柳田国男「神を助けた話」の風景(14猿丸と小野氏)

猿丸と小野氏

蒲生氏(神を助けた話・蒲生氏の盛衰・参照)の故郷・日野周辺は木地師の里としても有名です。その昔、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王がこちらで隠棲し、ろくろを用いた製造技術を広めました。その後、日野の木地師の一部は蒲生氏郷の会津転封とともに移住し、技術を伝えます。それと同時に、その700年も前、藤原秀郷(神を助けた話・田原藤太・参照)の下野赴任の際に広まった蜈蚣退治伝説も補強されることに!

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

近江・日野や会津の木地師

「蒲生氏の故郷は近江の檜物荘、後世日野椀日野折敷(をしき)の名産を以て、世に知られた日野である。此川上から愛知犬上の奧山に掛けて、木材工藝の技術の異常に発達した、一団の民が住んで居た。」

下には近江日野商人館が収蔵する日野椀の写真を引用いたします。写真のような漆塗りの外観は美しく、安価で衛生的なのが特徴です。特に江戸時代には、近江日野商人が全国を行商し、ブランド品として有名になりました。

出典:Asturio Cantabrio, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、滋賀県蒲生郡日野町大窪1011番地にある近江日野商人館。日野椀。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hino_Bowl_ac_(1).jpg

「在所の名に因んで苗字を小椋と称し、諸国に分散しては轆轤(ろくろ)師、又は木地屋などと呼ばれて居る。杓子造りが其主業であった。今でも有難がられる多賀宮の所謂御多賀杓子などは、根元に於て小椋荘と関係があるらしい。」
多賀杓子は現在、多賀神社の無病長寿の縁起物としても授与されています。下にはお多賀杓子の石像(1枚目)と授与されるお多賀杓子(2枚目)のインスタグラム投稿を引用させていただきました。

「此徒東西の各府県に其子孫を遺し、且今でも交通して居る中に、別けても会津の南山には一類が多かった。即会津漆器の起りを為す者である。彼等の特性は「飛」と称して、原料の所在を逐(お)うて澤から澤へと、常に小屋を移して行くことであったが、近くに木材の豊なる山地に於ては、又落付いて村を作るだけの保護も与へられた。会津領の山に居る木地屋は、天正十八年に、新に入部した領主の蒲生家が、其同郷と云ふ縁故を以て、江州君ヶ畑の木地頭、佐藤和泉同く新助の両人と、配下の木地挽五人とを呼寄せ、最初は城下の七日町に住はせ、山に入って木を挽かせたと伝へて居る(一)。
(一) 新編会津風土記、耶麻郡酸川野の条。」
下には「小野宮御偉績考」から木地職創業の図を引用いたしました。少し先に話は飛びますが、こちらは木地の祖先・惟喬親王(小野宮)が轆轤(ろくろ)をはじめとした木地技術の指導をしている場面です。

出典:田中長嶺 著『小野宮御偉績考』,近藤活版所,明33.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780616 (参照 2025-10-02、一部抜粋)、木地職創業の図
https://dl.ndl.go.jp/pid/780616/1/21

また、以下は七日町に屋敷を与えられた佐藤和泉たちが木地挽きをした慶山周辺のストリートビューになります。こちらの画面に木地小屋を配置し、上図のような作業をする木地師たちの姿をイメージしてみましょう。

「木地屋の佐藤氏は如何にも面白いと思ふが、之を以て此地方の開祖とするならば、事実を誤って居る。其よりも更に百二十年前、葦名家の盛の文明年中に、耶麻郡檜木谷地(ひのきやち)の深山に、木地挽等七十余戸居住し、山賊の群に苦められて居たのを、穴澤越中守命を受けて兇徒を退治し、此者等を救ったと云ふ話がある(二)。而して之を別の口とは考へられぬ程、木地屋の職には特長があり又全国に行亘って居た。

