柳田国男「神を助けた話」の風景(龍太と龍次)
龍太と龍次
「龍太と龍次」は前回(神を助けた話の風景・田原藤太・参照)、俵藤太が龍宮でもらった宝の一つともいわれます。こちらは普通の宝物と違って、主人が思っただけで用を足してくれる便利な童子でした。大蛇(龍)の子だけに水辺の仕事が得意で治水工事などで藤太の子孫を助けたとのこと。また彼らには鱗などの特殊な身体的な特徴があったとも伝わっています。
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949
宝物の行方
「田原藤太が龍宮から貰って来た十種の宝物も、気を附けて居ると書物毎に一二の差異があり、其全部を挙げたら十種では無くなる。殊に品物の一々の行方の如きは、家自慢の争ひもあって、諸説紛々である。蒲生氏が近江に住み、中比微にして後栄えた為に、自然に秀郷の正統のやうに云ひたがることは、最下野の旧族等の忍ぶ能はざる所であったらしい。雲住寺の縁起は、蒲生家臣満田伝右衛門が書いたと云ふことである。」
蒲生氏が最も栄えたのは戦国時代から安土桃山時代にかけて、織田信長などに仕えた蒲生賢秀・氏郷(会津藩92万石)のころです。下には蒲生氏郷の肖像画を引用いたしました。
出典:Edo-period artist, Public domain, via Wikimedia Commons、紙本著色蒲生氏郷像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gam%C5%8D_Ujisato_(Saik%C5%8Dji_Nishiazu).jpg
「そこで俵以下の三種は、蒲生氏郷の孫で浅野家を嗣いだ人が、相伝したことになって居るが、一説には鐺だけは蒲生中務大輔忠知から、妻の里方の内藤帯刀の家に行き、鎧は佐野の家に在ったのを、後に彼地で社に祭るとある。伊勢の赤堀某は田原又太郎の末で、太刀一種だけは持伝へて居たと云ふ。さうすると竹生島のと二本ある。竹生島には又露の硯と云ふを納めたとも云ふ。龍宮の贈物だけに、水を汲むに及ばぬ調法な品であった。」
出典:Jingu Museum, Public domain, via Wikimedia Commons、三重県伊勢市・伊勢神宮所蔵の毛抜形太刀(重要文化財)の刀身と鞘。平安時代の作。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Blade_and_saya_of_kenuki-gata_tachi_at_Ise_Shrine.jpg
上には伊勢神宮所蔵の「毛抜形太刀」の写真を引用いたしました。俵藤太が龍宮で授かってから各地を転々とし、現在は伊勢神宮徴古館に収蔵されています。下にはその経緯をウィキペディアから引用させていただきました。
伝説によれば藤原秀郷が近江国三上山の蜈蚣を退治する際に琵琶湖中の竜宮より持ち出したとされ、死後、末裔の赤堀家に伝えられたことが宗牧作の東国紀行や塵添壒嚢鈔に記録されており、室町時代まで代々同家に秘蔵されていたとされる[6][4]。その後、同家から山田の深井平大夫家に養嗣子に出された際に持参されて以来同家に伝わったとされる[6][4]。享保年間には、研磨の上、当時の征夷大将軍である徳川吉宗の上覧に供せられている[6][4]。寛政5年12月に足代弘臣の計らいで神宮内宮の荒木田氏と神宮外宮の度会氏の両権禰宜が買い取り、豊宮崎文庫に奉納され、同文庫の管理団体である「籍中」の管理下に置かれることとなった[6][4]。
明治元年(1868年)の同文庫の閉庫に伴い、文庫内の財産は度会府に移管されることとなり、さらに明治3年(1870年)6月に旧籍中に還付されたことから、新たに「文庫衆」という管理団体を結成し当該財産の管理を行っていったが経営に行き詰まり、1910年(明治43年)に宇治山田市の旅館宇仁館経営者西田貞助に当該財産が売却された。当該財産の一部蔵書が売却されていることが発覚したことを決起に、これ以上の財産の散逸を防ぐことを理由に、財団法人神苑会が1910年(明治44年)2月26日に図書・什器を購入し、同年3月6日に神宮に奉納した。奉納された本太刀は、他の什器と同様に神宮徴古館に収蔵され、現在も同館で保存・公開されている
