陳寿「魏志倭人伝」の風景(その3)

倭国の様子

前回まで(魏志倭人伝の風景その1その2参照)邪馬台国への旅をしてきましたが、今回の話題は倭人の風俗などについてです。倭人は顔や体に入れ墨をする風習があり、兵士は力強さを、祈祷師は神秘性を演出しました。また、上層階級の人は鮮やかな服をまとい、おしゃれを楽しんでいたようです。新鮮な刺身を食べ、お酒も好む!そんな現在につながる倭人の姿を追っていきましょう。

出典:ウィキペディア・魏志倭人伝、新訂 魏志倭人伝(石原道博編訳)を踏まえた日本語訳、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

倭人の風俗(入墨など)

「男子は大小に拘わらず、みな顔や体に入墨をする。」
以下には島根県米子市の「井手挟3号墳」から出土した盾持人の埴輪の写真を引用させていただきました。「盾持人」は古墳の縁を取り囲み、埋葬者を守る役目を担っていたと考えられています。こちらは目の下から口にかけて入れ墨が施され、少し微笑んでいるようにも見えます。

「古代からこのかた、その使者が中国に訪問すると、みな自ら大夫(卿の下、士の上の位)と称する。
夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んで身を沈めて魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。諸国の入墨は各々異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある。」
以下に引用させていただいた2つの埴輪(上は奈良県天理市・小墓古墳の出土品、下は群馬県太田市・塚周り古墳群の出土品)も盾持人を模したものです。こちらも入れ墨(あるいはペイント)の模様に特徴があり、地域により多彩なバリエーションがあったことがわかります。

出典:Saigen Jiro, Public domain, via Wikimedia Commons、小墓古墳出土 埴輪 盾持人
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%B0%8F%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E5%9F%B4%E8%BC%AA_%E7%9B%BE%E6%8C%81%E4%BA%BA.JPG

また、下にはメトロポリタン美術館が所蔵する祈祷師の埴輪の写真も引用いたしました。目の脇や口の下に入れ墨のようなものを施すことにより、神秘的な雰囲気を演出しているようにもみえます。

出典:Metropolitan Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons、埴輪祈祷師像
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%9F%B4%E8%BC%AA%E7%A5%88%E7%A5%B7%E5%B8%AB%E5%83%8F-Haniwa_(Hollow_Clay_Sculpture)_of_a_Shaman_MET_DT10526.jpg

邪馬台国の位置についての記述

「その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。」
ここで再び邪馬台国の位置についての記述となります。
會稽の東治は現在の福州の市街地とのこと。以下の地図を参照するとその東方には沖縄本島や宮古島などが見えます。当時、魏の南には敵対国である呉や蜀が存在していました。魏が卑弥呼に「親魏倭王」の印を与えた理由の一つとして、呉や蜀を挟み撃ちにできる同盟国として期待したとの見解もあるようです。

倭人の服装や髪型

「その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。」

出典:English: Abasaa日本語: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons、弥生人の衣装
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yayoi_people_attires.JPG

上には吉野ヶ里遺跡公園で展示されている弥生人の衣装の写真を引用いたしました。「中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている」という衣装は向かって左側の貫頭衣のことと思われます。庶民はこちらのようなシンプルな着衣でしたが、上層階級になると右側のような染色を施したファッション性の高い服を着ていたようです。

ほかにも弥生時代のファッションについてはさまざまな推測がされていて、上に引用させていただいたようなバリエーションもあります。こちらは愛知県埋蔵文化財センターが保管する復元された王族衣装(成人男性と巫女)とのことです。

上には人骨から復元された弥生時代の女性の写真を引用させていただきました。二重まぶたで目が大きく、現代の街を歩いていても弥生人とは気づかないと思われます。

栽培・家畜・武器

「稲・いちび・紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。
その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
兵器には、矛・盾・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である。」

出典:Bicéphal, Public domain, via Wikimedia Commons、和弓を引いたイラスト
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:YumiKai.gif

上には和弓の引き方のイラストを引用いたしました。一見、バランスが悪いようにみえますが、握りの位置が弓の震動の節にあたるため振動を受けにくく、安定して射られるというメリットがあるそうです。
「風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある。」

こちらの2つの郡(儋耳・朱崖)は双方とも海南島にあった地名で、上「會稽の東治」の近くに当たります。

食事の内容や作法

「倭の地は温暖で、冬も夏も火を通さず生食する。みな、裸足である。
家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。飲食では高坏(たかつき)を用い、手で食べる。」

出典:ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons、高杯(弥生土器)船橋遺跡出土
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%AB%98%E6%9D%AF%EF%BC%88%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%9C%9F%E5%99%A8%EF%BC%89%E8%88%B9%E6%A9%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F.jpg

