陳寿「魏志倭人伝」の風景(その2)

投馬国から邪馬台国まで

前回、魏の使節は不弥国(福岡県周辺)までの旅をしました(魏志倭人伝の風景その1・参照)。引き続き、目的地の邪馬台国に向かいますが、「畿内説」と「九州説」では投馬国から先の比定地が大きく異なります。当時の遺跡からは大規模な宮殿跡や大量の桃の種、武器といった多彩なものも出土しています。以下では代表的なスポットの風景をイメージしていきましょう。

出典:ウィキペディア・魏志倭人伝、新訂 魏志倭人伝(石原道博編訳)を踏まえた日本語訳、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

邪馬台国の候補地は100か所以上

以下には不弥国の先の邪馬台国の位置に関する記述のみを抜粋します。
「南へ投馬国に至る、水行二十日。(中略)南へ邪馬台国に至る。女王の所である。都(都合して、すべて)水行十日・陸行一月。」
シンプルな内容ですが、こちらの文のとおり(南に水行二十日、水行十日・陸行一月)に進むと、九州のはるか南の海上に出てしまいます。そのため邪馬台国が「沖縄」にあったという説もあるようです。

現在の主流は畿内説と九州説になっていて、畿内説は方角「南」を「東」へと、九州説は陸行の日数「一月」を「一日」へと修正するなどして整合性をとっているようです。ただし、九州説にも福岡県山門郡や宮崎県の西都原古墳群など複数個所の比定地があるほか、候補地は四国の徳島県など幅広いエリアに分布し、合計100か所を超えるといわれています。それらの候補地のなかに邪馬台国はあると思われますが、たとえ邪馬台国でなくとも、そこには弥生時代から人々が生活し、独自の文化をつくっていました。以下ではそのような多彩な説の一部をピックアップし、各エリアの風景を追っていくことにしましょう。

「畿内説」の旅

投馬国「鞆」説

以下では、オーソドックスな説の一つ「畿内説」のなかからいくつかの比定地をピックアップしましょう。まずは瀬戸内海航路の場合です。以下に投馬国についての全文を引用いたします。
「南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。」

「鞆(鞆の浦)」は古代から「潮待ちの港」として知られていました。また、「鞆(とも)」が「投馬(とうま)」と音が似ていることも比定地とされている要因です。

出典:写真AC、鞆の浦
https://www.photo-ac.com/main/detail/26154120&title=%E9%9E%86%E3%81%AE%E6%B5%A6

上には鞆の浦のシンボルである常夜燈と瀬戸内海の写真を引用いたしました。こちらの常夜燈は江戸時代(1859年)に建てられたものです。もちろん邪馬台国のころにはありませんでしたが、夜になるとかがり火が焚かれていたかもしれません。ここでは、沖のほうから魏の使節船がやってくるところをイメージしておきましょう。

投馬国「吉備国」説

邪馬台国の「七万余戸」に対し「五万余戸」という大きな国であることから、吉備(岡山県と広島県東部)が投馬国の所在地という説もあります。なかでも岡山県倉敷市の「上東遺跡」からは竪穴建物の他、製塩炉、波止場状遺構などが見つかっていて吉備国の中心的な存在であったと考えられています(ウィキペディア・上東遺跡)。

出典:文化庁、日本遺産ポータルサイト、上東遺跡出土の桃の種
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/3957/

上東遺跡からは上に引用させていただいたような桃の種が1万個近くも出土しました。当時から晴天が多く温暖な気候であったことがうかがえます。

桃は食用以外にも魔除けや雨ごいなどの祭祀用としても用いられたとのことです。ここでは上に引用させていただいたような桃を提供された魏の使節たちが、美味しそうにほおばる姿をイメージしてみましょう。

投馬国「出雲」説

使節たちは日本海沿いのルートをたどって畿内に向かったのではという説もあります。日本海側の投馬(つま)国比定地の一つは、当時から大きな集落がつくられ、音が似ている出雲(いづも)国です。
下にはなかでも古代出雲の中心地であったと考えられている「妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)」の写真を引用いたしました。ここでは復元された竪穴住居の近くから、住民たちが使節団の船を見送る様子をイメージしておきましょう。

出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、妻木晩田遺跡 妻木山地区 遠景
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mukibanda_Site,_Mukiyama_area-1.jpg

弥生時代の遺跡(長原古墳群・高廻り2号古墳)から出土した「船型はにわ」をもとに復元した古代船を下に引用させていただきます。平成元年(1989年)にはこちらの船で、大阪港から韓国・釜山までの実験航海を行ったとのことです(瀬戸内航路)。ここではこのような船が群れをなしてすすむ姿を想像してみます。

