかに飛んできているのだがあまりに寂しいから元の所に還りたいとのお告げであった。某は翌朝早々に起きてじつは半信半疑の態でその竹林にいってみると、ほんとうにそこにござった。それからは町内の念仏婆さま連中が十五、六人で毎晩鉦をたたいて歩き回って、喜捨を集めその金でいまの御堂を再建し、御本尊さまを守り申したという。これは同町の菊池源吾氏からの報告である。」
こちらの「観音堂」や「黒地蔵」についての情報を得ることはできませんでしたが、三戸郡五戸町には観音堂という地名が残っています。下には「観音堂」周辺のストリートビューを引用いたしました。中央部には祠が残っていてその裏には木々が茂っています。ここでは、こちらの茂みのなかに「黒地蔵」が寂しい思いで鎮座しているところをイメージしてみましょう。
「この話で思い出されるのは陸中江刺郡米里村字坂本の山ノ上の観音堂の本尊などの由来で、元この本尊は同村元桂(もとかつら)という所にあった大カツラの木を伐って、仏像三体を作り諸所の山上に安置したのが、そのうち同村大森山の観音は山火事にあったとき避難していまいるところの同郡玉里村大森に飛んでいったものだという。そこにはりっぱな観音堂があるが、これらの木像のかっこう寸尺はついに聞き洩らしてしまった。
下にはこちらの話と関連があると思われる「江刺米里坂本49」の「山ノ上観音堂(江刺33ケ所観音霊場の18番)」のストリートビューを埋め込みました。
また、「いまいるところの同郡玉里村大森」とは江刺33ケ所観音霊場の4番大森観音堂と思われます。下に引用させていただいたように「山ノ上観音堂」・「大森観音堂」の双方とも、蝦夷の首領アテルイの甥(諸説あり)である人首丸(ひとかべまる)に関わっているようです。
桓武天皇の延暦二十二年(八〇三)秋、田村阿波守(田村将軍の聟)が米里の大森山で人首丸を討ち、その死がいを大森山の中腹に懇ろに葬り、その上に石塔を立て、その傍らにお堂を建立し、桂の樹を伐って観世音菩薩の像を彫り、堂内に安置して戦勝の記念とした。大森山にある観音堂は高山にあるため、参詣人も少なく、また数度の山火事に遭い、堂宇は消失し、その度に再築したが、その後(年代不詳)維持することが困難と思い村民相図り、本尊を角懸村大森に移した。玉里の大森観音はこれであると、「米里村村史」に誌してあります。
出典:江刺33ケ所観音霊場・4番大森観音堂の由緒書き
なお、大森観音堂に移された本尊は「十一面観音菩薩」ということです。こちらの観音様も煤が付いた「黒仏」なのでしょうか。
ゴンゲンサマが飛んだ話
「御神体はまったく違うが、これに似た話がほうぼうの権現さまにもある。元来このゴンゲンサマというのは元蛇体の変化物(へんげ)で、形態はすこぶる似ているけれどもオカグラサマすなわちオシシとはぜんぜん相違している。権現さまは頭にはウマの鬣(たてがみ)などをむすびつけているが、オシシにはこれは神であるからそんな野蛮な真似はせずことごとく紙を裁ち切って下げている。そこが違う。元オシシはじつは山男であったが、人間に炭焼き方法を教えた恩顧でかような神となったのであるという民伝がある。」
下に引用させていただいた投稿(右上の御朱印)には「オシシ」と「ゴンゲンサマ」の違いがよく分かるイラストが描かれています。
「その考証はいずれにしても、とにかく私らの考えでは大ざっぱにこれをいっしょにして、暫時神さまと観ておこう。なぜならオシシが神ならこれと寸分違わぬ行為動作をゴンゲンサマも行なっているからで、なにも頭の毛の本物や紙製が文句をいわれぬからである。元来この頭ばかりの神が子どもらの頭を齧るほかに能事あることをあまり聞かぬが、ふしぎにも耳取り喧嘩と火消し仕事はなされている。そこで乾燥の春先にはいずれも太鼓たたいて、火防の舞踏をして村々の家ごとを回っている。しかしながら本職の火防のことも大火なんかでとうていやりきれなくなるとそこを逃げ出す。すなわち飛んでしまうというはなはだもって神さまらしくない無責任な行為をもやっている。」
