柳田国男「神を助けた話」の風景(15朝日長者・最終回)

朝日長者

「神を助けた話」の最終回は猿丸大夫(神を助けた話・会津の猿丸大夫・参照同・日光の猿丸・参照)にゆかりのある朝日長者についてです。「朝日」は太陽崇拝に関連し、人や山、神の名前に全国に幅広く用いられてきました。一方、交通の発展とともに二荒山や赤城山などの地元神が鉢合わせし、小野氏などの「神を助けた」地元の神官たちが優劣を競わせる必要があったといいます。

出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

「猿(麻呂)」と「馬(王)」の関係

「猿麻呂の父を、馬王又は馬頭中納言などと謂ふことも、少からず私の推測を根強くする。猿を厩の守護とすることも、本来馬の神が野の奧、或は山の嶺に住み給ふ結果とも、考へられるからである。」
日光東照宮・神厩舎(神馬をつなぐ建物)の三猿も「厩の守護」として彫られたものです。以下に引用した「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名ですが、神厩舎には全部で16匹の猿が彫られており、幼少期から大人までの人の一生を表現しています。

出典:写真AC、神厩舎の三猿
https://www.photo-ac.com/main/detail/26588575

「而して武家時代に関東で栄えた地方神が、馬の保育を主たる神徳としたまふことも、亦有得べく且つ例の多いことである。」

「朝日」という名前について

「次には有宇中将の御妻即日光では女体山の神を、或は又其父の長者の名を朝日と謂ったと伝へる点を、今些(すこ)しく言って見よう。朝日は長者にはふさはしい名である。其為か諸国の長者屋敷の跡には、此名を以て昔の主の、栄華を語るものが甚多い。之に対して夕日長者を説くこともある。或は宝を競べ合ひ、或は一は信心にして弥(いよいよ)栄える間に、他は慳貪にして福分の既に傾くを見ることもある。羽後の秋田又は野州葛生の古伝などは、花やかなることロミオジュリエットの物語のやうである。」

野州(下野国)葛生の古伝の一つを以下に引用いたしました。前半は「ロミオジュリエット」のようですが、後半は少し怖い内容となっています。

長暦三年巳卯(皇紀一九八三年)朝日長者太田権守行高の嫡男朝日丸(十七)と夕日長者大河四郎行光の嫡女於並(十六)は兼て恋慕の仲なりしが添へ遂げられぬ境遇を儚み兒ヶ淵に飛込み水死をした、以来その霊魂二十二尋の大蛇の姿に変り屢々(しばしば)現れて上佐野の谷々峰々を渡り果ては山本の里を荒すため願成寺住職大覚禅師は男龍女龍の霊魂に教誨する所ありしため遉(さすが)の大蛇も成仏し牙のみを残し消え失す(後略)

出典:飯島光之丞 編『葛生町勢発達史』,飯島光之丞,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1218761 (参照 2025-10-07)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1218761/1/56

「朝日姫は長者朝日の子であるから、斯く名けたとも思はれぬことは無いが、同時に又女子にして此名を呼ぶ者にも、様々の話が付随して居る。其最著しい共通点は何かと云へば、やはり神に傅(かしず)いて後に自らも神に祭らるると云ふ、二荒と同じやうな事である。山の名の朝日嶽、神仏の名に朝日神明或は朝日観音の類、何れも其由来を究めると、曾て朝日と謂ふ女性の、半ば人間に在って半霊界に遊んで居たことを、説かぬ者は無い。

室町時代の朝日姫の物語

「故藤岡作太郎氏は、室町時代の小説を多く読んだ後、其女主人公には、何故か朝日前と云ふ美人が多いと謂はれた(一)。
 (一) 鎌倉室町時代文学史三五〇頁。」

1.御曹司島渡

「其例として引いたのは、御曹司島渡りの、千島の大王の娘朝日の天女、即ち後世の鬼一法眼、又は古事記の蛇室に似た話である。」
ウィキペディア(以下引用)には「御曹司島渡」のストーリーがわかりやすくまとめられています。

藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、『大日の法』と称する兵法書があることを聞いた、頼朝挙兵以前の青年時代の御曹子義経は、蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王に会う事を決意する。四国土佐の湊から船出して喜見城の内裏へ向かう。途中、「馬人」(うまびと)の住む「王せん島」、裸の者ばかりの「裸島」、女ばかりが住む「女護(にようご)の島」、背丈が扇ほどの者が住む「小さ子の島」などを経めぐった後、「蝦夷が島」(北海道)に至り、内裏に赴いて大王に会う。そこへ行くまでに様々な怪異体験をするが最後には大王の娘と結婚し、兵法書を書き写し手にいれるが天女(大王の娘)は死んでしまう。

出典:ウィキペディア、御曹子島渡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9B%B9%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%B8%A1

下には義経が「朝日の天女」とともに兵法書を書き写している場面の絵を引用いたします。

出典:『[御曹子島渡り]』[3],[江戸前期] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14208731 (参照 2025-10-07、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/14208731/1/16

2.物草太郎

「次には信州の物草太郎、其女房も夫と共に神に祀られ、朝日権現と現はれたまふと云ふことになって居る。」
物草太郎は室町時代の童話風短編小説「御伽草子」の一つです。詳細なストーリーは省略しますが(詳細はウィキペディア・物くさ太郎などをご覧ください)、以下には出世前の物草太郎の図(餅󠄀を落とすも、拾うのが面倒で人が拾ってくれるのを待っている)を引用いたします。

出典:『物くさ太郎』[1],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2574839 (参照 2025-10-07、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2574839/1/5

物草太郎はこのように怠惰な人物でしたが、子細あって京に出ると人が変わったように働いて「侍従の局」という妻を得ます。また、歌の才能が評判になり、信濃の中将にまで出世しました。下図のように幸せな家庭を築き、百二十歳の長寿を全うしたとのことです。
図中左上の物草太郎は死後、「おたかの大明神」、右上の妻は「朝日権現(あさいの権現)」という名の神として祀られました。

出典:『物くさ太郎』[2],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2574840 (参照 2025-10-07、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2574840/1/18

「人にも神にも佳い名には相違ないが、単に其ばかりで屢々(しばしば)用ゐられたのではあるまい。近世に為っても、巫女に朝日と云ふ名があることは、昔の通であった。例へば京の間ノ町通の朝日ヶ町、朝日と云ふ名誉の御子が住んで居たからと伝へて居る(二)。さう云ふ背景を以て、この日光の縁起は解すべきものと思ふ。
(二) 京雀巻二。長者又は巫女のことを謂った例がある。」

皇室の太陽(朝日)崇拝

「現行神道の太陽に対する考は、実は私はまだ聞いて居らぬが、日神を女性とする信仰は、我宗廟とも関係があり、又古い記録にも之を認めた箇條が見える。而も一方には日の光を以て、男の力の如くに信ずる思想も古くから有った。高麗百済両国の国祖が、太陽を父とし人を母として居たことは、日本に帰化した高麗人百済人も之を唱へて居た。又古事記には新羅の王子天之日矛の事に係け、書紀には都怒我阿羅斯等の話として伝へて居る、難波の姫許曾(ひめこその)社の根原も是であるのみならず、八幡宮の母と子の御神に就ても大隅の大社には此と全く同じ旧伝があった(三)。
(三)此問題に付ては、郷土研究第四巻第十二号の、玉依姫考を読んで貰ひたい。」

「大隅の大社」とは現在の鹿児島神宮のことです。以下には昭和時代の鹿児島神宮の写真を引用いたします。

出典:鹿児島県, Public domain, via Wikimedia Commons、鹿児島県史第1巻に掲載されている1939年ごろの鹿児島神宮本殿の写真。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kagoshima_jingu_Kagoshima_pref_book1.jpg

なお、「八幡宮の母と子」の伝説については柳田国男「妹の力」に詳しく記されていて、意訳すると以下のようになります。

中国の陳大王は娘の大比留女(オオヒルメ)が七歳で懐妊したことを不審に思い、問いただしたところ、夢で朝日の光が胸を覆ったため懐胎したのだと答えます。驚き怖れた王は大比留女を王子とともにうつぼ舟にのせて大海に放ってしまいました。
この舟はやがて九州・大隅へと流れつき、のちに大比留女は筑前若椙山(わかすぎやま)に入って香椎の聖母大菩薩(=八幡宮の母・神功皇后)と呼ばれるようになります。また、大隅国に留まった王子(=応神天皇)は正八幡と称され、隼人を平定したと伝えられています。

