柳田国男「神を助けた話」の風景(13蒲生氏の盛衰)

蒲生氏の盛衰

「神を助けた話」には大別すると三つの舞台があり、今回はその関係について推理しています。琵琶湖を中心とした関西エリアで有名な秀郷伝説ですが、なぜか日光周辺ではあまりなじみがないようです。そこには秀郷伝説を広めようとした蒲生氏の存在と、それを快く思わない二荒山の旧勢力とのせめぎ合いがあったといいます。

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

三か所の伝説の関係・・・オリジナルは粟津冠者伝説か

「さて話は大凡是で済んだ。つまりは加賀と近江と下野の三国に於て、勇士は蛇体の神を助けて、敵の蜈蚣を打退けたことになるのであるが、此中でも加賀のは海上の出来事で、最信じにくいけれども、而も最古い。其次には残りの二つの何れが先か。はた又右左に分れたか。三者各独立か。其を考へて見て、些しく我々が小児で無いことを明かにしやう。」

出典:筆写作成

上の地図は伝説の舞台となった3つの場所を示しています。1(加賀)は粟津冠者が廣江寺の鐘を作る鉄を求めて出雲国に向かう途中、海で蛇退治をした話(神を助けた話・三井寺の釣鐘・参照)、2(近江)は俵藤太が瀬田の唐橋で大蜈蚣を倒したという伝説(神を助けた話・田原藤太・参照)、そして、3(下野)は、阿津賀志山にいた猿丸大夫が、二荒山の神に頼まれて日光の戦場ヶ原で蜈蚣と戦った話です(神を助けた話・日光山の猿丸・参照)。

「所謂秀郷流の系図を検すると、蜈蚣の話には存外基礎の乏しいことを感ずる。例へば蒲生家の旧伝では、大冒険の日附まで明白であるにも拘らず、相手の素性が丸で違ってゐる。本文の通を玆(ここ)へ写して見ると秀郷始江州田原に住す、故に田原藤太と号す。後に俵の字に改む。延喜十八年十月廿一日の夜、龍宮城に至って白蛇を斬る。是既に人力の及ぶ所に非ざる也。之に依って龍神十種の珍宝を秀郷に与ふ。帰り来るの後、当帝叡感甚深くして云々と、他の点は雲住寺の縁起によく似て居て、あれの資料であったことも察せられるが、肝腎の処が却って粟津冠者の方に近い。」

俵藤太ゆかりの「田原」の候補地の一つ・宇治田原には以前も紹介した猿丸神社があります(神を助けた話の風景・猿丸大夫・参照)。周辺の道路は古代から山城(京都)と近江(滋賀)を結ぶ官道「田原道」が整備されていました。上には猿丸神社近くのストリートビューを引用いたします。俵藤太もこちらの周辺を馬で闊歩していたかもしれません。

「次には下野の方で、准宗家であつた小山氏の系図には、単に龍神の請に依り龍敵を射るとある。龍王之を謝して種々の珍宝を賜ふ。当家相伝二巴の紋の旗、其第一なり云々と、宝物の事ばかり気にして居る。是が江戸の初期まで書継いである系図である(一)

(一)此等の系図は、凡て続群書類従巻百五十五以下に載せたものに依った。」
下には「続群書類従」のものと同様と思われる「小山氏系譜」の一部を「続史籍集覧」から引用いたしました。「宝物の事ばかり気にして居る」とあるとおり、初代(藤原)秀郷の部分には「依請龍神・・・二巴ノ紋旗其第一也」と短くまとめられています。

出典:近藤瓶城 編『続史籍集覧』第4冊,近藤出版部,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920258 (参照 2025-09-30、一部抜粋)、小山氏系譜
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920258/1/137

秀郷伝説を広めたのは蒲生氏か?