(二) 檜原軍物語。大正六年に会津資料刊行会で始めて活版にした本。」

木地の祖先・惟喬親王

「木地屋の仲間には、時代様々の証文記録が甚多い。今ならばさして不思議は無いが昔の殊に山奧に於て、斯な物を取廻すのは慥(たし)かに常民のせぬことである。書くのは神主なり僧侶なりに頼むとしても、銘々に丸切教育が無かったら、之を一つ屋のやうな山中に、携へる詮も無いことである。但し近世に為っては、郷里の小椋に於て、一定の料金を取って、長短望次第の写を作ってやる慣習が起り、彼等の氏神大皇(おほぎみ)大明神の社務などが、之に与(あずか)って居たやうである。」

以下には明治時代に記された惟喬親王の伝記「小野宮御偉績考」から、親王が住んだとされる「君ヶ畑」の図を引用いたしました。中央には金龍寺(現存)、左には木地師の祖・惟喬親王を祀る大皇神社(現・大皇器地祖神社)があります。

出典:田中長嶺 著『小野宮御偉績考』,近藤活版所,明33.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/780616 (参照 2025-10-02、一部抜粋)、君ヶ畑
https://dl.ndl.go.jp/pid/780616/1/69

なお、下には近年の「大皇器地祖神社」の写真を引用させていただきました。

出典:東近江市観光web、大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)
https://www.higashiomi.net/media/miru/okimikijiso

「此神は清和天皇の御兄、惟喬親王を齋き奉る(いつきまつる)と称し、正しく木地屋の生活の中心であった。巻物の軸を見て轆轤と云ふ器を発明したまひ、之を小椋の山民に教へられた御方と信じて居る。親王の御事に就ては、段々学者で之を論じた人もあるが、結局皇室の御系図に、御隠れになったと話してある年よりずっと後まで、近江其他に於て潜かに巡行されたと、伝へる田舎の有ることのみは事実である。」
下に引用させていただいたのは惟喬親王御陵に鎮座する惟喬親王像の写真です。親王は文徳天皇の第一皇子でしたが母が藤原氏でなかったため皇位を継承できませんでした。

出典:東近江市観光web、惟喬親王伝承
https://www.higashiomi.net/learner/learner_detail5.html

下は惟喬親王が山民に轆轤などの技術を伝えたとされる小椋(現在の東近江市君ヶ畑や蛭谷など)付近のストリートビューです。右側には「木地師発祥地君ケ畑ミニ展示館」が見えます。周辺は山に囲まれているので、木製品の材料には苦労しなかったのではないでしょうか。

京都の惟喬親王の史跡

「親王は京近くの小野と云ふ地に、小な別荘を御持ちなされ、仍(よっ)て小野宮と称し奉り、其京の中の御殿までも、永く之を小野宮と申した程、此名は人が知って居た。」
「小野宮」の地は惟喬親王のあと、太政大臣・藤原実頼や「小右記」を残した右大臣・藤原実資に受け継がれます。ロケーションは北が竹屋町通、南は夷川(えびすがわ)通、東西は丸太町通(東)から室町通(西)に渡る広大な敷地でした。下には今年(2025年)7月に設置された案内板の写真を引用させていただきました。なお、詳細については、こちらの案内板の監修をされた(株)都市ガバナンス研究所のホームページ(小野宮デジタル・ギャラリー、http://toshi-governance.co.jp/pj3.html)をご覧ください。

下にはその「小野宮跡」周辺のストリートビューも埋め込んでおきます。現在ではビルや民家が建ち並んでいますが、碁盤の目状の道路からかすかに当時の様子を想像できるかもしれません。

「そこで遠慮を棄てた私の意見を言ふと、琵琶湖南の地、即愛智(えち)川日野川の流域に在っては、曾て小野宮が此辺を巡り又は駐(とどま)りたまふと言伝へて年久しかったのを、中頃小賢しい者が進み出て、其は御諱(おんいみな)を惟喬と申上げた方だと謂ひ、所謂(いわゆる)御位争などの小説に親んで、少からぬ同情を傾けて居た人々、さては業平などもしたと云ふ、東下りとやらを成されたかと、元もよく正さず、近江で小野宮と謂ふことが、何を意味するかをも知らずに、素より茫漠たる各地の伝説を、さうも取れぬことは無いやうに、追々と振向けて行ったものと思ふ。」
以下には在原業平がモデルとされる伊勢物語の絵巻を引用いたしました。京から東国に下る途中の業平は旧暦五月末というのに雪が残る富士山を見て、以下のように詠んでいます。
「不二の山をみれば、さ付のつこもり(晦日)に、雪いとしろ(白)うふれり
『時しらぬ、山はふし(富士)のね、いつとてか、か(鹿)のこまたらに、雪のふるらん』」