出典:柳田国男 著『妹の力』,創元社,昭15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1461605 (参照 2025-10-08)、「うつぼ舟の話」の一部を筆写が意訳
https://dl.ndl.go.jp/pid/1461605/1/171

民間の太陽崇拝

「朝家の御信仰とは又別に、田舍では往々日輪を男神として拝したことがあって、其が最高最初の巫女の名を、朝日と名づけた由来では無からうか。母が日を呑むと夢みて生れたと云ふ非凡人は、決して太閤秀吉だけでは無かった。是こそ誠に奇想天来ではあるが、其例は中々多い。筑後の夜明山朝日寺を開いた神子禅師、下総香取の千葉氏龍山和尚、天台の沙門陽勝、及智證大師円珍など數ある高僧に皆此話がある。日蓮上人の如きは、更に一歩を進めて呑むとは云はず、母清原氏夢に日光胸に映ずと見て娠むとあつて、此宗派代々の日の字も、由って来る所の遠いことを思はしめる。」

出典:Kamakura-period painter, Public domain, via Wikimedia Commons、絹本著色智証大師像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chisho_Daishi_(Konzoji_Zentsuji).jpg

上には智証大師円珍の像を引用いたします。円珍は高野山を開いた空海の甥(または姪の息子)にあたり、延暦寺の第5代座主となった人物です。以下に引用させていただいたように「母が日を呑む」伝説が残されています。

「円珍産湯之井縁由(えんちんうぶゆのいえんゆ)」によると、弘法大師の姪にあたる母が円珍(智証大師)を身ごもった時に「大洋を航海中に朝日の昇るのを仰ぎ見て光り輝く太陽をその手にしたところ、太陽が口の中に飛び込んできた」という夢を見ました。

出典:善通寺市公式サイト、善通寺市デジタルミュージアム 智証大師降誕浴灌井伝承地
https://www.city.zentsuji.kagawa.jp/soshiki/50/digi-m-culture-detail-021-index.html

「日光山縁起の朝日御前なども、有りさうな貴女の名を何心無く附けたとしてもよいが、事に由ると群山に抽(ぬきん)でたる峯の上に於て、天に在って最威力ある神を祀った、其信仰の名残かも知れぬ。此日光と云ふ山の名も、普通は二荒の字を音読した、僧侶などの所業と見る人が多いが、而も勝道上人が中禅寺の湖岸に修行する時、夢に峯頭の大日輪を見て、乃ち日輪寺を創立したと云ふ旧記も有るから(四)、爰(ここ)にも太陽崇拝の痕跡が、永く保存せられて居たのかも知れぬ。此点に於ても近江と共通のものがある。
(四) 補陀洛山草創起立修行記。続群書類従釈家部にあり、地名辞書にも引いてある。」
勝道上人が夢に見たのは以下のような中禅寺湖周辺に上がった日輪だったでしょうか。

出典:写真AC、」出典:写真AC、中禅寺湖
https://www.photo-ac.com/main/detail/23545538&title=%E4%B8%AD%E7%A6%85%E5%AF%BA%E6%B9%96

「日野は恐らくは朝日野の略で、朝日山の信仰に由って出来た地名である。近江鉄道で走って見てもよく分るが、湖岸の村々から東に望む山の姿は、如何にも旭日を拝するに適して居る。殊に川筋が皆略々東西に通って、川上の峰は物深く神々しい。其故に少しく北すれば、日之少宮と称へた多賀大神もある。多賀とは山頂に祭った御神であらう。三上山の東に続く鏡山の名も、之に因のあることであらう。併し私は此信仰迄、田原家が移植したと云ふのではない。」
以下には琵琶湖対岸から撮影した明け方の三上山の写真を引用いたしました。シルエットや色は「物深く神々し」く、信仰の対象になったとしても不思議ではありません。

出典:写真AC、目醒める
https://www.photo-ac.com/main/detail/22613707&title=%E7%9B%AE%E9%86%92%E3%82%81%E3%82%8B

