柳田国男「神を助けた話」の風景(その5)
宇都宮の小野氏
猿丸大夫は神のお告げを受けて宇都宮に遷りました(神を助けた話の風景その4・参照)。しかし、その子孫の繁栄は長くは続きません。子孫の小野氏は日光で神主を務めますが江戸時代に没落します。また、平安末期、宇都宮にいた末孫は領主に二荒権現のお告げを報告しますが信じてもらえませんでした。それでは日光・宇都宮の二荒山神社の盛衰を含めて風景を追っていきましょう。
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949
日光と宇都宮の二荒山神社の関係
「この縁起の終の所に、山中の三本杉とあるのは、多分は字都宮に在った神木のことで此に日光三山の山の御神が、降臨して祀を享けられたことを云ふのであらう。今日の開け方を見ては、宇都宮又は徳次良を以て、二荒の麓とは言難いやうであるが、上代には今の宇都宮に在る国幣大社が二荒山の本社であったらしい(一)
(一)延喜式の神名帳には、二荒山神社は河内郡に在って、上都賀郡の方には無い。其二荒神社の神惜の事が国史に見えて居るのは、承和三年からである。」
「宇都宮二荒山神社」の二荒山については公式サイトによると以下のような由緒があります。
昔は小寺峰(現在社殿のある臼ヶ峰の南方・馬場町交番付近)と臼ヶ峰の二峰を持った小高い荒山でした。山姿からして瓢型の墳墓であったと言う学者もいます。
出典:宇都宮二荒山神社公式サイト、由緒・歴史
http://futaarayamajinja.jp/yuisyo/
このように宇都宮の「二荒山」とは「日光男体山」のことではなく小寺峰と臼ヶ峰の二峰とのことです。
本文によると二荒山信仰は宇都宮が最初で、その後日光方面に信仰が広がっていったということです。なお、延喜式が完成したのは延長5年(西暦927年)、承和三年は西暦836年になります。
また、神々が降り立ったという「三本杉」の例として、以下に日光・滝尾神社の三本杉の写真を引用いたしました。こちらも日光二荒山神社の別宮の一つで女峰山の女神(猿丸大夫の祖母・朝日姫)が降臨したとも伝えられています。(現在の)こちらの祭神は弘法大師がこちらで修行した際に現れた「田心姫命(たごりひめのみこと)」です。
出典:写真AC、栃木県 日光 瀧尾神社 三本杉
https://www.photo-ac.com/main/detail/32437727&title=%E5%86%99%E7%9C%9F%E7%B4%A0%E6%9D%90%EF%BC%9A%E6%A0%83%E6%9C%A8%E7%9C%8C+%E6%97%A5%E5%85%89+%E7%80%A7%E5%B0%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE+%E4%B8%89%E6%9C%AC%E6%9D%89
「其が鎌倉時代に至っては、宇都宮は二荒権現の別宮なりと云ふことに為って居る(二)
(二)建保七年に出來たと云ふ続古事談など。
別宮と云ふからには、本宮より次と見られたのである。つまりは此間に、山宮の方に別の神職が出来て、何処も同じ勢力争いひをしたものであらう。是は高山の信仰にはよく有ることで、其最名高いのは白山であるが、日光でも之と同樣に、恐くは社僧と神主との衝突が元で、末には大抵神主の方が孤立して負ける。そこで教や祭の式が別々に為り、例へば日光は精進で祭をしたに反して、宇都宮の二荒神社では魚鳥鹿の類を供物とし、奥では法楽と称して神前に経を読むのに、字都宮へは僧徒も入れなかったのは勿論のこと(三)
(三)此れも羅山先生の二荒山神伝にある。
甚しきは宇都宮の神樣は黒髪山の神と御仲が悪いなどと言ひ、赤城様の方はそっち退けにして置いて九月十五日の祭礼に、此山に向って弓を射るのだとさへ伝へられた(四)
(四)類聚名物考巻十二」
黒髪山とは二荒山男体山の別称です。以下には日光二荒山神社で続く「武射祭」の動画を引用させていただきました。こちらは赤城山に向かって矢を射る祭りとのことです。宇都宮二荒山神社で行われていた(?)「武射祭」もこちらのようなお祭りであったかもしれません(赤城山ではなく日光に向けて射られていたようですが・・・)。