「小山から分れた結城の家では、やはり同じ頃世に出たものに、延喜十八年云々と書いて、龍神の憑に依り龍宮に入り、白羽の矢を以て百足の白蛇を射殺す、龍神感悦せしめ、十種の珍宝を与ふ。子孫白羽の矢を以て吉例と為す云々とある。どう云ふ訳で当時知れ渡って居た筈の、三上山の蜈蚣を避けやうとしたのであらうか百足の白蛇の如きは余に苦しいやうに思ふ。そこで全くの想像ではあるが、私は三上の山神には、古く蒲生氏の崇信があった為で無いかと思ふ。日野から此山は四五里の西に離れて居るが、多賀宮と西東に、此附近での大社であって、或は三上神をも陀我神と謂った例がある(二)

(二)元享釈書の恵勝の伝。猿神のことも此にある。」
以下には蒲生氏郷が生まれた日野城跡と三上山、多賀大社の位置関係が分かる地図を引用いたしました。

「陀我(だが)」は蒲生氏の氏神でもある「多賀(たが)」神のことを示していると思われます。以下には昭和5年頃に修築された多賀大社本殿の写真を引用いたしました。

出典:官幣大社多賀神社社務所 編『造営竣功記念写真帖』,官幣大社多賀神社社務所,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1688302 (参照 2025-09-30、一部抜粋)、本殿
https://dl.ndl.go.jp/pid/1688302/1/11

「社は後は麓に移ったが、元は頂上に於て祭ったらしい。其跡には名高い石の地蔵があり、里人は之を龍王と称へて居た。而も釈恵勝が登り拝した時には、神は自天竺より渡った猿神と名乗られ、其姿を現されたと伝へて居る。百足山本明寺の馬頭観世音は、之と如何なる関係に在ったか、兎に角中腹に岩窟があって、蜈蚣穴と名げて居たことは、前に申した通である。」

「釈恵勝」は奈良時代の僧で、上の「猿神」の伝説は「日本霊異記(下巻)」の「修行者を妨げたために猿の身になった話」のことと思われます。「猿神」はもともと天竺国の大王でしたが修行僧の従者の数を制限したために猿の姿にされてしまいました。その猿が三上山の山頂付近のお堂で修行をしていた恵勝の前に現れ、お経をよんでもらうことによって猿の身から逃れることができたというお話です。下には登山情報サイトYAMAPより三上山の活動データを引用させていただきました。表紙(=画像「8/9」)は三上山山頂付近にある奥宮の写真です。ここでは、こちらで猿神が恵勝に読経を依頼するシーンをイメージしてみましょう。

三上山! 正月2座目は近江富士(^O^) 御上神社&山頂奥宮へ初詣❣ / ochanさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「秀郷で無くても蒲生の先祖が、若何か此山の神仏と、連想せられる地位に在ったとすれば世間では事も無げに、勢多と三上山とを結合せて、神事の物語を作り上げても、本人の子孫に於ては、之を忍び得ぬ事情があったかも知れぬ。さうすれば結局、下野の方の家々では、之に拠って各自の先祖と宝物とを、輝かさんとしたと云ふことになる。さうで無くても江州で起った事件ならば、地元の記録の方が元だと見て可いやうに思ふ。其から尚注意すべきことは、勢多橋の東南に在る二つの祠を、龍神と秀郷とを祀るものとする説である。雲住寺に於ては一方を龍女と為し、秀郷龍宮滞在の間に、夫婦の約が有ったから祭ったと云ふ。併し他の口碑では、之を橋姫の社であるとも言ふ。其は有得べきことで、他日又話をするが、此橋では殊に昔は橋の神が大に怖れられたのみならず、中世以来勢多橋の修復ある毎に、必此社をも修復し、又毎年六月晦日には、橋本神領の土人等、水無月団子を製して此祠に献じたと云ふ。」
祠に献じられた「水無月団子」とは以下に引用させていただいたようなお団子だったかもしれません。山帰来(さんきらい)・別名「サルトリイバラ」の葉でお餅をくるんだお菓子で、昔から京都北部や琵琶湖周辺で食べられていたとのことです。

「次に秀郷社と云ふのも、古くから在って処の者も誰を祠るのかを知らなかったのを、寛永年中に蒲生中務大輔忠知此地を過る事あって土民を呼び、橋の畔に秀郷公の社が有る筈だ。自分の先祖である。明日は参詣するとのことであったが、どうも其様な社が無い。橋から六七町南手に祠がある。定めて彼祠がさうであらうと急に今の地に之を引移し、忠知更に社を造営した。」
下には大正時代の龍王宮秀郷社(橋守神社)の写真を引用いたしました。こちらが「秀郷公の社」と認識されたのは比較的新しい時代(江戸時代初期)のようです。

出典:滋賀県内務部土木課 編『瀬田橋ノ沿革』,滋賀県内務部土木課,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965509 (参照 2025-09-27、一部抜粋)、橋守神社
https://dl.ndl.go.jp/pid/965509/1/30

