柳田国男「神を助けた話」の風景(三井寺の釣鐘)

三井寺の釣鐘

三井寺にある「弁慶鐘」は俵藤太が龍宮から持ち帰り、寺に寄進したと伝わっています(神を助けた話の風景・田原藤太・参照)。ところが「古事談」という古い書物にはこちらの話と類似した物語が記されているとのこと!主人公は近江国の「粟津冠者」です。向かったのは瀬田の唐橋ではなく、出雲国でした。海が荒れて粟津冠者が難儀していると、小舟に乗った童子が現れて・・・。

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

弁慶鐘について

「三井寺の記録では、蜈蚣と龍神との戦を、信ずるに足らずと云ひながら、我等に伝ふる所の鐘ばかりは、田原藤太が龍宮から貰って来て、其を寄進したのだと主張し、由来能書まで附添へて居るのは、どうも奇妙な話である(一)
(一)近江輿地誌略卷十一に引いた寺門伝記補録。此次に言ふことも大抵同巻に引いて居る。」
以下には三井寺に伝わる「弁慶鐘」または「弁慶の引き摺り鐘」の写真を引用いたしました。

出典:写真AC、梵鐘
https://www.photo-ac.com/main/detail/29279109&title=%E6%A2%B5%E9%90%98

「併し十種の宝物の中でも、此鐘くらゐ競争者の少い物は無い。輿論(よろん)は悉(ことごと)く此主張を永認して居る。此鐘は最初天竺の祇園精舍に於て、帝釈(たいしゃく)と叨利諸天(とうりてん)とが集まって、仏の御為に鋳たものと謂ふが、其を誰に聞いて知ったかと云へば田原藤太、藤太は龍宮で聞かなければ、他に之を調べる方法が無かった筈だ。然らば何しに龍宮へは往ったかと云ふと、奇怪の説今取らざる也とある。無理な縁起である。但し非凡な鐘には相異ない。寺に来てからも、凶事の前兆には汗を発(か)き、且つ撃てども声を立てず、之に反して寺に吉事のある前には、撞かざるに自鳴ったとある。」
下には「俵藤太秀郷絵巻」より、蜈蚣を倒した藤太が褒美をもらう場面を引用いたしました。大きな鐘がひときわ目立って描かれています。

出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-25、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/17

「不幸にして今では毀れて居て、鐘楼の名も俗に破鐘堂と呼んで居る。此が破れたに付ても、やはり色々の話がある。文保二年と云ふ年、山徒攻寄せて寺を焼き鐘を奪つて叡山へ引揚げ、撞いて見た所がちっとも鳴らない。多勢の力で大な杵を以て撞くと、何か知らぬが蒲牢(ほろう)の如く吼えたとある。山法師たち之を憎み、無動寺の岩の上から、谷へ転がして落して散々に毀し、其破片を集めて三井寺へ返したのを、小さな蛇出で来って尾を挙げて之を敲(たた)き、一夜にし故の如く、宵暁を報ずるやうになつたと謂ふ。」
下図は無動寺の岩の上から鐘を落とす山法師たちの姿(近江名所図会より)です。

出典:秦石田 ほか『近江名所図会 4巻』[2],河内屋卯助[ほか]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13589307 (参照 2025-09-25、一部抜粋)、
https://dl.ndl.go.jp/pid/13589307/1/16

「大津絵などが教へたものか、鐘を無動寺の上まで揚げたのは、武蔵坊弁慶一人の力だと信ずる子供もある。文保二年では弁慶百七十歲ほどに為り勘定に合はぬが、其文保の焼打と云ふのも、実は無かったやうだからどうでも宜しい。」

江戸時代初期から大津の名物となった民俗絵画・大津絵では地元(延暦寺)に縁のある弁慶が画題として人気だったとのことです。大津絵ではありませんが、以下には歌川国芳筆による「弁慶が勇力戯に三井寺の梵鐘を叡山へ引揚る図」を引用いたしました。

出典:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)、「弁慶が勇力戯に三井寺の梵鐘を叡山へ引揚る図」、歌川国芳筆
https://colbase.nich.go.jp/

「さうして今では又割れて鳴らなく為って居るのである。其割目が年と共に小さく為るのを、昔の如く小蛇が来て嘗めるからと、番人などは旅人に語って居たらしい。」

もうひとつの「弁慶鐘・由来譚」

「兎に角に此鐘は、龍頭の大きな古さうな鐘であつた。何か相応なる言伝あって然るべしと、昔の人情でも同じやうに感じたものか、蜈蚣退治の御褒美とは無関係に、別に一箇の稍(やや)込入つた物語が、京の紳士の間にも行はれた。」
以下には明治時代の「三井寺観音由来記」に描かれた「三井寺霊鐘」の図を引用いたしました。ひびや傷の様子も描かれています。

出典:淡海散史 編『三井寺観音由来記 : 附・三井寺鐘の由来』,中井二酉堂,明34.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819826 (参照 2025-09-25、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/819826/1/2

「七百年前に成った古事談に、昔と書いて『時代分明ならず、尋ね記すべし』と、割注した位の大昔に、近江の粟津に粟津冠者と云ふ武勇の者があった。一堂を建立して鐘を鋳さしめんと思ひ、鉄を求めて出雲国に下った渡海の間忽(たちまち)大風波を起し、船中難儀の折柄、童子一人小舟の梶を取って現はれ来り、粟津冠者に此へ乗移れ、然らざれば船ながら海に沈むべしと言ふにより、止むを得ず其小舟に乘ると、風波は乃鎮まった。親船は元の処に待たせて、小舟は潮の底に入ると思へば、やがて龍宮城の前であった。」
以下には「俵藤太秀郷絵巻」に描かれた龍宮の図を引用しました。「俵藤太」ならぬ「粟津冠者」が門の前にたたずんでいるところをイメージしてみます。