出典:ウィキペディア・毛抜形太刀 (重要文化財工第1354号)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%8A%9C%E5%BD%A2%E5%A4%AA%E5%88%80_(%E9%87%8D%E8%A6%81%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E5%B7%A5%E7%AC%AC1354%E5%8F%B7)
「俵は苗字まで改めさせやうと云ふ肝腎の物だが、多分もう浅野家には無いであらう。或は心無い者が底を叩いてから、取れども尽きぬ米俵が、只の空俵になったと云ふ説もある。使へども尽きなかった巻絹や砂金袋、是も今は行方知れず、凡そ重要な部分は皆紛失である。」
珍しい宝(龍太龍次)
「此中で珍らしいのは、前の縁起にも有る如意童子である。或は心得童子とも名づけ、主人の心中を知り、言付けざるに用をしてくれる。之を十種の宝の中に数へる説と、宝を背負うて附いて来た者とする説とある。何れにしても此者にも子孫が有って、龍次郎と称し、野州の佐野家に仕へて、家の名を宮崎と謂ふとの伝が近江にもあった(一)
(一)此等の事は、主として近江輿地誌略に依る。
又佐野の人に聞くと、心得童子も慈覚の随従者と同様に、龍太龍次の兄弟であった。勢多の龍神の子だと謂って居る。秀郷佐野の唐澤山に城くとき、清水を得んとして厳島大明神の霊夢を蒙り、常陸の猫島から安倍晴明を招き、黒髪山に登って法を修せしめると、結願の夜城中の一地に露夥しく降ること五間四面であつた。」
以下には唐沢山城跡の石垣と俵藤太を祀る唐沢山神社参道の写真を引用いたしました。俵藤太が龍太龍次などを引き連れて、こちらを登って行く様子を想像してみましょう。
出典:写真AC、唐沢山神社 山道02
https://www.photo-ac.com/main/detail/29832286&title=%E5%94%90%E6%B2%A2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E5%B1%B1%E9%81%9302
「乃(すなわち)弟の藤四藤五の二人をして、井を穿らしむること三丈、更に龍神の子の龍太龍次に托して井の底を掘らせ、終に名水の迸(ほとばし)り湧くに至った。但し後裔安蘇大夫家綱の代になって、十種の宝の一つなる庖丁を、侍女が此井戸に取落して紛失してから、田原家と龍宮との因縁は断絶したと云ふことである(二)
(二)郷土研究第四卷第五號、故江森泰吉君報告。常陸の猫島は加賀の猫島に何か関係がありさうだ。」
なお、安倍晴明の修法によって湧き出たとされる井戸(大炊の井)は今でも涸れずに残っているとのことです。以下にはその「大炊の井」の投稿写真を引用させていただきました。
「其から是も近世の説だから、或は故の形と変って居るかも知らぬが、佐野の家来の両人の名は、龍太郎と龍次郎であったとも云ふ。どう云う訳か兄弟とも、五体に鱗が有った。佐野の町の入口に川がある。寒中三月の間、此川の水が地の底を通って流れるのは佐野修理大夫殿、徒涉する人民の苦労を思ひ、龍太郎龍次郎に命令して、此の如き人間業とも思はれぬ水利工事を遣らせたのである。佐野家退転の後も、両人の子孫は他国へも赴かず、紙漉きなどを渡世として、此地に住んで居たと云ふのは(三)相変らず先祖の縁は切れずして、此家の者ばかりは、冷い水をも厭はなかったたことを想像せしめる。修理大夫と云ふのは佐野家最後の主信吉か、又は其先代の小太郎宗綱の事であらう。然らば系図に由って一定せぬが、田原藤太から先づ三十代の末孫で、安蘇大夫からでも二十何代になる。この永い間龍宮の効験は、やっぱり続いて居たと云ふのである。
(三)增訂半日閑話卷六。太田蜀山の隨筆である。」
佐野市飛駒町(ひこまちょう)では江戸時代から和紙づくりが行われてきました。下には飛駒和紙会館での紙漉き体験の写真を引用させていただきました。龍太郎龍次郎の子孫もこちらのような作業をしていたかもしれません。
「処が又一説には、佐野の家臣で代々身に鱗が有ったのは、龍二郎と龍八の両人で、十種の宝の一つ、避来矢の鎧を担いで来た者の子孫である。」
