柳田国男「神を助けた話」の風景(山立由来記)
山立由来記
「山立」とは狩人や猟師のことで、その由来を記した秘伝書「山立由来記」は場所に関係なく狩猟ができる免状のようなものでした。今回、主役となるのは狩の達人でマタギの祖ともされる「磐次磐三郎(神を助けた話の風景・磐次磐三郎・参照)」という人物です。「山立由来記」は「猿丸大夫」の話と重複するところもありますが(神を助けた話の風景・日光山の猿丸・参照)、伝わる過程で多種多様なストーリーになっていきました。
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949
山立由来記の大筋
「話が少し面倒に為ったら、転じて新方面の神を助けた話をしやうと思ふ。東日本に於ては、山神の信仰が今も相応に盛であるが、何処で尋ねても其神は、国学院の人の云ふやうな大山祇命ではない。中にも奥羽の各県では、樹の神としてよりも、狩の神として多く之を祭ったが故に、磐次磐三郎のやうな民間の話が弘がって居る。」
以下には多くの山神社(山神神社)の主祭神となっている大山祇命の図を引用いたしました。大山祇命は狩の神のほか鉱山の神としても祀られています(ウィキペディア・オオヤマツミ)。
出典:玉蘭斎貞秀 筆『神佛図會 5巻』[1],[江戸後期] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2554007 (参照 2025-09-08、一部抜粋)、大山祇尊
https://dl.ndl.go.jp/pid/2554007/1/14
「次に載せるのは唯其一例で、陸中の山村に近い頃まで行はれて居たものである(一)
(一)「座敷ワラシ」の編者佐々木君の採集せられた旧記。陸中上閉伊郡宮守村字塚澤の、阿部市吉と云ふ人の家に伝はったものである。同種の巻は此外にも各処に有ったらしい。羽後北秋田郡荒瀨村の熊膽売某も、自分の本家に其様な本があるやうに話したと、佐々木君は報ぜられた。
清和天皇の御代に、関東下野国日光山の麓に、萬三郎と云ふ人があった。」
下には清和天皇の肖像画を引用いたしました。858年から876年まで在位した第56代天皇で、源頼朝につながる清和源氏の祖としても知られています。
出典:日本語: 良恭(清和院住持)English: Ryōkyō, Public domain, via Wikimedia Commons、
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emperor_Seiwa.jpg
「弘名天皇と云ふ方の九十三代の末で、下野国に流され、日光の麓には住んで居たのである。無類の弓の上手であって、空飛ぶ鳥は声を聞いただけで、必之を射落した。山に鹿猿を猟して、月日を送って居た。」
以降の内容は猿丸大夫(猿麻呂)が二荒の神を助けた話と似たお話になっています(神を助けた話の風景・日光山の猿丸・参照)。
「其頃日光の権現は、上野国赤木の明神と、度々合戦を為されたが、赤木は御丈十丈に餘る大蜈蚣(おおむかで)の姿を現したまふ為に、権現は幾度か御負けなされた。或時権現白い鹿に化って、山に御出なさるる。萬三郎此鹿を射取らんとして押掛かれども、不思議に箭中らず。三日三晩の間之を追掛けて、遂に日光権現の堂の庭まで来ると、其鹿忽権現と顕はれたまひ、如何にこれ萬三郎、汝を爰(ここ)まで誘って来たのは別の仔細では無い。上野の赤木大明神と、数度の合戦に及ぶと雖、赤木は長さ十丈餘の蜈蚣也、自分は大蛇である故に、勝つことが六かしい。汝は日本一の弓の上手であれば、汝を頼んで赤木を射留めんと思ふのである。」
下には二荒山神社が最初に祀られたとされる別宮・本宮神社の写真を引用いたしました。こちらで日光権現が萬三郎に加勢を頼んでいるシーンをイメージしてみましょう。
出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、日光二荒山神社 別宮本宮神社 本殿
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Futarasan_Shrine_(Nikko)_Hongu-jinja_honden-1.JPG