「此時以後世人も秀郷社と謂ふことに為り、蒲生家断絶の後にも、四代将軍の命で修造したことがあると云ふ。忠知が此地を通ったと云ふのは、多分寛永四年の事であらう。此年二十三歳の若大名である。蒲生氏郷には孫、秀行の二男で忠郷の弟である。前の年に分家して出羽の上山に封ぜられ、故郷の江州日野に還り、久しからずして本家の兄の卒去と共に、伊予の松山の大なる領地を持つことに為ったので、言はば得意の峠の上で無理にも先祖の田原藤太の、祭がしたかったものと思はれる。」

出典:西園寺源透 著『蒲生忠知公伝』,興聖寺,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1112640 (参照 2025-09-27、一部抜粋)、蒲生忠知公肖像
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112640/1/2

上には忠知公の肖像を引用いたしました。松山城主になった「得意の峠」の頃のお姿でしょうか。
松山城は戦国時代末に加藤嘉明が築城を開始、江戸時代(寛永4年)になって入封した蒲生忠知が完成させます。しかし忠知は30歳で急逝し、嗣子がないため蒲生家は断絶となりました。その後、徳川家康の甥である松平定行が松山城主に任命されました。
現在では下に引用させていただいたように三大名の大名行列が賑やかに行われています。

秀郷伝説は下野には広がらず・・・

「祖父の氏郷が器量人で、四十で死ぬ迄に百万石の殿様には成ったが、其親の賢秀と云ふ人は、数ある田舍の地侍の一人に過ぎなかった。氏郷出世の振出しは伊勢の松阪で、其から直に会津に入部して六年居た。其子の秀行は相続の時幼少であった為、一時野州の字都宮に国替をして居たことがある。十七から十九の歲まで居て、再又会津には戻ったのである。固(もと)より此人が若い癖に昔話が好であったとも思はれぬが、日光山の北裏から南表へ、多くの旧臣が往きつ返りつしたとすれば、例へば忠知が勢多の民を煩はしたやうな事を、何度何十度質朴なる山村の百姓に対してしたか分らぬ。」

宇都宮にいる間、蒲生秀行は蒲生氏の故郷である日野から近江商人を受け入れ、酒造業などの商業を発展させたとのことです。下には近江商人(初代細田善兵衛)の行商姿を引用いたしました。こちらのような姿をした商人たちが、宇都宮や日光にも秀郷伝説を喧伝しようとしますが・・・。

出典:I took a photo of copy, Public domain, via Wikimedia Commons、近江商人、初代細田善兵衛の行商像。天秤棒を肩にかけ、行商をした。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%C5%8Cmi_merchant_1st_Hosoda_Zenbe.png

「さうして居るうちに、先祖の秀郷の偉いことが益々分明になり、家々の宝物の愈々(いよいよ)珍重すべきことを知ったが、独り二荒の山神に至っては、里奥の両所ともに、最早人民の社では無くなって居た。尋ねたら爰(ここ)にも家の昔の武勲を見出し得たのではあるが、宇都宮では重代の社職多くの牢人と共に、猶(なお)四百年間の旧主を慕ひ、日光では荒法師たち、我立杣(そま)と力んで居たので、勢多の勇士らも一実神道の高い築地は破るる由無く、僅(わずか)に十丈余の角のある螟蚣を、そつと赤沼の戦場原に、放して置いて引揚げたかとも思はれる。」

「一実神道」はウィキペディアによると天海僧正が考案した神道のことで、その教えの中心地となったのが日光東照宮でした。庶民の間に広がりをみせた秀郷伝説でしたがこちらの僧たちの話のネタになることは少なかったようです。

徳川家康につかえていた天海は、家康の歿後、山王神道をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主唱した。

出典:ウィキペディア・山王神道、山王一実神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E9%81%93#%E6%A6%82%E8%A6%81

なお、天海僧正は徳川家康の側近として、政治や宗教政策に深く関与した人物です。以下には100歳以上の長寿であったとされる天海僧正の肖像を引用いたしました。

出典:日本語: 木村了琢(自賛)English: Kimura Ryōtaku (Inscription by Tenkai), Public domain, via Wikimedia Commons、天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tenkai.jpg

