柳田国男「神を助けた話」の風景(その4)
日光山の猿丸
京都や芦屋から始まり(神を助けた話の風景その2・参照)、東北地方にまで広がった(神を助けた話の風景その3・参照)猿丸大夫伝説は今回、日光・宇都宮の地で一段落します。こちらの猿丸大夫は歌詠みや弓の名人といった常人のレベルにとどまりません。神となった祖父母を助けて戦いに勝利し、自らも神として認められることに!林羅山「二荒山神伝」などをもとに、その奇想天外な生涯を追っていきましょう。
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949
林羅山「二荒山神伝」について
「朝日長者の筋を引く猿丸大夫の話が、悉(ことごと)く下野二荒山の信仰に基いたものであることは、先疑が無いやうである。然しながら彼御山の縁起とても、必ずしも夙(はや)くから確定したものがあって、其から岐れて出たとも思はれぬ点がある。通例多くの書物に引いてあるのは、林道春の二荒山神伝である。」
下には江戸時代の儒学者・林羅山(出家して道春)の絵を引用いたしました。ウィキペディア・林羅山では羅山の業績の一つを以下のように記しています。
「徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった」
出典:不詳 unknown, Public domain, via Wikimedia Commons、儒学者林羅山像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Razan_Hayashi.jpg
「これは今から三百何年前の、元和三年に書いたもので、当時日光の社に伝へて居たものを、只漢文に訳した迄と見えるが、是より僅三年前の、慶長十九年の写とある假名(かな)縁起、即越後實川村の旧家に伝へて居るものなどは此と半分しか似て居らず、小野猿丸が都の有宇中将の孫に当り、馬頭中納言を父として生れ、弓箭の達人であったこと、奥州篤借(あつかし)山の狩の庭から、祖母の朝日権現に誘はれて日光に赴き、神戦に加勢して赤城山の百足を射たことだけは同じであるが、此は下の巻で上中の二巻に、神の昔の戀語、それから離合の悲と喜を経て、終に霊山の神に祀られる迄、永々と仏法の因縁を説いて居る。」
以下には厚樫山の平安時代末期の防塁「阿津賀志山防塁」付近のストリートビューを引用いたしました。福島県国見町の低山(標高289.4m)ですが福島と宮城の県境近くにあり、戦略上重要な場所だったようです。鎌倉時代の初期にはこちらで源頼朝軍と奥州藤原軍との激しい合戦が行われました。ここでは、こちらのような広大なスペースで獲物を狙う猿丸大夫の姿を想像してみましょう。
なお、「神の昔の戀語、それから離合の悲と喜」とは以下に引用させていただいた「日光山縁起」などを指していると思われます。
【妻離川】
中将と姫君は仲良く暮し、六年が経った。一方都では有宇中将が突然姿を消したので、中将の両親の嘆きはひとかたではなかった。そのころ中将も夢に母親が出て、「おまえのことを思うあまりに私は死んでしまった」というので都が恋しくなり、ひとまず都へ帰る事となった。姫君は自分も連れて行ってほしいと中将に頼んだが、「今回はつれては行けない」という。姫君は中将に、「途中で妻離(つまさか)川という川があるが、その川の水を飲むと夫は二度と妻には会えないといわれているので絶対に飲まないでください」と言った。中将は来たときと同じように、鷹の雲上と犬の阿久多丸を連れ、青鹿毛に乗り長者の館を出て都へ向った。中将が青鹿毛に乗って道を行くと、妻離川に至った。だが川を目の前にして中将は喉の渇きに抗えず、ついに川の水を飲んでしまう。ところが具合が悪くなり、中将は川の側の野辺に五日も病み臥せる。
それから中将はなんとか容態を持ち直したが、「自分の命はもうながくはないと思われる。心静かになれるところに私を連れて行け」と青鹿毛に命じたので、青鹿毛は二荒山の山中に中将を連れて行った。中将はそこで母と姫君に宛てて文を書き、青鹿毛を都に、雲上を姫君のもとにとそれぞれ文を届けに行かせた。
一方姫君は中将のことが気になりついに館を出て、妻離川に至ると、雲上が現れ文を落とした。姫君はそれを見て返事を書き、それを雲上に持たせて中将のところへ行かせた。
【阿武隈川】