「若(もし)戦に勝つならば、日本国中の山々嶽々、其身其儘で山立をさせやう。幸に今月十五日は合戦の日である。其用意をせよと仰せらるる。萬三郎は頭を地に附け、誠に有難い仰せでござる。いかさま仰に随ひ奉るべしと申上げると、乃白木の弓に白羽の神通を添へて、萬三郎に下された。有難しと之を頂戴し、既に其日にも成ったれば、大風震動し雷電頻に鳴りはためいたが、萬三郎は少しも驚く気色無く、其弓に神通の矢を張り、善曳き兵と離せば、明神の目にはたと立つ。二の矢は亦右の御目にはたと立つ。流石の神も両眼を射られ、忽黒雲に隠れて、上野赤木山に引きたまふ。」
以下に引用したのは赤城山との勝負が決まった場所と伝わる「菖蒲ケ浜(しょうぶがはま)」の写真です。両眼に傷を負った赤城神が中禅寺湖から飛び去っていく場面を想像してみましょう。
出典:663highland, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、菖蒲ケ浜から望む中禅寺湖。 所在地は栃木県日光市。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:200730_Shobugahama_Chuzenjiko_Nikko_Tochigi_pref_Japan03s3.jpg
「日光権現は大に喜びたまひ、其より内裏に上って萬三郎が事を物語り、誠に日本の弓の名人と言上したまへば、御門の御感斜ならず、内裏よりの御褒美として、山々嶽々を知行するのみに非ず、日光山の麓に正一位伊佐志大明神と祝はれ、今に御堂も立って居る。此由緒を以て、山立は如何なる山嶽へも、行かぬ処無く御免を得て居る。山立の先祖は三位の流である。萬三郎の先祖、位人に勝れたる故に、産の火と死の火とを忌むのである。山で鹿猿を食ふことは、権現の御免である。今日山神を斎ふことは即萬三郎がことである。山立する人々は、月の十五日に水を浴び精進して、明神経を誦せねばならぬ。又其文句、南無西方無量寿覚仏と、日に千遍づつ唱ふるならば産の火死の火一切の穢と云ふことが無いであらう云々。」
以下には「山立由来記」と同様の巻き物「山立根本之巻」の写真を引用させていただきました。「清和天皇、日光山、赤城明神」などの文字があり、上述の萬三郎の功績が記されていると思われます。猟師たちはこちらを権威ある山立(狩猟)の許可証として所持していました。
出典:©新庄市、新庄デジタルアーカイブ、「山立根本之巻」
https://www.shinjo-archive.jp/2016bm00059/
「此だけが奥州に伝へた山立の由来である。山立は近世の文学に於ては山賊のことであるが(二)其実は歴史を誇り得る高尚な職業であったことが此で分る。併し同時に又、日本中の山々嶽々、何処でも御免だと主張するのは、取りも直さず特定の猟場を有たぬ民であったことを意味して居る(三)
(二)言海に、やまだち、山中に潜みて行劫などする盜人、山城、山豪とある。併し萬葉集二の山多豆は、是今造木者也と云ふ註があり、必しも猟人のみでは無かった。
(三)木地屋と云ふ漂泊部落にも、之に類する由緒書がある。明治になって、之は公認せられなかった。」
山立由来の変容
「奥羽の山にはマタギと謂って、狩を主業として居る特別の村があった。今でも冬に為ると、峰づたひに熊を逐ひながら、信州あたり迄も漂泊して来ると聞いて居る。真の山立は元は此徒の中の人であったらう。」
下には秋田県新庄市が所蔵する大正時代のマタギの写真を引用させていただきました。
出典:©新庄市、新庄デジタルアーカイブ、マタギ装束(大正6年)
https://www.shinjo-archive.jp/2017150066-2/
「右の由来の如きも、口から耳へ伝へた時代が永かったと見えて、話の簡略な割には、毀(こぼ)れたり雑(まざ)ったりした部分がある。其を数へ立てて見ると、山神の祭を十五日にすること、此が里の通例の日と違ふ。里では八日九日十二日などが多い。次には火の穢を淨めるのに、明神経と称して阿弥陀仏を念ずること、是も中頃からの仕来りを、卒然として取附けたものと思ふ。萬三郎を兄の無い人にしたことも亦著しい変動ではあるが、此は或は猿丸大夫の話に橋を架ける必要から、兄が有っては都合が悪いと、感じた結果であるかも知れぬ。日光山の神を一柱とし、男神とも姫神とも明にして無いのは、注意すべき脱落である。」