以下には飛んでくる矢が当たらないといわれた「避来矢(ひらいし)の鎧兜」のうち、江戸時代の火災で焼け残った兜を引用させていただきました。
「龍二郎の後は絶え、龍八の末は秋山と云ふ処に住んで居たと伝へ(四)而も其が秀郷の貰って来た十の宝物の中の心得童子、即思へば直に用をしてくれる調法な奉公人で、久しい後に為って強く叱ったら居なくなったと云ふ者と、此では別者のやうに見て居るのである。
(四)寛永の中頃に出来た氏郷記にあるさうだ。私はまだ読まぬが、南方熊楠氏が「太陽」の第二十二巻第一号の龍宮説に引いて居る。」
秋山町は佐野市北部に位置する自然豊かなエリアです。龍八の子孫も「龍太郎龍次郎」と同じく水辺での作業が得意だったと思われます。上のストリートビューのようなところ(秋山川周辺)に住み、治水作業に従事していたかもしれません。
大蛇の痕跡
「子孫の身の内に何等かの特徴の有ると云ふことは、系図よりも尚確な血統の証拠である。私の友人の鈴木君なども、母方から田原又太郎の後裔である故に歯が大い。」
足利忠綱(田原又太郎)について「吾妻鏡」には以下のような記述があります。
『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。
出典:ウィキペディア・足利忠綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%BF%A0%E7%B6%B1
「文科大学講師の松村武雄氏の家も、一代前までは男女ともに牙のやうな歯があり、其前には背中に鱗の形も有ったと伝へられて居る。大蛇と人間との中に出来た子の末である為だと謂ひ、此家にも三輪の神話、乃至は日向嫗嶽の物語と同じやうな旧伝があった(五)
(五)郷土研究第二卷第一号に、松村氏自身の話が出て居る。」
以下にはYAMAPより日向嫗嶽の穴森神社周辺の活動日記を引用させていただきました。「4/24」が大蛇(嫗嶽大明神)が棲んだとされる洞窟の写真です。
穴森神社と一合目の滝 / ゆみちゃんさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
「松村氏郷里は上州利根郡の布施村、即赤城山の北麓である。現存の赤城神伝では、婦女入水の話ばかりであって、水神に嫁いだ事は些(いささか)も見えぬが、隣の榛名山の湖水の方は、此話が色々の口碑と為ってて永く遺って居る。又沼田の城は同じ赤城の裾野であるが、其城主の沼田万鬼斎入道は、其母蛇体であった故に、腋の下に鱗があったと噂せられた。而も之と同時に、沼田家は緒方三郎の後裔と云ふ説もあったのである(六)
(六)上毛伝説雑記の内、沼田伝説。」
上文に登場する「緒方三郎」とは平安時代末期、九州最強といわれた武士団をまとめた緒方惟栄のことです。平家物語には大蛇と里娘の神婚(緒環説話)によりできた子(アカガリ大太)の五代の孫であると語られています。
「緒方は人も知る如く、日向嫗嶽の大蛇の神裔と称せられ、其家名も亦身体の特徴に由ったものである。大和から夙(はやく)に移住した大神族が、三輪の古伝を土地に当嵌(あては)めて、斯な由緒を主張するやうになったものか。兎に角に全国に亘(わた)って、此は最普通なる民譚の一つである。此が九州から関東に迄及んだとしても、格別の不思議は無い(七)
(七)同(上毛伝説雑記)上巻四。吾妻郡善導寺の第二世圓光上人の母、応永元年四月二十日、榛名に詣で湖水に入って蛇体と為る。『筑紫より来って未だ二十日ならざるに云々』とある。九州から出たと云ふ緒方氏は随分東国にもある。昨年私の往った津久井の寸沢嵐でも、大神田と書いてオガタと謂ふ一族があった。神社に仕へた家らしい。」
圓光(円光)上人の母は木部宮内少輔の正妻でしたが、怨敵に追われて榛名湖で侍女とともに入水したと伝わります。下には榛名湖の写真を引用いたしました。
出典:写真AC、硯岩から榛名富士と湖を眺める
https://www.photo-ac.com/main/detail/26793455&title=%E7%A1%AF%E5%B2%A9%E3%81%8B%E3%82%89%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%81%A8%E6%B9%96%E3%82%92%E7%9C%BA%E3%82%81%E3%82%8B