「林道春の東照宮に忠なることは、殆天海僧正にも劣らなかったが、而も其筆に成る漢文の縁起は、寺の話に基いたやうな形跡があまり無い。察する所会津領の実川村の旧家に、伝へて居たやうな神争の記録が、其多数の一致を以て、本山の古伝を揺かしたものであらう。其には又好都合であったのは、山と山との神戦、社人が神の命を受けて、此戦に与(あず)かったこと、山中に大な湖水が有って、神は蛇体と云ふ信仰のあったこと、殊には密教の僧たちが、土民固有の伝説を、力(つと)めて其曼陀羅の中に包容しやうとした態度が、右の如き折合を容易ならしめたことである。少くとも当時稍(やや)振(ふる)はなかった小野族の神主共は、新地頭が佐藤家と古い親類であったことを、何彼に付けて悦んだであらうと考へる。」

蒲生家と藤原秀郷との関係

「近江の蒲生氏は、代々秀の字を名乗った人が多い。併し勢多から遥か南、山城に境した田原の山に、即猿丸大夫の墓よりもまだ奥に、荘園を控へて居た秀郷が、此家の遠祖であったと云ふのは、必しも確実で無い。然るに蒲生忠三郎の氏郷に至って、始めて郷の字を名にしたのは、恐くは深く田原藤太に私淑した結果で、此前後から今有る系図が著しく明瞭に為ったのであらう。而して氏郷記の世に出たのは、此家が断絶して後の事としても(三)六百何十年を隔てて、秀郷を此程の英雄にしたのは、やはり戦国以前から、多くの家庭に行はれて居た龍宮入りの草子が有った故であらう。
(三)松山の蒲生家の絶えたのは寛永十一年。氏郷記は寛永十年頃に出来たかと、南方氏は言って居る。」
氏郷記には名前の由来について以下のように記されています。

岐阜にて元服ありて、信長彈正忠の忠字を給はり、蒲生忠三郎秀賦(ヤスヒデ)にぞなされける。其後秀吉公の名字を給はり、羽柴飛驒守になさる。然者秀吉憚有とて秀郷の郷の字を取て自氏郷と號せらる。

出典:日野町教育会 [編]『近江日野町志』巻上,滋賀県日野町教育会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208250 (参照 2025-10-01)、氏郷記
https://dl.ndl.go.jp/pid/1208250/1/158

なお、上で「秀郷が、此家の遠祖であったと云ふのは、必しも確実で無い」とあるように、氏郷の祖先で実在が確認できるのは15世紀初期の蒲生秀兼以降ということです(ウィキペディア蒲生氏郷・参照)。

「そこで立戻って陸中の山立由来に就て云ふと、萬三郎兄弟を信ずる人々が、日光山彙を往来する間に、近江文明の影響を受けた此辺の狩人と、話が合ってからの変化で、其話の中の蜈蚣だけは少くとも蒲生の家人等の、本国より齎(もたら)し来ったものと云ふことになり、其蜈蚣を近江の湖水の畔まで連れて来たのは、廣江寺と三上神社の旧伝に通じた、昔の川端龍子君又は芥川龍之介君、即何れも偶然に、龍の字を名乗って居る心得童子の、功績だと云ふことに帰着するのである。」

旅行などの情報

日光東照宮

天海上人が山王一実神道の中心地とした神社です。二代将軍秀忠の命により造られた徳川家康の墓所で、家康を神(東照大権現)として祀っています。仁王門を入ったところにある「神厩舎」は三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の彫刻が見どころ。その先の国宝・陽明門は下に引用したように金と白のコントラストが美しく、中国の故事に由来する聖人や霊獣などの彫刻が見事です。

出典:写真AC、陽明門 日光東照宮
https://www.photo-ac.com/main/detail/5192744?title=%E9%99%BD%E6%98%8E%E9%96%80%E3%80%80%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE

国宝「唐門」を通り抜けるとメインスポットの御本社があるのでこちらで参拝ください。東回廊・潜り門では名工・左甚五郎作の「眠猫」の姿を仰ぐことができます。こちらの門から家康墓所のある奥宮までは207段の階段が続きますので、歩きやすい装備でお出かけになるのがよいでしょう。

基本情報

【住所】栃木県日光市山内2301
【アクセス】JRまたは東武日光駅からバスに乗りかえ、神橋で下車
【参考URL】https://www.toshogu.jp/

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