上には大阪府柏原市・藤井寺市の船橋遺跡から出土した高杯の写真を引用いたしました。弥生時代中期(前2~前1世紀)に使われたものとのことです。

また、高杯などを用いた食事のイラストも引用させていただきます。定住生活により米の収穫が安定し、「ご飯におかず」という食事スタイルができたとのこと。発掘された高杯にもお米がたっぷり盛られていたでしょうか。

葬祭について

「人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて川水中で体を清める。これは練沐のようである。」
以下には吉野ヶ里遺跡に再現された甕棺墓所の写真を引用いたしました。こちらの周辺に泣き叫ぶ喪主や、酒を飲んで踊る近所の人々などを置いてみましょう。

出典:English: Abasaa日本語: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓列(発掘場所の真上に同じ並びで再現されたもの)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Burial_Jar_Rows_Resting_Place_(Yoshinogari_Site).JPG

「倭の者が中国に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が𠮷善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。
真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には柟(だん。クス)、杼(ちょ。トチ)、櫲樟(よしょう。クスノキ)・楺(ぼう。ボケ)・櫪(れき。クヌギ)・投橿(とうきょう。カシ)・烏号(うごう。ヤマグワ)・楓香(ふうこう。オカツラ)がある。竹には篠(じょう)・簳(かん。ヤタケ)・桃支(とうし。カヅラダケ)がある。薑(きょう。ショウガ)・橘(きつ。タチバナ)・椒(しょう。サンショウ)・蘘荷(じょうか。ミョウガ)があるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない。猿、黒雉がいる。」

出典:鳥羽商工会議所, Attribution, via Wikimedia Commons、ヤマトタチバナの実
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A%E3%81%AE%E5%AE%9F.jpg

上には日本に古くから自生するタチバナの写真を引用いたしました。酸味が強いため生食用には向きませんが、マーマレードなどの加工品の材料として使われるとのことです。また、日向夏や黄金柑などの日本産柑橘のルーツであるともいわれています(ウィキペディア・タチバナ
「その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。」

上には「卜骨」の写真を引用させていただきます。それぞれの骨で何を占って、どのような結果を得たのか?また、その占いが当たったかどうかも気になるところです。

人々の生活

「その会同・起坐には、父子男女の別は無い。人は酒好きである。大人の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(膝まづき拝する)の代わりにする。人は長生きで、あるいは百歳、あるいは八十、九十歳。
風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。身分の上下によって、各々差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。」
邪馬台国のころ、大人(支配者)・下戸(一般人)・生口(奴隷)の3つの身分に分かれていたとされています。以下の写真は大人のなかでも最上位の身分にあった王の家を再現したものです(吉野ヶ里遺跡)。ここでは後ろの物見櫓に入れ墨をした盾持人が立ち、周辺ににらみを利かせているところをイメージしてみましょう。

出典:写真AC、吉野ヶ里歴史公園「南内郭・王の家と物見櫓」
https://www.photo-ac.com/main/detail/4748850

「租賦(ねんぐ)を収める邸閣が有った。」
吉野ヶ里遺跡には邸閣としての役割を担った「高床式倉庫」も再現されています。以下に引用いたしました。

出典:写真AC、甕棺墓列と高床倉庫火 吉野ヶ里歴史公園
https://www.photo-ac.com/main/detail/25668541&title=%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93%E5%88%97%E3%81%A8%E9%AB%98%E5%BA%8A%E5%80%89%E5%BA%AB%E7%81%AB+%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%AC%E5%9C%92

最後にむきばんだ史跡公園が制作された「弥生時代のくらし」という動画を引用させていただきました。米の収穫時期の1日がストーリー仕立てで分かりやすく描かれています。

旅行などの情報

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡は本記事のなかで何度も登場していただきました。上では王などの大人(上層階級)の居住区(南内郭)の写真を掲載いたしましたが、以下のような下戸(一般の人々)が住むエリアも再現されています。こちらのエリアには壕などの防御施設の跡はなく、竪穴住居3、4棟当たり共同の高床倉庫が1棟設けられていたとのことです。

出典:写真AC、吉野ヶ里歴史公園「南のムラ」
https://www.photo-ac.com/main/detail/4424147

ほかにも祭りや儀式を行った北内郭エリアや、上でも紹介した甕棺墓列の復元エリアなど見どころがたくさんあります。敷地内には古代米(赤米)を使った弥生時代風のメニューを提供するレストランもあるので、休憩をはさみながら当時の世界観に浸ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
【アクセス】JR吉野ヶ里公園駅から徒歩約15分
【参考URL】https://www.yoshinogari.jp