出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、なにわの海の時空館 なみはや
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Namihaya_in_Osaka_Maritime_Museum-2.jpg

邪馬台国へ

「南へ邪馬台国に至る。女王の所である。都(都合して、すべて)水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。」

邪馬台国は投馬国よりも二万戸多い七万余戸の大都市でした。そして、その有力な比定地とされているのが「纏向遺跡」です。そこには以下に引用したように東西約2km・南北約1.5kmの巨大な街がつくられていました。

2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区の範囲。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び大字辻・太田・東田・大豆越・草川・巻野内・穴師・箸中・豊前・豊田にまたがる。およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達する。

出典:ウィキペディア、纒向遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

以下には纏向遺跡の主要箇所を撮影した動画を引用させていただきました。中心部の「纏向遺跡辻地区」には大型建物群の柱が復元され、当時の様子を想像しやすくなっています。また、遺跡の南側に造られた「箸墓古墳」は卑弥呼の墓という説もある重要な史跡です。

なお上の動画でも説明されていますが、遺跡の中心的施設跡で出土したモモの種に対して放射性炭素(C14)年代測定を行った結果、「西暦135~230年の間に実った可能性が高い」という分析結果が出たとのことです。「邪馬台国」であったかどうかは別として、卑弥呼の在位と近い時期にこちらのような大都市ができていたことは間違いありません。

下には「大阪府立弥生文化博物館」に展示されている卑弥呼像の投稿を引用させていただきました。「大阪府立弥生文化博物館」のyoutube動画によりますと渡来系弥生人の標準的な顔をベースに、女王の風格を加えたとのこと。お名前は明かしていませんがある女優さんをモデルにされたとのことです。

また、纒向遺跡からは犬の骨が出土し、以下に引用させていただいたような姿に復元されています。1歳半程度の若い雌の犬とのことで王宮跡から見つかっています。こちらが邪馬台国であったとすれば卑弥呼にも出会っていたかもしれません。

「魏志倭人伝」の後の箇所には女王としての日常生活がうかがえる文章があります。

「王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え出入する。」
このように身の回りの世話をする下女がいるほかは、男性一人が出入りするだけでした。
ここでは退屈な(?)宮殿生活のなか、「こまき」とのふれあいを楽しむ卑弥呼の姿を想像してみましょう。

「九州説」の旅

邪馬台国「吉野ヶ里遺跡」説

九州説の比定地は多彩のため、いきなり邪馬台国の場所に迫っていきましょう。
まずは吉野ヶ里遺跡です。こちらは比較的最近(1986年~)発掘された遺跡で、魏志倭人伝の記述(以下に抜粋)にそっくりな建物跡が見つかったことでも話題になりました。
「居処宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも兵器を持った者が守衛する。」

出典:写真AC、吉野ケ里遺跡の物見櫓 ワイド
https://www.photo-ac.com/main/detail/25706934&title=%E5%90%89%E9%87%8E%E3%82%B1%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%A6%8B%E6%AB%93%E3%80%80%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89

上には復元された吉野ヶ里遺跡の楼観や城柵の景色を引用いたしました。楼観の上には守衛の姿を置いてみましょう。もし、魏の使節がこちらを訪れていたとすれば、「伊支馬(いきま)」や「弥馬升(みましょう)」、「弥馬獲支(みまかくき)」などが出迎えていたかもしれません(これらが人名か官職名かは不明です)。
近年も発掘が続けられていて、2023年には邪馬台国時代の石棺墓が出土したことで話題になりました。以下には当時のテレビ放送の動画を引用させていただきました。

残念ながら副葬品は出てきませんでしたが、石蓋の裏には不思議な線刻が施され、内部には当時貴重だった赤色顔料が塗られていたとのことです。

邪馬台国「平塚川添遺跡」説

九州「邪馬台国」候補の2つ目は吉野ヶ里遺跡から30㎞ほど東にある「平塚川添遺跡」です。

吉野ヶ里が筑紫平野の中央部にあるのに対し、こちらは東端に近い朝倉市に位置しています。

卑弥呼の時代に栄えた集落跡とされ、魏志倭人伝の邪馬台国についての描写にある柵列や物見台の跡も発掘されました。発掘された地形(下のグーグルマップ参照)からもわかるように環濠が幾重にも張り巡らされ、外敵からの守りを固めています。

こちらからは銅矛や銅鏃(矢尻のこと)・鏡片・貨泉(貨幣の一種)などの青銅製品や、農具や建築部材、漁具などの木製品も出土しているほか、人々が生活をする中央集落の外側には工房をメインとした「別区小集落」があったことも確認されています。(ウィキペディア・平塚川添遺跡)。