下には日光輪王寺の公式インスタグラムから日光三所権現本地仏の写真を引用させていただきました。一枚目は母(女体山)の本地仏で、「南無西方無量寿覚仏」とも唱えられた「阿弥陀仏」です。
「権現三所の説は弘法大師以来の事で、つまりは男女太郎の親子三人の御神とし、従って猿丸を孫とせねばならなかったものも、あの三山の地位形状から起った想像である。上野にも利根の上流に子持山の信仰があった。山を崇敬すれば自然と起るべき神話である。其を丸々取落したのは、伊佐志大明神の埋没した古伝はどうあらうとも、何としても日光を見ない人の結構に成るものと認めねばならぬ。」
上の輪王寺公式インスタグラムの写真2枚目には千手観音(男神)・阿弥陀如来(女神)・馬頭観音(太郎)の本地仏の写真が掲載されています。また「あの三山の地位形状」に関連して、下には栃木市西方の思川に掛かる小倉橋からの写真を引用させていただきました。
出典:栃木県教育委員会公式サイト、とちぎふるさと学習、火山の活動による地形、西方町(にしかたまち)から見た日光連山(にっこうれんざん)
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=72&r=413
下にはほぼ同じ場所からのストリートビューも埋め込んでおきます。
「さうすると結局の処、陸中の山立由来記の中で、古い部分又は著しい部分は何であるか。第一には肉食を権現の御許しと云ふ点である。此許しは近世信濃の諏訪ばかりから出たが、宇都宮も同じく宍を贄としたまふ少数の社の一つであれば、狩人此神を信じて穢を免れた事は、根拠のある話である。」
下には昭和初期に撮影された宇都宮二荒山神社・大湯祭の供物(模型)の写真を引用いたしました。詳細は不明ですが、肉類も混じっているのではないでしょうか。
出典:宇都宮二荒山神社々務所 編『下野国一の宮国幣中社二荒山神社略記』,宇都宮二荒山神社々務所,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1255279 (参照 2025-09-10、一部抜粋)、大湯祭(秋山祭)百味供物模型
https://dl.ndl.go.jp/pid/1255279/1/9
「此許しは近世信濃の諏訪ばかりから出たが、而も其は宇都宮の二荒山神のことであって、今の日光には有るまじき事であるから、よほど久しい前から、即ち山と里との二荒が分立せぬ前から弘まって行った信仰だらうと思ふ。第二の点は此からまだする話、即ち神と神との御争ひ、及人が神を助けた話である。」
旅行などの情報
本宮神社
日光二荒山神社は790年に勝道上人がこちらに小さな祠を建てたのが起源とされます。後に現在の新宮に本社が遷され、滝尾神社(別宮)とともに「日光三所権現」として信仰されてきました。杉並木に囲まれた参道を登ると勝道上人ゆかりの笈掛け石(おいかけいし)があります。こちらは「老い(笈)を掛けて」若返るご利益があるとされる名所です。
出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、日光二荒山神社 別宮本宮神社 拝殿
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Futarasan_Shrine_(Nikko)_Hongu-jinja_haiden.JPG
その先には上に引用したような立派な拝殿や江戸時代中期に再建された本殿があります。また、その周りには「開運石」や「開運笹」などパワースポットが満載です。また、勝道上人が開いた日光最初のお寺・四本龍寺の参道ともつながっているのでこちらも併せて拝観してみてください。
基本情報
【住所】栃木県日光市山内
【アクセス】JR日光駅または東武日光駅からバスに乗車、「神橋」バス停から徒歩5分ほど
【参考URL】https://www.nikko-kankou.org/spot/486