出典:『宗達伊勢物語図帖』第1~5輯,造形芸術社,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12772369 (参照 2025-10-06、一部抜粋)、第十
https://dl.ndl.go.jp/pid/12772369/1/40

「斯く想像するのにも、丸々所拠が無いわけでも無い。例へば湖水に近い低地部の、轆轤師とは何の因縁も無い村々にも、やはり若干の小野宮の口碑があって、照し合せると君ヶ畑蛭谷などの伝へと合はぬ者もある。又此地方へは御出でになった筈の無い、上宮太子の御話が散布して居る。他の一方には、宮とは云はぬ小野某の伝説も多いのである。」

龍王寺縁起

「蒲生郡鐘ヶ嶽の龍王寺の縁起は、此序にざっと述べて置く方がよい。山の麓の川守村に、昔大和の吉野から来た小野時兼と云ふ人、えらい美男であつた。宝亀八年の頃と云へば、秀郷よりも更に古い。平木の澤の龍女、只の女の姿をして先方より來り、時兼と夫婦になつた。三年後に自素性を語り、記念にせよと玉の箱を遺して、平木の澤に返った。跡を追うて尋ねて見るに、十丈余の大蛇であった。」
以下には平木の澤があったとされる御澤神社ちかくのストリートビューを引用いたしました。こちらの周辺は現在でも湧水が豊富とのことです。大蛇の姿に変わった妻が去っていく様子を想像してみましょう。

「時兼思慕の歎きに堪兼ね、記念の箱を開けば、よほど大な箱だったと見えて、釣鐘が一つ入って居た。其が後の龍王寺の鐘である。此もの承暦二年の十月に、比叡の山法師奪ひ還って撞けども鳴らず、怒って谷へ投下して破れたが、元の寺へ返すと、どう云ふ訳か自然と疵が癒えたと謂ひ、今に其跡がある(三)。此縁起の出来た時代が知りたいものだ。浦島に半分似た小野時兼は、石清水の女郎花塚にもよく似た名前がある。

(三) 近江國輿地誌略巻六十一。木地屋の村の事は、同書巻七十三の前後に出て居る。」
上記の鐘(野寺の鐘)は国の重要文化財に指定され、現在も龍王寺の「龍寿鐘殿(一条天皇の勅額あり)」に安置されています。

寺社と小野家

「此等の社や寺に関連した小野氏の話は、やはり此一族が嶽や潭(ふち)の祭祀に与(あづか)ったことを意味するのではあるまいか。神が神主と親子夫婦と云ふことは、現在の神道では容れて貰はれぬが、私の知る限に於ては、昔は常の事であった。神の取子申子と云ふ形で、今も微かに残って居る。つまり此だけの間柄で無ければ、人と神との仲に居て、手長の役は勤められぬと見たのである。猿麻呂の小野神が、神の孫なる故に召されて助勢をしたのも、同じ思想である。さて小野と云ふのは里の名で、大野の広漠たるに対して、山の陰などの静かな入を謂ふらしいから、全国に何ヶ所有っても差支無く、之を拓いた名主の家の、小野を家号とする者も沢山有らうが、就中西近江の小野村は、隋に使した小野妹子の家処で、至って古い小野である。延喜式の小野神社も爰(ここ)に在る。」

出典:山重, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、小野神社本殿
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Otsu-onojinja.JPG

上には滋賀県大津市小野にある小野神社の写真を引用いたしました。祭神は第5代孝昭天皇の第1皇子・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と小野妹子の先祖で日本で初めて餠つきをしたと伝えられる米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)です。小野村と呼ばれたこちらの場所は小野一族の本拠地だったところで、摂社として小野篁(たかむら)神社、小野道風神社が建てられています。