ひどい言われような気もしますが・・・。
下にはゴンゲンサマの写真を引用されていただきました。
「陸中遠野郷小友村字高柴の千眼城(せんがんじょう)山の権現は元外山(そとやま)という所にいたのであったが、あるときの山火事のときに現在の所に飛んできたのだという。これなども飛んだといえばたいそう神々しくて聞えがよいが本来は逃げてこられたことであろう。」
「また同郷土淵村と栗橋村との境の死助峠の頂上にいる死助権現というのもやはり山火事のときに、頂上から逃げ出して栗橋領分のほうへずっと飛んでいったものだといわれて、いまでは山の麓近くにおられる。なんでもこういうふうな話は、書き出したら実際際限がなかろうからこのほうはこれくらいにしておいて、つぎの話に移りましょう。」
権現山 – 遠野物語の世界 / Gonzaburouさんの権現山(岩手県釜石市)の活動データ | YAMAP / ヤマップ
上には登山情報サイト「YAMAP」の活動日記を引用させていただきました。こちらの中で「1/26」「2/26」が「死助権現」の写真です。
日記のなかで「頂上にあった死助権現はのちに笛吹峠の釜石側に移されて、笛吹大権現となったそうです。」と書かれているように実際は人手により移動されましたが、こちらの物語では飛んで逃げたことになっています。
飛んだオシラサマ
「ここまでいうてくると、無形の高等神ならいざ知らず、かかる木像やタケ(10)などまでがそう飛んだのか、またそう飛び歩かなければならなかったか、なおかつ村人がそう信じ、いかにしてそう信じさせられ、信じなければならなかったかという問題に突き当たるが、このほうははなはだ多く飛んだ神のオシラのほうの例をみているうちにすこしの不自然もなく理解がつくと思うから、そんな理窟談はあとでゆっくりさせていただく。」
「(10)タケ切れで作ったオシラサマは旧仙台領に多くある。」
上には竹製のオシラサマの例を引用させていただきました。
釜の話・東禅寺
「ここでは私は単におもしろそうな話を追うてゆくだけのことを能とする。ここで話をずっとはずしてこのたびは神性ではなかろうが、おおかたそれらに近い素質をもっているものの、同じく火事のときに飛んだという話をしよう。陸中国上閉伊郡附馬牛村字東禅寺というに、土地の伝説上有名な無尽和尚という人があったといわれている。その人が持った杖が近年まで残ってあったが、寺が焼けるときどこへか飛んでいってしまった。」
「東禅寺」は鎌倉時代後期から室町時代初期に無尽和尚によって開基された寺院です。200人以上の僧が修行をする東北でも有数規模の寺院でしたが、戦国時代頃に焼失し、そのまま廃寺になりました。以下には昭和33年~34年に行われた発掘調査時に撮影された礎石跡の写真を引用させていただきます。
出典:岩手県庁公式サイト、東禅寺跡礎石建物跡©遠野市教育委員会
https://maizobunkazai-web.pref.iwate.jp/%E9%81%BA%E8%B7%A1/%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA%E8%B7%A1/
「またこの和尚の在世中に、数百人の学徒に飯を焚いて食わせた大釜があったが、やはりそのとき飛び出そうとして大廊下をごろごろ顛倒(ころがり)回り、大きな音をたてて鳴いたが、あまり重量がありすぎたのでこのほうはついに飛べなかったとていまにある。一つの釜は盛岡へ連れてゆかれるときにゆきたくないといって大喚ぎをたてながら、村の字大洞という所の淵に滑りこんでしまった。いまでもその淵に沈んでいるという。これは前のと夫婦釜であったのである。」
釜の話・正法寺
「こういう釜のついでにもう一つ・・・・・・