そのころ都では、中将の母は亡くなっていた。そこに中将の乗っていた青鹿毛が、母宛の文を付けて現れる。中将の父である大将がその文を見ると、この世の暇を述べた和歌なのでその嘆きはたとえようもない。
有宇中将には有成の少将という弟がいたが、中将を探すために父大将に暇乞いをし、青鹿毛に乗りその歩みに任せると、はたして中将のところに行き着いたが、すでに中将は亡くなっていた。かたわらには姫君の返事もある。少将はこの有様を見て嘆き悲しんだが、姫君の文を見てこの女の行方を尋ねようとまた道を行くと、妻離川で姫君に出会った。少将は自分が中将の弟であることを話し、せめて亡くなった中将の遺体を見せたいと姫君を馬に乗せて連れて行った。これにより妻離川を、「あふ(会ふ)くま川」(阿武隈川)と呼ぶようにはなったのである。
出典:ウィキペディア・日光山縁起
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7
以下には県道125号線附近の阿武隈川のストリートビューを引用いたしました。こちらのどこかで中将が水を飲んで体調を崩してしまう場面や、少将(中将の弟)が中将を追ってきた姫君に出会うシーンをイメージしてみましょう。
「素(もと)より一箇の読物の類で、其文飾は文人の所為であらうが、其以前口々の語伝に、地方に由って既に多少の変化が、生じて居たことは察せられる。」
二荒の神を助けた猿丸大夫
「羅山先生の漢文の縁起は、之を右の東蒲原のと比べて見て、或点は全く略し他の点は大いに詳しい。切捨は先生の仏法嫌ひの為とも云はれるが、余分を添へられたとは思へぬから、即別の伝に據(よ)られた証拠である。此方に従って大体の話をすると、昔有宇中将、狩に耽って聖旨に逆ひ左遷せられ、只一人青馬に騎り鷹と狗とを携へ、潜に奥州に下り、長者朝日の女を妻とし、六年にして子を儲け、其名を馬王と謂ふ。馬王成長して其侍女に一子を生ませた。容貌至って見苦しく、猿に似て居た故に猿麻呂と名けた。陸奥小野に住むに因って小野猿麻呂と謂ふ。親々は死して後皆二荒の神となった。此山中に湖がある。二荒の神、上野国赤城の神と湖水を争ひ、此方では下野国だと云ふに、彼方では上野だと云ひ、戦に為って勝つことが能なかった。」
二荒の神と赤城と神が土地争いをしていた「湖水」とは以下に引用した「中禅寺湖」のことと思われます。
出典:写真AC、中禅寺湖と男体山
https://www.photo-ac.com/main/detail/2412892&title=%E4%B8%AD%E7%A6%85%E5%AF%BA%E6%B9%96%E3%81%A8%E7%94%B7%E4%BD%93%E5%B1%B1
「其時鹿島の神の曰ふには、猿麻呂は御孫であって弓の名手である。喚んで来て助成をさせられたら宜しからうとの事であった。そこで二荒様は御姿を鹿に変へたまひ、猿麻呂の狩をして居た熱借(あつかし)山に往って、わざと逐(お)はれて次第に彼を我山に誘ひ、忽ち形を隠された。猿麻呂二荒山に入って鹿を尋ねる所に、一人の女神立現はれたまひ、汝知らずや、我は此山の主なり我為には汝は孫である。爰(ここ)へ汝を誘ったのは、我寇(わがかたき)を討たせん爲である。我寇は赤城神、蜈蚣(むかで)の形を現して攻来る。我は蟒蛇(うわばみ)の姿を爲して戰ふべし。若汝の助に由って克つならば、此山は汝に與へて狩場と為さしめんと告げたまふ。猿麻呂は乃之を諾し、次の日往きて視るに、湖水の西に沼あって草木茂る。幾百千とも知らぬ蜈蚣(むかで)、西の方より攻寄せ、大小数多の蛇、之を防ぐと雖(いえども)防ぎ兼たる有樣であった。」
下には争いの場となった日光・戦場ヶ原の写真を引用いたしました。こちらで鬨の声が上がっているところを想像してみます。
出典:写真AC、戦場ヶ原
https://www.photo-ac.com/main/detail/29925952&title=%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%83%B6%E5%8E%9F
「其中にすぐれて大いなる蜈蚣の、左右に角の生えたのが、大蛇と接戰するを見て、之こそ赤城と矢を射て其左の目に中てると、忽疵を負うて遁奔った。猿麻呂は之を追掛け、山を踰え利根川の岸に到つて引返す。此時の戰場に、血が流れて水が赤くなつた故に、今も地名を赤沼と謂ひ、山を赤木山、麓の溫泉を赤比會湯と呼ぶのも亦同じ理由からで、敵を討った場所なるが故に、字都宮と云ふ名は出來たのである。」