猿女氏と小野氏

「処が此村の隣の和邇(わに)村と、山を隔てて山城の小野郷とには、どう云ふ由緒か古くから猿女の養田があった。猿女は朝廷の神事に出て、俳優の舞をする専門の役で、天鈿女命(アメノウズメノミコト)と猿田彦神との婚姻に因って、出来た家筋と伝へられて居た。」
天鈿女命は日本書紀などに登場する芸能の女神です。以下の「天岩戸開」の図には、岩戸内に隠れた天照大御神の興味を引こうと踊る天鈿女命(図中央)、戸を開けて天照大御神を引き出そうとする天手力男命(図右)が描かれています。

出典:Japanese fine prints, pre-1915, Public domain, via Wikimedia Commons、Ama no iwato Abstract/medium: 1 print : woodcut, color ; 30.1 x 41.5 cm.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ama_no_iwato_LCCN2008660595.tif

「近江に居た小野和邇部(わにべ)両氏の一族は、猿女養田の利益を我物としたいばかりに、其家に非ずして猿女を族中から出して居たのを猿女公氏の方からでは無く、却って族長の小野朝臣野主等より朝廷に訴へ、事情を具申して両家の猿女の停廃を乞うたことが、弘仁四年の太政官符に見えて居る。」
上の内容に関してはウィキペディア(下に引用)にわかりやすく記されています。

猿女の養田を横取りすることを目的に、本来は猿女を貢進する氏族ではない小野・和邇部両氏が氏族の子女を猿女として貢進していたことから、これを中止するように上奏し認められている

出典:ウィキペディア、小野野主
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%87%8E%E4%B8%BB

「思ふに此には何か仔細が有って、田舎に住む小野の氏人と、猿女公の家との間には、話の付いて居たことであらうから、一回の禁令を以て改め得たとは思はれぬ。其一の証拠には、下野の二荒の外にも、神に仕へる小野氏は至って多く、猿女と呼ばるる者は却って少い。」
ウィキペディア・猿女君によると、石川県珠洲市にある須須神社の社家は今も「猿女」姓を名乗っているそうです。下に引用したのは須須神社高座宮の本殿の写真です。

出典:写真AC、石川 須須神社高座宮の本殿
https://www.photo-ac.com/main/detail/22195171&title=%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E3%80%80%E9%A0%88%E9%A0%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E9%AB%98%E5%BA%A7%E5%AE%AE%E3%81%AE%E6%9C%AC%E6%AE%BF

「野州蒲生の平野地方などは、湖水を隔てるとは云っても渡船の道である。滋賀の小野氏が猿女と結合して、若くは猿女公の後裔が小野氏を冒して、特殊の祭の式を京以外の地にも宣伝したとするならば、先足を対岸の官道筋に向けたことと思ふ。愛智郡の百済寺に眉雪の如き老僧来臨し、我は当国小野一萬大菩薩と名乗って祭られたことが、延文年中の事として古く三国伝記にも見えて居る。」
「三国伝記」の内容については柳田国男「杖の成長した話」において、以下のように記されています。

近江の百済寺の僧源重僧都の許へ、八十餘の老翁鹿杖を突いて現れ来り、自ら小野一萬大菩薩なりと称し、三十番神の中に加へられむこを乞うた。瑞相を示したまへと謂へば、其杖を地に挿して忽ち見えず、成長したのを見ると椋の木であったと云ふことが、三国伝記巻七に記されて延文年間の事だと謂って居る。

出典:『定本柳田国男集』第11巻,筑摩書房,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9541741 (参照 2025-10-04)、神樹編・杖の成長した話
https://dl.ndl.go.jp/pid/9541541/1/96

「小椋荘の小野宮なども、或は斯くして移って往った神部の末で、最後までも熱心であった故に、色々の伝説も附添はって、社ばかりか惟喬皇子の御墓までが出来たのでは無いか。宮も王子も御幸も出御も、古い日本では宮廷と神社に、共に用ゐられた語であることは、人の善く知る所である。」

「猿」と神職との関係

「猿女の神事舞に猿を用ゐたことは、まだ何等の史料を得て居らぬ。併し猿女公と謂ひ、其祖を猿田彦と謂ふには理由が無ければならぬ。一方には古来行はるる厩の祈祷に猿を舞はしむる風習、之と関係ある厩に猿を繋ぐ東亜一般の旧慣には、何か至って古い信仰の存在を思はしめ、又猿舞しの特殊の技能は、一定の家筋を伝はって来たに相違無いから、今後の研究に由って、猿女と猿屋との関係が見出されるかも知れぬ(四)。