「そこで私等の思ふには、奥州出羽まで弘まって居る小野猿丸の話が、若この仲の悪い山と里との二つの社に、共通に存して居たとすれば、先は此話が喧嘩の時代より古いこと、即ち鎌倉よりも前から、多少の変化はあるにしても、世に行はれて居たことを証明すると思ふ。関東は武家の国だけに、社家も社僧も巫も山伏も、昔から善く鬪った。」
小野(猿丸)家の没落
「二荒信仰の歷史の陰には、まだ幾組かの隠れたる敗者がある。其一つは、小野と呼ばれた猿麻呂の家である。日光の小野氏は通称を源大夫と謂ひ、猿丸大夫の子孫だと云はれて居た(五)
(五)東遊行嚢抄
本宮の神主で中禅寺三所権現の社務を兼ねて居た。馬返から四五町奥の右手に見える絕壁の山に、雷神穴又は羅刹窟と称する岩屋があって、毎年春秋の両度、此家の役として此へ出張し、弘法大師秘伝の風鎮めの法を行った事が、家の旧記に有ったと云ふが、今から二百四十年ほど前の天和年中に、子細あって其家は断絶した(六)
(六)日光山誌に引いた旧記に依る」
「雷神穴又は羅刹窟」は馬返し付近の「屏風岩」にある風穴の名称です。以下には明智平展望台から撮影した「屏風岩」の写真を引用いたしました。
出典:写真AC、栃木県日光市明智平展望台から見える屏風岩
https://www.photo-ac.com/main/detail/33205837&title=%E6%A0%83%E6%9C%A8%E7%9C%8C%E6%97%A5%E5%85%89%E5%B8%82%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%B9%B3%E5%B1%95%E6%9C%9B%E5%8F%B0%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E5%B2%A9
「又日光山堂社建立旧記には、此社の神職の名を列記して居るが、大森中丸加藤金子等、悉く大中臣清眞の後裔とし、其清眞を以て神主の元祖とするに反して、獨本宮神主小野源大夫の一戸のみは先祖委細を知らずと注記し、明に圧迫の跡を留めて居る。現在では勿論いくら搜しても、此家の末路は判ることではあるまい。」
「又日光山堂社建立旧記」の内容は下に引用した姓氏家系大辞典にも記されています。
2 日光社家
出典:太田亮 著『姓氏家系大辞典』第5巻,国民社,昭和17-19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1123956 (参照 2025-09-04)
日光山堂社建立旧記に「貞観三年に詔ありて、二荒此神主に大中臣清眞を以てす、是れ神主の元親也。今新宮神主大森新大夫(大中臣清眞の嫡孫)、社人中丸宮大夫(清真の三男眞氏の末孫也。又滝尾社の祝部職を兼ぬ)、同加藤神主大夫(清眞の末孫)、瀨尾神主大森禰宜大夫(清眞の二男眞宗の末孫)、同金子頭大夫(清眞の末係)、本宮神主小野源大夫(先祖の委細、之を知らず)、宮仕三十人(内十人センドウ方と云ふ)、神人三百人.八乙女八人、三社に相分れ、諸祭に奉仕す。天正十八歳、太閣秀吉公・當山社領を召上げられ、段々減じて、宮仕十人、神人五十人、元和三年迄不足にて、諸祭に奉仕、其後は今の如し」と。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1123956/1/328
日光市の公式サイトなどによると、「日光山堂社建立記」の成立は1691年(元禄4年)とのこと。輪王寺守澄法親王の命により龍光院天祐が執筆しました。「子細あって其家は断絶」とありますが、名家・小野家は天和年間(1681~1684年)に起きた何らかのいざこざに巻き込まれたということでしょうか。
宇都宮二荒山神社の旧記
「字都宮の方でも現今の緣起は、中世叙任せられた中里一派の神官の手に成って居り、わざとかと思はれるやうに古い事が書いて無い。而も其少し前に、前の縁起に由って作った人見ト幽の詩には、宇都宮の御神体は日光と同じく、示現太郎宮と申し、美しい童子の御姿で、俗界の御名は有字某とあって、是亦神孫の神に仕へた猿丸物語の片端を伝へて居る(七)
(七)地名辞書、二荒山神社の条に出て居る。」
以下には文献(七)の一部を抜粋いたしました。
人見氏の、示現太郞(日光緣起に小野猿麻呂と云ひ、奇瑞記には温左郎麻呂と訛り、行実もいたく違へり(後略)