以下には戦場ヶ原「赤沼川」の写真を引用いたしました。こちらの水が赤いのは鉄分を多く含んでいるからとのこと。戦いによる血で染まったような色をしています。
出典:写真AC、戦場ヶ原の赤沼川
https://www.photo-ac.com/main/detail/30358043&title=%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%B5%A4%E6%B2%BC%E5%B7%9D
「更に神樣は猿麻呂に仰せられた。今より此山は汝に賜はる。山の麓に來て住むべし。我子の太郞神出でたまはんときは、汝まさに其申口(もうしくち)と爲るべしと仰せられた。太郞神は此緣起には無いが、疑なく馬王即馬頭中納言のことである。其申口と爲ると云ふのが此話の中の最重要な点である。猿麻呂は之を聞いて大に悅び、湖水の畔に於て歌ひ且舞った。因つて其所を今も歌の濱と謂ふ。」
「歌の濱」の地名は現在も中禅寺湖畔に「歌ヶ浜」として残っています。以下には歌ヶ浜駐車場付近のストリートビューを引用いたしました。
なお、「湖水の畔に於て歌ひ且舞った」とあるように
日光の猿丸大夫は弓を射るだけでなく、歌や舞を楽しむ風流な面も持ちあわせていたようです。
以下には昭和初期の中禅寺湖の写真を引用いたしました。こちらのような美しい風景の中、猿丸大夫が舞っているところをイメージしてみましょう。
出典:東照宮社務所 編『日光東照宮写真帖』,東照宮社務所,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688638 (参照 2025-09-03、一部抜粋)、中宮祠湖
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688638/1/123
「或時は又麓より山の嶺を見て居ると、紫の雲立ち雲の中より一羽の鶴舞下り、鶴の左右の羽の上には、神有つて形を現したまふ。其鶴地に降って、美しい女人の形となり、我は二荒山の女神、羽の上の神は太郞大神、汝も亦小野神と爲るべしと、告げられたこともあった。斯して猿麻呂は、斯して猿麻呂は、後に今の德次良に往き、其から更に字都宮には遷ったのである。山中には三本の杉の大木があった。二荒山の三所神、杉の梢に降りたまふ。三所神とは第一に男体本宮、是即男神である。第二には瀧尾女体中宮即朝日姫の神である。第三には新宮太郞明神、即馬王の御事である。而して字都宮は即猿麻呂である云々。以上が羅山文集の、二荒山神傳の本文を爲して居るのである。」
下には「宇都宮二荒山神社」の拝殿の写真を引用いたしました。こちらには「日光三所神」が主祭神として祀られたこともあり(現在は豊城入彦命)、かつては「猿丸社」とも呼ばれていたとのことです(ウィキペディア・猿丸大夫)。
出典:Sergiy Galyonkin, CC BY-SA 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0, via Wikimedia Commons、宇都宮二荒山神社
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Utsunomiya_Futaarayama_Shrine_-_Jul_11,_2023.jpg
「狩川村の長者の系統では無かったやうで、此の祭神が猿田彦大神である点から、さらに加賀其他の猿丸宮と、類似のものらしく思はしめる。」
旅行などの情報
中禅寺湖
日光山と赤城山の争いの原因となったと伝わる湖で、紅葉の名所「いろは坂」を登った奥日光の入り口に位置します。海抜1269ⅿのため日光市街地よりも気温が低く、古くから避暑地としてにぎわいました。猿丸大夫伝説の残る「歌ヶ浜」などの駐車場を利用して立木観音などを巡ったり、遊覧船で湖からの景色を楽しんだりと多彩な観光方法があります。
他にも周辺には上に引用させていただいたような絶景スポット「華厳滝」や「日光二荒山神社中宮祠」、「戦場ヶ原」などの観光地もあるので、時間をかけてゆっくりと過ごされてみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】栃木県日光市中宮祠
【アクセス】JR日光駅や東武日光駅からバスで約50分、「中禅寺温泉」バス停で下車
【参考URL】https://www.nikko-kankou.org/spot/12