また、もともと大神族が居住していた三輪山周辺には大物主大神と活玉依姫(いくたまよりひめ)の神婚譚が残っています。活玉依姫のところに通ってくる麗しい若者の正体をつきとめようと、その両親は若者の衣に麻糸をさしておくようにアドバイスします。その行き先は三輪山で、若者は大物主大神でした。
なお、大物主大神は蛇体としても顕現し、三輪山のまわりを七巻き半ほど巻いているともいわれています。以下には大正時代ごろの三輪山の写真を引用いたしました。円錐形の綺麗な形は蛇がとぐろを巻いているようにも見えます。このような大蛇伝説が九州(日向嫗嶽)に伝わり、さらに関東(榛名湖)にまで広がっていったのでしょうか。
出典:田山宗尭, Public domain, via Wikimedia Commons、奈良県 三輪山(磯城郡)、日本写真帖、1912
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NDL-DC_762376_0155_0012crd-Miwayama.jpg
「但し鱗の在り所までは、元来衣類の下でもあるから、強く穿鑿(せんさく)はしなかったのであらう。鷹揚な昔の人の心持には、伝説を変化させるだけの余地があった。阿波の美馬郡穴吹山の中で、宮内と云ふ処の住民には、特殊の家筋があった。彼等は自ら尾形一党と称し、之に属する人々には背中に蛇の尾の形があった(八)
(八)阿州奇事雑話巻三。」
代々の身体的特徴として鱗や蛇の尾の形があるというのは俄かには信じられません。もしかしたら下に引用したようなタトゥーを施していたのかもしれません。
出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、入れ墨をほどこした男性(1880年 – 1890年頃)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hombre_japon%C3%A9s_tatuado_con_serpiente_(1880-1890).jpg
「日向高千穗村の附近の深角と云ふ処では、百姓忠兵衛と云ふ旧家、代々の主人の左の乳の上に、痣のやうに五つ、針を差した痕がある。末子でも家督を継ぐべき者には、必ず此徴が有ると云ふ(九)
(九)延岡旧記に引いた高千穂珍事古老物語。」
先祖は高千穂太郎とあるが、針を差すとある以上は、嫗嶽の大太童のことに相異ない。」
「大太童」とは大蛇と里娘の子・アカガリ大太のことです。
なお、「深角」は宮崎県西臼杵郡日之影町にある集落で、下のストリートビューのような美しい棚田が有名です。ここでは、こちらで農作業の指揮をとる「百姓忠兵衛」の姿をイメージしておきましょう。
「右の外にも、信州の浦野氏の如く、狐の子孫だから乳が四つなどと云ふ例が、まだ集めるなら幾らもある。佐野蒲生等の高祖ほどに、龍宮との因縁が深かったならば、龍太龍次のやうな神怪なる家筋の者が、代々之に仕へて居たと伝へられるのも偶然では無い。唯之と一つに視てしまふことの出来ぬのは、小野猿麻呂又は猿王の事である。神を助けた話は、元何れも同じ源に出でたとしても、何故に狩人の名が猿であったかの一点だけは、今有材料だけでは解説し得るの望が無いのである。」
旅行などの情報
唐沢山神社
一説には俵藤太が築かせたといわれる唐沢山城の本丸跡に創建された神社です。上でも紹介しましたが「龍神の子の龍太龍次」が掘ったという井戸(大炊の井)が残ります。祭神の秀郷公が平将門の乱を鎮めて出世したことにちなみ、勝運や開運にご利益があるとされます。
山内には本丸や南城の石垣が残っているので、戦国時代の様子を想像しながらハイキングをしてみてはいかがでしょうか。ほかにも、夏には佐野市の伝統工芸「天明鋳物」で作られた風鈴が境内に飾られる「風鈴参道」、秋には上に引用させていただいたような紅葉のライトアップなど季節のイベントも見逃せません。
基本情報
【住所】栃木県佐野市富士町1409
【アクセス】東北自動車道・佐野ICから約20分
【参考URL】http://karasawayama.com/