それは陸中江刺郡黒石村の古刹正法寺という寺に起こった話である。この寺の開祖は無底和尚というて前記東禅寺の無尽とは兄弟弟子であったという。余談だらけで気咎めがされてならぬが、すこしその話をすると、下野国河内郡今泉の興福寺の開祖真空妙応禅師という偉い和尚に、無尽、無底、無意という三人の高弟があった。」
以下には奥州市・正法寺の開祖・無底和尚の自画自賛画を引用させていただきました。
出典:正法寺公式サイト、正法寺とは(無底禅師の自画自賛画で遷化の前年延文5年(1360)に描かれ、岩手県内の頂相画では最も古い。)
https://shoboji.net/about/
「ある日師匠は無尽、無底の両人を呼び寄せて、手に持てる白旗を東方に向かって投げ飛ばしては、無尽に、かの旗の行くえを捜し求めて弘法せよと言い、また同じく黒石を空に投げて、無底にはその石を尋ねて落ちある所に一寺を建立して、諸民を教化せよといわれた。すなわち前者は閉伊郡綾織村字砂子浜(いさござわ)という所まで尋ねてくると、そこの村人は多勢寄り集まって何事か大騒ぎをしている。無尽近寄って聞き糺すと、数日前から村の東北にある枝垂(しだれ)グリの大木にどこからとなく白竜飛びきたりて巻き付き、はためきわたり、その勢い凄じくて近寄るべくもあらず、なんとかしようといまその退治方法を講じているところだと口々にいう。無尽はそこの地勢ようすなどをとくと聞いてどうやら思い寄るふしがありゆきてみるに、それは自分の尋ね求めている白旗であったので、それを納めてそこに寺を開いたという。」
下には遠野遺産(認定番号93)の一つ、綾織町「長松寺のしだれ栗」周辺のストリートビューを引用いたしました。遠野市公式サイトによると「明治30年(1897)ごろ、山子であった及川興吉氏が附馬牛へ越えたあたりで発見し植樹した。(山子・・・きこりなど山で働く人)」とのことです。「枝垂グリ」は「シバグリ」が突然変異した珍しい樹木ですが、無尽和尚の頃にもこの辺りには自生していたのかもしれません。
「それから無底のほうは、やはりその黒石を尋ねて諸国を回っているうちに、前記の江刺郡の山内という所までくるとその石があった。よってそこに寺を建立したのがこれからいおうとする正法寺であって、なおつぶさに詳しくいうと、大梅桔華山円通正法寺というおそろしい長い名まえの寺である。」
以下には明治41年ごろに撮影された正法寺の写真を引用いたしました。
出典:手県奉迎会 編『東宮行啓紀念写真帖』,巌手県奉迎会,明41.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780856 (参照 2025-08-02、一部抜粋)、正法寺
https://dl.ndl.go.jp/pid/780856/1/116
「さて昔あるとき、一人の馬喰(ばくろう)が、この寺に、一個の茶釜を持ってきて、おれは先日町へゆくとある古道具屋の店前にこんな茶釜があったから求めたが、あまりかっこうがよいので、これを和尚さまに差し上げたいという。それは真に近ごろ奇特なことだと、寺ではもらい受けておいた。和尚は小僧に言いつけてその茶釜を磨かせると、茶釜は小僧痛いぞ、小僧痛いぞという、それから火にかけると、熱い熱いといっておおきに荒れ出すという騒ぎである。そればかりか夜になると小僧どもの寝室へいって悪戯をしてならぬので、寺では困って後には金綱を作って庫裡の杜につないでおいた。これは当方で名高き正法寺の文福茶釜(14)であるが、いまはその茶釜には大事の蓋がない。その蓋のなくなった由来こそこの話の大事な個所であるから忍耐して聞いてもらいたい。」
正法寺の文福茶釜について「東奥異聞」では以下の注釈が加えられています。
「(14)奥州の文福茶釜は、江戸近くのものとは違って綱渡りなどの芸当はできなかったが、ばか正直に小僧たちなどの悪戯をしたから金綱で縛られた。こういう稚気満々なところを買ってください。」
