柳田国男「神を助けた話」の風景(蛇と蜈蚣)

蛇と蜈蚣

今回は二荒山と赤城山がそれぞれ蛇と蜈蚣(ムカデ)に化けて戦うという荒唐無稽なストーリー(神を助けた話の風景・日光山の猿丸・参照)の起源についてのお話です。そもそも蜈蚣が山神(赤城山)と関連付けられた理由は?また、蛇と蜈蚣とが互いに敵視するようになった要因・起源は?そして、このような神話の元になった可能性のある能登の昔話についても追っていきましょう。

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

蜈蚣(むかで)の話はいつ挿入された?

「日光の猿丸の物語の中で、一番に人の耳を驚かすものは、所謂十丈餘の大百足(おおむかで)である。羅山子の漢文には長さは記さぬが、頭の左右に角が有ったと云ふ。而して至徳元年の縁起が若有ったら、百足の事は恐く無かったであらうと思ふ。」
至徳(1384年~1387年)は日本の南北朝時代にあたり、室町幕府の将軍は足利義満でした。

以下には「日光山縁起」の奥書から「至徳元年」と書かれた部分(左端)を引用いたしました。

出典:会津藩地誌局 編『新編会津風土記』第1−10,万翠堂,明26-34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763340 (参照 2025-09-17、一部抜粋)、日光山縁起上
https://dl.ndl.go.jp/pid/763340/1/164

柳田氏は日光山の猿丸(神を助けた話の風景・日光山の猿丸・参照)の脚注(二)で「日光山縁起」について
「其末に至徳元年の奥書を載せてあるが、是は継合せとしか思はれぬ。それ程古いものでは無い。」と至徳元年の作ではないことを述べていて、それが「至徳元年の縁起が若有ったら」という表現につながっています。

「然らば如何なる機会に於て、斯(かか)る怪物が話の真中へ入って来たか。是興味ある一問題である。此点に付ては、勿論相手の赤城側の伝承をも問合せねばならぬが、上州の人たちも、両山の不和までは認めて居るやうであるが、我神百足の形を現じたまふとは、多分信じ能はぬであらう。但し赤城の縁起と云ふものは、今日存する分には全然二荒との神争ひを録して居らぬ故に(一)何とでも説明が出来るのである。
(一)上毛伝説巻下十。又貞享年間に出来た前橋風土記に引く本も、之と同じである。其以前の記録は埋滅してしまったかと思ふ。」

蜈蚣は神の使い?

「全体此虫は、夙(はや)くより国民に知られて居たが(二)果して山に棲み、山の神の用に供せられると云ふことがあったかどうか。鞍馬の毘沙門天は蜈蚣を使令としたまひ、福の神を信仰する人々、之を大切にする風はあったが、私はまだ其起源を知らぬ。」
以下には国宝に指定されている鞍馬寺の「毘沙門天立像」の写真を引用いたしました。平和を保つために辺りを厳しく見張る姿が印象的です。なお、鞍馬地方では、毘沙門天の使者・蜈蚣を殺生すると祟られるとの言い伝えがありました。

出典:Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition, Public domain, via Wikimedia Commons、毘沙門天立像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kuramadera_Monastery_Bishamon_(308).jpg

「近江の三上山は、里人是を百足山と呼び、もと百足山本明寺と云ふ寺があった。其本尊の馬頭観世音ばかり、今も山中の堂に残り、妙な話ではあるが、之を例の田原藤太秀郷の護持物と云ったさうだ。蜈蚣は今尚山中に多いと、旅の人が聞書をして居る(三)或は又中腹に蜈蚣穴と呼ぶ洞があり、一尺ぐらいのものは、何程も棲むかの如く、噂をした者もあったが、実は誰も見たことは無かったさうである(四)
(二)古事記巻上、蛇室の条に、須佐之男命の頭髪に、呉公多在とあり、続日本紀天応元年四月の宣命にも、百足の譬(たとえ)を挙げてある。
(三)簑笠雨談初篇卷一。
(四)近江与地誌略卷六十六。」