「山と山との争に関しては、別に一冊にする程の話が有る。日光山との衝突は、赤城の方でも勝つたと云ふ伝説を存し、又色々の余談があるが、此は後に一括して説くことにしよう。」
下には赤城山が勝利した伝説を引用いたします。

伝承によると赤城山の神と二荒山の神との間で領地を巡る争いがあり、やがて劣勢となって当地まで撤退を余儀なくされた赤城山の神によって温泉が開かれたとされる。赤城山の神が弓(あるいは矢)を立てた場所から温泉が湧出し、傷を癒やした赤城山の神は再び二荒山の神に挑み、打ち倒したという。古墳時代、「毛野国」が2分され、現在の群馬県(上野国)と栃木県(下野国)となる過程で起こった国境争いから生まれた話とされる。(中略)
一般的には赤城山の神は大ムカデ、二荒山の神は大蛇とされる。しかし、老神温泉では赤城山の神が大蛇、二荒山の神が大ムカデと逆転して伝えられている。

出典:ウィキペディア、老神温泉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E7%A5%9E%E6%B8%A9%E6%B3%89

「嶽の麓に住む民は、何れも我神を以て最尊いと思はねば、崇敬を続けては居られぬ。故に少しく相互の交通が開け、他郷にも神威の雄大なる山の有ることを知れば則ち愕然と驚いて一旦は信仰が動揺し、更に優劣の比較を企てることになれば、上下一心に成って、此方が一段と高いと云ふことを考へんとする。」
以下には日光二荒山神社中宮祠で行われている「武射祭」の動画を引用させていただきます。二荒山神が赤城山に勝利したことを伝える室町時代からの伝統行事とのことです。皆さん、猿丸大夫になった気分で弓を射ているのではないでしょうか。

「其場合にも神の仰せられることが最正しい。神は何人を通じて神意を宣べられたかと云へば、王子神子又は若と名づけて、人間の少女に依って半ば御血を分けたまひし者の、後裔末孫に託せらるるの他は無かったのである。神子も多くの場合には信じて神の言を宣べた。併し信ずると云ふことを分析して見たら、やはり又其地方で謂ふ話、其時代の学問と知識、境遇の許す限の最高尚なる感情の、結合したものである。各家族が分立し土豪が割拠した時代には、神も亦地方神たることを免れなかったので、近隣の神々とすらも相容るることが難かったのである。而して又時あって、人間の助力を求めらるる程、氏子との間柄だけは親しかったのである。」
なお、老神温泉では、赤城神が日光神に勝利したことを祝う「大蛇祭り」が行われています。特に今年(2025年)は巳年であったため、世界一長いとギネスブック認定の「大蛇みこし(108ⅿ)」が練り歩きました。下にはその様子を撮影した投稿を引用させていただきます。

「私の挙げた証拠は不十分で、往々推測を以て補はねはならぬ点があった。故に安々と此等の論断に服せられることは、決して諸君に御勧めする所では無い。唯一つ、均しく伝説と云ふ中にも、曾て文芸の世界を経て来たのと、神社などに従属する真面目な語部の口から出たものとの差別があり、而も此二種の言伝は、近世何度と無く互に相影響したと云ふことだけは、認めてもらひたいと思ふばかりである。」

旅行などの情報

老神温泉

赤城山の神は戦場ヶ原で日光山の神に敗れますが、こちらの温泉で体を癒し、日光の神を追い返したという伝説があります。そして「追い返した」ことが老神「=追い神」の名前の由来ともいわれています。お湯は腫れ物やおできといった皮膚病に効果があるだけでなく、肌がすべすべになる美肌の湯としても人気です。

上に引用させていただいたような開放的な露天風呂を備える「湯元・華亭」のような日帰り温泉のほか、「吟松亭あわしま」や「伍楼閣」、「仙郷」など、ゆったり滞在できる温泉旅館も建ち並んでいます。ほたる鑑賞や雪のライトアップイベント(雪ほたる)といった季節イベントもありますので、事前に温泉郷の公式サイトをチェックしてお出かけください。

基本情報

【住所】群馬県沼田市利根町大楊1519-4
【アクセス】沼田駅からバスを利用(約50分)
【参考URL】https://www.hanatei.info/