出典:吉田東伍 著『大日本地名辞書 下巻 二版』,冨山房,1907/10/17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2937059 (参照 2025-09-04)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2937059/1/185
「示現太郞は又慈現太郞大明神とも書いて、或は二現即フタアラだらうとの説もあるが、自分共は文字の通り、人間界に現はれて神徳を示された御子神である故に、示現太郞と申すものと解して居る。更に宇都宮代々奇瑞記と云ふ旧記を見ると、後の絵巻に美しく描いてある若宮の、やっぱり猿丸殿であったことが略判る。其説に依れば、此神社の神威大いに加はったのは、将門征討の折に、田原藤太秀郷の祈願を聞し召され、夢に宝剣を賜はって、朝敵を治罰せしめられてより後であるが、根元は神護景雲の元年に、日光山に顕現したまひしに起り、次で承和五年の午歲に、温左郞麻呂(をんのさらうまろ)と云ふ人大明神を懐き奉って、河内郡小寺峰に移し奉り、之を補陀洛大明神と號す、是宇都宮の始とある(八)
(八)群書類従卷二十四採録。又此条は神社覈録巻卅二にも載せてある。」
「神護景雲の元年」は西暦767年(奈良時代)、承和5年は西暦838年(平安時代)です。文献(七)の引用のように「温左郎麻呂(をんのさらうまろ)」は「小野猿丸」が訛った表現という説もあります。
また、二荒山神社は神護景雲元年に勝道上人が男体山の神を祭る祠(現・本宮神社、日光二荒山神社別宮)を建てたのが始まりといわれています。以下には本宮神社の近くに建つ勝道上人像の写真を引用いたしました。
出典:Fk at Japanese Wikipedia, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、勝道上人像 (栃木県日光市)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japan-_Nikko_Statue_of_Sh%C5%8Dd%C5%8D_Sh%C5%8Dnin_2008.jpg
「又後世の俗説であるが、頼朝の兵を挙げるより三年前の治承二年に、宇都宮朝綱の領分に、温橿山(あつかしやま)式部次郎公知とて、猿丸大夫の末孫あり。二荒権現の夢の御告あって、白旗一流を持ちて伊豆国へ下り、之を頼朝に送れとの仰せを蒙り、其証拠も正しければ此事を主家の宇都宮氏に語る所、巫説さのみは用ゐ難しと、之に耳を借さなかったとも云ふのである(九)
(九)鎌倉實記卷四。此本は偽作であるが、作り事にも種はあったと思はれる。」
出典:宇都宮二荒山神社々務所 編『下野国一の宮国幣中社二荒山神社略記』,宇都宮二荒山神社々務所,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1255279 (参照 2025-09-04、一部抜粋)、鳥居及び神門廻廊
https://dl.ndl.go.jp/pid/1255279/1/7
結局、温橿山式部次郎公知の提案は受け入れられませんでしたが、源頼朝は奥州平泉に出陣の際、宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行いました。そして祈願が成就すると、頼朝は神社に対して荘園を寄進し、捕虜となった奥州藤原の一族を神職として差し出したとのことです。上には昭和初期に撮影された宇都宮二荒山神社の写真を引用いたしました。
旅行などの情報
宇都宮二荒山神社
日光二荒山神社とともに栃木県の「一の宮」の社格をもつ神社です。御祭神・豊城入彦命は第十代崇神天皇の第一皇子で、源頼朝や徳川家康などの多くの武将から戦いの神として崇敬されてきました。上の写真のように大鳥居を入ると長い石段が続きます。自然豊かな丘陵地にあり、春は桜、夏の新緑、秋の紅葉といった季節ごとの景色が楽しめるのもこちらの魅力です。
なお、近年では宇都宮の定番グルメ・餃子を模した「しあわせ餃子おみくじ」も話題になっています。こちらのおみくじには吉凶以外にも縁起物の小さな餃子(水餃子や焼き餃子、海老餃子など)が入っているのが特徴。餃子の種類によって「金運上昇」や「厄除健康」などのお守りにできるというユニークな趣向です。
基本情報
【住所】栃木県宇都宮市馬場通り1丁目1−1
【アクセス】東武宇都宮駅から徒歩約15分
【参考URL】http://futaarayamajinja.jp/