登山情報サイトYAMAPより三上山・鏡山の活動日誌を引用させていただきました。表紙画像や「13/39(拡大写真)」が蜈蚣穴(むかであな)の写真となります。

むかで退治伝説「むかでの穴」 / ayaさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「さうすると矢張我々が知る如く、蚰蜒(ゲジ)の兄ほどなのが、里に近く住むだけであらうか。今少しく動物学の方からは調べて見たいものである。唯一つ人のよく知る古い譬喩話に、山神は一本足で百足は百本で蛇には一本も無い。山神が百足を嘲って、九十九本は徒爾(とじ)だと云ふと、之を聞いて蛇が傍から、己は足無くして能く地を走る、百本一本の争ひも無用の事と言ったとある(五)
(五)沙石集巻五上。山神一本足のことは、『おとら狐の話』に述べてある。」

「何の因縁も無いのかも知らぬが、日光赤城の合戦を説く私に取っては、偶然では有るまいと云ふ感じがする。近世の学者の発見に従へば、蜈蚣蛇を制すと云ひ、又龍蜈蚣を畏るると云ふことは数千年前の支那の書にもあるさうである(六)
(六)俗説辨卷十に詳しく述べて居る。又和漢三才図会にも。」

出典:寺島良安 編纂『倭漢三才圖會』上卷,日本随筆大成刊行會,六合館,1929.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1899462 (参照 2025-09-17、一部抜粋)、蜈蚣
https://dl.ndl.go.jp/pid/1899462/1/346

上には注釈(六)にある「和漢三才図会」という江戸時代の辞書から「蜈蚣」の部分を引用いたしました。
7行目に「南方二有リ大蜈蚣丈餘能啖牛」
とあり、丈(約3ⅿ)以上の大ムカデがいて、牛を食らったとのことです。
また9行目には「蜈蚣一尺以上則能ク飛ブ龍之ヲ畏ル」
とあり、昔から龍(≒蛇)が蜈蚣を警戒していたことも記されています。
「然らば二荒縁起の改造は、此等の本を見た人の知恵かと言ふに、第一に其様な事をする必要が無かった。第二には似た話は遠き昔に、別の地方に於ても亦行はれて居た。模倣又は流行が若有ったとすれば、手本はずっと手近の日本にもあった。而も其から採ったと云ふ証拠も更に無い。其方は懸離れた沖の島の出来事で、荒唐無稽の程度に於ては、却って元和の二荒山神伝を凌ぐものがある。」

蛇・蜈蚣合戦の原型(舳倉島由来記)

「試に出來るだけ簡単に、其話の要処を述べて見やうと思ふ(七)
(七)今昔物語卷廿六。加賀国諍蛇蜈島行人助虵住島語第九。
話は加賀国の海上、猫島の由来記である。其が現在の能登の舳倉島(へぐらじま)のことか否かは確で無い。七人の漁夫共同して沖に釣をする者、俄に風吹いて船大海に出で、遂に大なる島に漂着す。」

下には昭和時代に撮影された舳倉島へ向かう船の写真を引用いたしました。「大なる島に漂着」しようとする漁夫たちの姿をイメージしてみましょう。

出典:不明, Public domain, via Wikimedia Commons、舳倉島へ向かう船。日本文化出版社(1956)『写真で見る日本 7』より、日本文化出版社(1956)『写真で見る日本 7』、47頁。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E8%88%B3%E5%80%89%E3%81%B8%E9%80%9A%E3%81%86%E8%88%B91956.png