出典:『俵藤太秀郷繪巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349 (参照 2025-09-25、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288349/1/11

「龍王自出逢はれ、年頃讐敵あって従類多く討たれた。今日は身も殆危い。仍(より)て迎へ申したのである。願はくは一矢射てたまはれと言ふ。冠者は之を諾して、楼に昇って敵を待つに、敵は大蛇であって、若干の眷属を引連れて来る。鏑矢を以て正面より其口中を射れば、舌根を射切って喉の下に射出し、更に大蛇の引退く処を、追様に又中程を射畢ぬ。龍王悦喜に堪へず、此御礼は望の随とあるによって鐘鋳の鉄を尋ねに下向したことを告げると、安き願やと龍宮寺の釣鐘を引下させて、即座に之を贈与したとある。誠に注文通のやうな話であった。」

出雲で大蛇といえば「ヤマタノオロチ」が有名です。ここではヤマタノオロチとスサノオノミコトの戦うシーン(月岡芳年書)を引用して、粟津冠者の活躍を想像してみましょう。

出典:Yoshitoshi, Public domain, via Wikimedia Commons、『日本略史 素戔嗚尊』 作者:月岡芳年。明治20年作(1887)。アマテラスオオミカミの弟、スサノオノミコトが高天原から追放されて出雲国、簸の川の上流でヤマタノオロチを退治する場面。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Susanoo-no-Mikoto-slays-Yamata-no-Orochi-in-Izumo-By-Tsukioka-Yoshitoshi.png

「冠者が粟津に建てた仏堂は、廣江寺と謂ふのであったが、時移って漸(ようや)く衰退し、唯一人の法師が、其鐘の主と為って住むばかりであった。然るに或年、奥州の鎭守府将軍清衡、千両の砂金を以て千人の僧に施した時に、或人の考を以て五十口の僧の分を乞集め、五十両の砂金を廣江寺の住僧に与へて、其龍宮の釣鐘を買取り、一夜に園城寺へ持って来て架けた。今ある鐘が即其で、故に三井寺の鐘は龍宮の鐘である。」

出典:毛越寺, Public domain, via Wikimedia Commons、毛越寺 一山白王院 所蔵の「三衡画像」より、藤原清衡
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fujiwara_no_Kiyohira.jpg

上には奥州の鎭守府将軍・藤原清衡の画像を引用いたしました。清衡は奥州藤原氏の初代当主で俵藤太(秀郷)の子孫とされています。中尊寺金色堂などを造営し平泉を中世の大都市に発展させました。

「急いで其夜の中に運び去った仔細は、寺と叡山とは久しく仲が悪く、而も廣江寺は、叡山の末寺であったからである。山法師等は此事を漏聞き、鐘を売った僧を搦捕(からめどり)直に湖水に沈めてしまった。此だけが古事談の伝ふる所である。」
以下には三井寺の写真(大正時代)を引用いたしました。写真右端の鐘楼に掛けられているのは「三井の晩鐘」で有名な二代目梵鐘(桃山時代頃の作品)です。なお、写真には写っていませんが弁慶鐘を掛けた破鐘堂(現・霊鐘堂)は左側の金堂手前にあります。

出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』近畿地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967085 (参照 2025-09-25、一部抜粋)、近江八景三井寺
https://dl.ndl.go.jp/pid/967085/1/15

「清衡以下の半分は、多分事実であらうと思ふ。すると前半分の話は、其頃まで此地方に行はれて居たものと見てよからうか。若(もし)目と鼻の間の勢多橋の潭(ふち)が、龍宮の入口であることを知る者が少しでも有ったら、出雲の海から担いで来るやうな大業な由来記は、必人が大事にせぬやうになったであらう。之と同時に三井寺の有力者が、廣江寺との昔の交涉事件を記憶して居てもよかったならば、根を切って植木をするやうな無理な龍宮鐘縁起を書残して、我々に笑はれるにも及ばなかったであらう。併し市には図書館あり、書斎には活版本ある今の時世の心持で、斯云ふ世間話を運んで居た昔の人の迂濶を笑ふことは出来ない。甚漠然とではあるが、兎に角に四五百年以上の間、園城寺の古鐘が龍宮から出たことを覚えて居た為に、成立の誠に複雑な田原藤太の物語が、容易く湖畔住民の文学に、其根を下して栄えることが出来たものと、まあ私は見て居るのである。」

旅行などの情報

三井寺

「粟津冠者」が龍宮でもらった鐘が残る三井寺は「天台寺門宗」の総本山です。正式名称は「長等山園城寺」ですが天智・天武・持統の三人の天皇が産湯に用いた「三井の霊泉」にちなみ「三井寺」と呼ばれてきました。平安時代、第五代天台座主の智証大師(円珍)が天台別院として中興し、以後、争乱や焼き討ちなどの法難をくぐり抜け現在に至っています。

上で紹介したように三井寺・霊鐘堂の鐘は弁慶が叡山まで引き上げたとされ「弁慶の引摺り鐘」という名前が付けられています。また、こちらのお寺には近江八景の「三井晩鐘」の梵鐘もあり、有料となりますが撞くことが可能です。江戸時代に歌川広重の浮世絵にも描かれた美しい風景と鐘の音のコラボを体感してみてはいかがでしょうか。
また、国宝の金堂や映画「るろうに剣心」のロケ地にもなった三重塔(横橋)など、見どころが満載です。他にも展望台からの琵琶湖・比良の山々の絶景も見逃せません。

基本情報

【住所】滋賀県大津市園城寺町246
【アクセス】京阪石山坂本線・三井寺駅から徒歩約10分
【参考URL】https://miidera1200.jp/