以下には今も残る正法寺「文福茶釜」の写真を引用させていただきました。こちらの茶釜が厳重に金網で縛られているところを想像してみましょう。
出典:正法寺公式サイト、文福茶釜
https://shoboji.net/seven_wonders/
こちらの「文福茶釜」には蓋がありませんが、以降ではそのいきさつについて語られています。
「昔陸前国気仙郡、今の猪川村に稲子沢長者という長者があった。数多の下女下男があるなかに、稲子沢の寝手間取りとて、年中ごろごろ寝てばかりいて食っている手合いも多かった。そのなかに某という若者があったが、いまを血気盛りの若者がそうして毎日寝てばかりいるのもつらいことだろうとて、主人はあるときそれを呼んでアワ種五合を預け、これをおまえに与えるからかの山畑にいって蒔き耕せ、この仕事ならそう難儀でもなく、かえって気晴らしにもなることであろう。一年いっぱいその五合蒔きの畑を操業(そうご)するのがおまえの役目だという。」
ここで登場する「稲子沢長者」は全国長者番付の上位にランクされた有名な豪農でした。遠野物語(遠野物語の風景その2・参照)では運気の下がった山口孫左衛門邸から二人のザシキワラシが出ていくところが目撃されていて、その行き先はこの「稲子沢長者」であったとのことです。
「奥州のザシキワラシの話」では「これから気仙の稲子沢の家へ行きます」と、はっきり行き先を告げ、「老媼夜譚」では、村人に「どこへ行くか」と問われた娘たちが「これから気仙の稲子沢の家に往くべと思って」と答えている。
出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P104
稲子沢は大船渡市猪川町にある長者伝説を持つ家で、ザシキワラシにまつわる伝承がある(川島秀一「稲子沢の長者伝説と担い手」『東北民俗』第26集、一九九二年)。
下には稲子沢長者の邸宅内に設置され、今は「気仙三十三観音」の十九番札所となっている「稲子澤観音」の写真を引用させていただきます。
出典:黄金の国ケセン、稲子澤観音
https://kesen-bunka.jp/article/view/0190
話を「稲子沢の寝手間取り」に戻しましょう。
「若者はそんならといって畑にいったが、すぐ還ってくる。蒔いたかと聞くと蒔いてきたという。それからやがて畑の雑草を取らねばならぬ季節になったので、主人はまたアワの草は一本立ちに取らねばならぬものだからそうしろと教えて若者を畑に出すと、いったかと思うとすぐに戻ってきて、雑草は綺麗に取ってきたという。肥料もなにもかもそのとおりであったが、じつはこの若者は主人からもらったアワ種をば畑いったいに蒔かずに一つ所におろしてき、雑草を取るにも一つ所のアワ苗をみな抜き取ってしまって、たった一本だけ残しておく。肥料をやるにもその他の仕事も畑一枚分をことごとくその一本のアワに手当をしたから、秋になるとそのアワが大きくなったが、奇妙奇態なアワの大木となってしまった。」
下に引用した「アワ」のうち一本のみに全肥料を与えると、草ではなく大木になってしまいました。
出典:STRONGlk7, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、アワ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Foxtail_millet_02.jpg