「若く上品なる男子近寄来って言ふ。御身たちに頼みたい事が有って、此風は自分が吹かせたのである。隣の島の主屢〻(しばしば)来攻め、此島を奪はうとする。明日は又合戦の日である。どうか助けてくれよと言ふ。釣船には弓矢を常に載せて居た。さて敵の勢はと聞くと、敵も我も誠は人の体に非ず。明日の午の刻には、わざと敵をば陸上に誘ひ上げ、我先戦ってさて愈々(いよいよ)となれば目を見合せる。其時に力を添へよとの頼であった。さても其刻限となれば、海上忽暗くなって草靡き木葉騒ぎ、二つの火沖より来る。よく見れば蜈蚣の十丈餘なるものである。山手よりは同じ長さの蛇、太さは一抱もあるもの、舌を嘗めずって向ひ合ひ、二時ばかりの間食ひ合ったが、蜈蚣は手も多く咋むことも巧で、蛇少しく負色になって此方を見る。」
以下は舳倉島の海岸周辺の写真です。海からやってきた大蜈蚣と写真手前の山から現れた巨大な蛇(若く上品なる男子)が激闘するシーンを想像してみます。

出典:kiwa dokokano, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、Amamachi, Wajima, Ishikawa Prefecture 928-0072, Japan
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Amamachi,_Wajima,_Ishikawa_Prefecture_928-0072,_Japan_-_panoramio_(33).jpg

「えたりと七人の漁夫、一度に有る限の矢を物蔭より射掛け、矢尽きて後大刀を以て蜈蚣を切殺した。蛇は引離れ退き去り、前の若者の姿になって出で来り、傷は負ひながらも嬉しさうな樣子で、共々に蜈蚣の屍を焼棄てた。
さて此礼としては、島には田畠に開く土地も多いから、此へ来て住むがよいとのことである。其は忝(かたじけ)なうござるが、妻子は如何にして呼寄せ申べきかと言へば、島から還るには其風を吹かせやう。彼方から来るときは、加賀の熊田宮は我別所である。其宮を祭るならば、よい風が吹くであらうと云はるる。」
以下に引用したのは舳倉島(奥津比咩神社)の別宮とされる熊田宮(熊田神社)周辺のストリートビューです。

なお、熊田宮の本社は舳倉島にある「奥津比咩神社」ともいわれています。下には「奥津比咩神社」の写真を引用いたしました。

出典:kiwa dokokano, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons、奥津比咩神社
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%A5%A5%E6%B4%A5%E6%AF%94%E5%92%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_-_panoramio.jpg

「乃仰せの通りにして七人七艘の船に、眷属家財を取具し、終に皆此島の人に為り、後には繁昌の土地と為った。一年に一度づつ、人の知らぬ間に熊田に渡って来て、夜中に神の祭をして行く。彼島には地方の船は寄せても、上陸は許さぬ。敦賀へ来る支那の貿易船などは、此島に寄港して食料品を積むだと云ふ話である。熊田宮はもと手取川の川口に近い処に在った。近世の洪水に流されて今は其村が無くなった。」

上には「奥津比咩神社」の大祭「神輿入水神事」の動画を引用させていただきます。舳倉島・奥津比咩神社の女神と能登半島・輪島市の重蔵神社の男神が年に一度、浜辺で逢うという伝説にちなんだ勇壮なお祭りです。

旅行などの情報

重蔵神社

上でご紹介した「奥津比咩神社大祭」は例年8月22日から25日の間に開催される「輪島大祭」の一部です。「輪島大祭」は海士町(奥津比咩神社)と河井町(重蔵神社)、鳳至町(住吉神社)、輪島崎町(輪島前神社)の4地区を中心とした夏祭りの総称で、男神が祀られる重蔵神社(重蔵神社大祭)では御神輿とキリコの御渡りなどで賑わいます。

重蔵神社は平安時代の「延喜式神名帳」にも記載された由緒のある神社で、奈良時代の西暦756年、白山開山の修験僧・泰澄が建立したのが始まりとされます。
重倉神社のご利益としては、男神(大国主命)と女神(奥津比咩命)との御子・鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)がとても早く元気に生まれたことから、生命力をいただけるとのことです。

なお、重蔵神社は2024年1月1日の能登半島地震により被害を受け、現在復興中です。復興状態や参拝時間については上に引用させていただいた公式インスタグラムなどでご確認ください。

基本情報

【住所】石川県輪島市河井町4-69
【アクセス】金沢から車で約1時間40分
【参考URL】https://juzo.or.jp/