(四) 猿屋の一種の巫祝であったことは、山島民譚集巻一に、稍々(やや)詳しく書いて置いた。此本は今に口語体に書改めて再版するつもりである。」
上文と重複しますが、以下のように「猿まわし」はもともと馬の病気を祓うための祈祷だったとのことです。

猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった。

出典:ウィキペディア、猿まわし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%81%97

「さて猿丸大夫の大夫が、神職を意味することは前に言ったが、猿丸は単に猿と謂ふに同じく、猿を人のやうに呼ぶ時の名である。どうして其が非凡な歌人の名であったかは答へ能はぬが、兎に角古今東西に何人あっても構はぬ名だ。二荒の小野神主の祖神が猿麻呂であったのは、近世の猿屋等が悉(ことごと)く小山氏を祖とし、巴の紋を附け下野から出たなどと云ふことと関係あり、即彼社で当初小野氏が掌って居たのを、後に小山が世話したこと、例へば近江で小野氏が猿女を引受けたのと、似たる事情では無かったらうか。」
以下には大正時代の猿回し師の写真を引用いたしました。こちらの方も小山氏を祖として名乗っていたかもしれません。

出典:A.Davey from Portland, Oregon, EE UU, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons、猿回し師。大正初期
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Man_with_Monkey_(Sarumawashi)_in_Japan_(1914_by_Elstner_Hilton).jpg

「此意見の当る当らぬは後の事としても、少くとも下野の小野氏の近江から来たことは疑が有るまい。神に仕へ猿と称する類似の外に、彼等を呼寄せ又は連れて来たらしい人がある。其人を誰とか為す。二国の所領を抱へ、屢々(しばしば)京にも往来して官位を高うした田原藤太秀郷である。蒲生氏郷が小椋の木地挽を招いたのも、私から見れば、世を隔てての二回目で、此点でも亦遠祖に私淑した。」
以下には、大正時代に日野町・上野田ひばり野公園に建てられた蒲生氏郷公銅像の写真を引用いたしました。会津から九州への移動中、中山道の宿場(武佐宿)から故郷の山(綿向山)を眺めながら望郷の歌を詠んでいるシーンを表現したものとのことです。日野から伊勢松坂城、そして会津に転封になったときもこちらのような姿で日野を懐かしんでいたかもしれません(現在の銅像は二

代目)。

出典:日野町教育会 編『蒲生氏郷卿銅像除幕式之記』,日野町教育会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967278 (参照 2025-10-06、一部抜粋)、
https://dl.ndl.go.jp/pid/967278/1/3

「猶(なお)言落したが、猿女公氏は又語部でもあった。日本の歴史に取って最重要の人物、稗田阿礼(ひえだのあれ)も此家から出て居る。此人は女子だと云ふ説が正しいらしい(五)。阿禮とは又巫女を意味する語である。
(五)稗田阿礼の事は、井上頼圀翁の古事記考に説いてある。」

旅行などの情報

木地師資料館

昭和56年に開館した木地をテーマとしたユニークな資料館です。全国の木地師の身元を確認し、金銭を徴収した記録「氏子駈帳」や免許状、往来手形などの木地に関する古文書のほか、木地の道具類、木地製品などが展示されています。また、以下に引用したように最寄りの蛭谷バス停には「ろくろ木地発祥の地」の案内板が立てられています。

また、御池川に沿った1㎞ほど上流にある「木地師のふるさと交流館」では資料の展示に加えて、地元ガイドならではの貴重な情報が得られるのが魅力です。またろくろを考案した惟喬親王を祀る大皇器地祖神社や、親王が暮らしていたと伝わる金龍寺(きんりゅうじ)も近くにあるので、併せて巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】滋賀県東近江市蛭谷町176
【アクセス】近江鉄道本線八日市駅から近江鉄道バスに乗車し、終点の永源寺車庫で市営バス政所線に乗り換え、蛭谷で下車
【参考URL】https://www.higashiomi.net/media/miru/a192