「収穫の秋となって、そんなことをいっこう知らぬ主人は、以前の畑もすでに刈らねばならぬだろう、今日は幸い天気も上々だから、おまえもアワ刈りをしたらどうだろうというと、若者はおれもそう思っていたところだが、なにしろおれの畑のアワはなみたいていでは刈られない。これから出て樵夫の五、六人も頼んでこようというので、主人は不審に思ってそのわけを聞くと、そのアワの大木のことをいう。それではというので樵夫の七人も頼んでやるということになったがその長者の小檀那は、これは珍しいことだと非常におもしろがって、畑にいってみるといかにもアワの大木がいちばん上の梢端には雲を引き懸けらせて突っ立っている。それほどの大木だから樵夫どももほんとうになみたいていではなく、幹の周囲をあっちにゆきこっちに回ったりして、斧でもって一日がかりでやっと伐り倒したが、そのとき稍離れて見物していたかの小檀那が、木の倒れる端風で吹き飛ばされて野越え山越え、ついに遠く江刺の郡に飛んできて正法寺の屋根の上に吹きつけられた。」
稲子沢邸と正法寺とは現在の道路経由で64㎞ほど離れていて、位置関係は下のマップのようになっています。
「おりしもお寺の本堂ではいくたの小僧どもがお経の稽古最中のところであったが、なんだか屋根にへんな鳥が飛びついたと思って、ぞろぞろ出てみるとそれは鳥ではなくて人間であったのでおおいに驚いた。それから小僧どもは大騒ぎをして梯子を持ってきて伸べてみたがいずれも短くて屋根に届くものがなかった。そこでやむをえずうちから一枚の四幅風呂敷を持ち出して、その四隅を小坊主が四人して持ちひろげていて、その人はやくこれに落ちてこいと上に向かって呼ばわると、小檀那がごろごろと屋根の頂上からころんで風呂敷の上にドシンと落ちこんだ。その拍子に風呂敷がたわんで四人の小坊主の頭がコチンと鉢合せになるとそこから火が出て、軒下に飛びついてお寺は火事となった。そのときかの文福茶釜が逃げ出そうとあせったが、金綱でかたく繋がれているので自由ができず、蓋ばかりどこかへ飛んだということである。これでひとまずこの飛んだ話はやめにする。」
逃げた先は群馬県の「茂林寺」というお寺。そのお寺では「守鶴の釜」といわれております。
出典:正法寺公式サイト、文福茶釜
この群馬県館林市にある茂林寺という曹洞宗のお寺は全国的にも有名で、日本昔ばなし「分福茶釜」の題材にもなっております。
https://shoboji.net/seven_wonders/
上に引用させていただいたように、蓋が飛んだ先は群馬県の「茂林寺」とされていて、こちらは「江戸近くの」「分福茶釜」話の舞台になっています。
出典:『歴史写真』大正9年11月號,歴史写真会,大正2-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966268 (参照 2025-07-31、一部抜粋)、上州舘林茂林寺・分福茶釜
https://dl.ndl.go.jp/pid/966268/1/37
上には「茂林寺」に残る「分福茶釜」の写真を引用いたしました。ここでは手足や尾が生え、狸の姿になった「分福茶釜」が綱渡りを披露するところをイメージしてみましょう。
旅行などの情報
正法寺
「おそろしい長い名まえ」と喜善が記しているように正式名称は「大梅桔華山円通正法寺」という曹洞宗の古刹です。南北朝時代(1348年)に「無底良韶」禅師が開基し、東北地方の曹洞宗の中心地として栄えてきました。
上に引用させていただいたように、1655年に建築の惣門(左上)や1811年築の法堂(右上)といった国指定重要文化財が厳かな雰囲気を保っています。また、こちらのお寺には「文福茶釜」を含む「正法寺の七不思議」が伝わってきました。開いただけでたちまち雨が降るという掛軸「飛龍観音図(複製画)」や今も子供の泣き声が聞こえると伝わる「児啼きの池」などの不思議スポットをじっくりと巡ってみてください。
基本情報
【住所】岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺129
【アクセス】JR水沢駅から車で約20分
【参考URL】https://shoboji.net/