上には「あいち朝日遺跡ミュージアム」投稿の弥生時代の土器づくりのイメージ図を引用させていただきました。「平塚川添遺跡」の「別区小集落」にはこちらのようなのどかな光景があったかもしれません。

仲間の国々と敵国について

魏志倭人伝では邪馬台国について述べたのち、周辺の国々の名称を列記していきます。
「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また〇奴国の誤脱か)がある。これが女王(国)の境界の尽きるところである。その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属さない。」

出典:大阪府立弥生文化博物館公式サイト、弥生博のカイトとリュウさん 遺跡へ行こう!
https://yayoi-bunka.com/kaito-ryu/iseki/

女王国に属さない「狗奴国」の位置は九州から関東までの幅広い説があります。上には弥生時代のものの中でも代表的な遺跡の分布図を引用させていただきました(大阪府立弥生文化博物館作成)。こちらの中に邪馬台国やその敵国であった狗奴国はあるのでしょうか。

狗奴国・尾張説

ここからは敵国・狗奴国の候補を2か所ご紹介しましょう。
一つ目の尾張説の場所は濃尾平野を中心とし、上地図の朝日遺跡も含みます。朝日遺跡は弥生時代前期(紀元前6世紀)から古墳時代前期(紀元後4世紀頃)に栄えた全国でも最大規模の集落です。隣接した朝日遺跡ミュージアムでは往時を表現した精巧なジオラマが展示されています。

上に引用させていただいた動画では、「5:40」あたりの逆茂木(さかもぎ)や乱杭(らんぐい)を使った集落の防御など、細部に渡って表現しているのが特徴です。定住生活により食料や富の蓄えの差が生じ、争いが起きるようになった時代でした。

もちろん、戦ばかりをしていたのではありません。秋のある日には以下に引用させていただいたような平穏な時間もあったことでしょう。

狗奴国・熊本説

ウィキペディア・狗奴国によると狗奴国・熊本説が邪馬台国畿内説・九州説を問わず、最も有力な説とされています。狗奴(くぬ・くな)国を記紀の熊県(くまのあがた)とし、狗古智卑狗(くこちひこ・くこちひく)を「菊池彦(きくちひこ)→菊池郡を治める人」と考え、狗奴国を菊池川流域に比定しました。
菊池川流域の代表的な遺跡は「方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)」で、位置的には邪馬台国九州説で取り上げた吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡の南方100km弱にあります。

こちらは弥生時代後期から古墳時代前期にかけて営まれ、東西330m・南北300m以上ある環濠集落跡でした。出土遺物としては、全国で唯一の石包丁形鉄器をはじめとして、鉄鏃や刀子、手鎌などの鉄製品が多く発掘されていて強大な国であったことがうかがえます。

鉄の武器が盛んに作られた場所でしたが、現在こちらの遺跡の一部にはひまわり畑がつくられ、例年7月中旬〜下旬になると写真撮影をする人たちでにぎわっています。上にその平和な風景を引用させていただきました。

邪馬台国までの距離

「帯方郡から女王国までは一万二千里。」
ここで、九州本土にあったとされる末廬国までの距離を確認してみると、一万里(七千余里+千余里+千余里+千余里)ほどです。

帯方郡→狗邪韓国:七千余里
狗邪韓国→対馬国:千余里
対馬国→一大国:千余里
一大国→末廬国:千余里

残りの女王国までの距離(二千里ほど)は対馬国から九州本土(末廬国、マップでは唐津市末盧館)までの距離と同じで、九州説(邪馬台国が九州内に収まる)の根拠の一つになっています。

旅行などの情報

纏向遺跡

邪馬台国畿内説の候補地として上でもご紹介させていただきました。纏向エリアは第11代垂仁天皇や第12代景行天皇が都をおいた初期ヤマト政権発祥の地ともされていて、宮跡(垂仁天皇纒向珠城宮跡、景行天皇纒向日代宮跡)を示す石碑も立っています。

出典:写真AC、桜井線105系 纏向遺跡横を通過
https://www.photo-ac.com/main/detail/30803318&title=%E6%A1%9C%E4%BA%95%E7%B7%9A105%E7%B3%BB%E3%80%80%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1%E6%A8%AA%E3%82%92%E9%80%9A%E9%81%8E

纏向遺跡の中心地である辻地区からは巨大な遺構も見つかり、卑弥呼が住んでいた可能性もあるとのこと。上に引用したように、多数の柱が復元され、当時の大型建築群をイメージすることができます。また、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳やホケノ山古墳も徒歩圏内にありますので、のんびりと巡ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】奈良県桜井市箸中980-1(卑弥呼の庭駐車場)
【アクセス】JR万葉まほろば線・巻向駅下車すぐ
【参考URL】http://www.makimukugaku.jp/