太宰治「津軽」の風景(その2)

青年の日の津軽

今回は故郷の思い出を語る「序編」後編の風景を追っていきましょう。津軽藩主が通った「大鰐温泉」は江戸の風情が残る太宰もお気に入りの場所でした。そして弘前の街は三年間の高校生活を送ったところです。ここで彼は義太夫に夢中になり、芝居の役者のような格好をして芸者遊びをするなど荒れた生活を送ることになります。

出典:青空文庫、津軽、底本: 太宰治全集第六巻、出版社: 筑摩書房、入力: 八巻美恵氏
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html

序編(続き)

大鰐温泉

「津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡つてゐるやうである。」
下には昭和6年ごろの大鰐スキー場の写真を引用いたしました。

出典:忠誠堂編輯部 編『日本名勝風俗大写真帖』,忠誠堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526 (参照 2025-11-18)、大鰐スキー場
https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526/1/46

「山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにほひが幽かに残つてゐた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行つたが、浅虫ほど鮮明な思ひ出は残つてゐない。けれども、浅虫のかずかずの思ひ出は、鮮やかであると同時に、その思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へないのに較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しい。」
下にはATV青森テレビのふるさと歴史館より「大鰐温泉」の動画を引用させていただきました。以下のような場面があります。
0:15、弘前藩主も訪れた歴史の長い温泉
0:25、大鰐スキー場での競技大会
0:50、相生橋下の川の画像。こちらで太宰も遊んだでしょうか?
1:00、太宰の実家(津島家)が常宿とした「ヤマニ仙遊館」の画像。太宰も川を眺めながら涼んでいたかもしれません。

「海と山の差異であらうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のやうに都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがするであらうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まづ、私にとつてたのみの綱である。」
下には明治30年に建てられた「ヤマニ仙遊館」本館の写真を公式SNSから引用させていただきました。

また、下には大鰐温泉郷の全景写真を引用いたしました。大正4年頃に撮影された写真で橋のたもと(右側)にはヤマニ仙遊館が写っています。

出典:青森県庁公式サイト、青森県近現代史の玉手箱04「橋と川の街~大鰐温泉」
https://www.pref.aomori.lg.jp/

「また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関といふところがあつて、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがつてこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残つてゐるに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思はれぬ。」

「碇ヶ関関所」は「道の駅いかりがせき」に移築され、「関所所資料館」として公開されています。上には道の駅内に再現された関所の門付近のストリートビューを引用いたしました。
「さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなほ天守閣をそつくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇つてゐる事である。この弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔ひするなどの事はあるまいと私は思ひ込んでゐたいのである。」

弘前

「弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。」
以下には昭和6年ごろの弘前城の写真を引用いたしました。江戸時代(1715年)、当時の津軽藩主が桜の苗を植栽したのが桜の名所のはじまりとのことです。

出典:忠誠堂編輯部 編『日本名勝風俗大写真帖』,忠誠堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526 (参照 2025-11-18)、弘前公園内の天守閣と附近の桜花
https://dl.ndl.go.jp/pid/12984526/1/46

「それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。」

上のストリートビューは太宰治(津島修治)が旧制弘前高校時代を過ごした旧藤田家住宅です。藤田家は津島家の親戚筋にあたり、現在は「太宰治まなびの家」として公開されています。太宰が暮らした部屋とともに机や茶だんすなども当時のまま残っているとのこと、以下には公式SNSから部屋の写真を引用させていただきました。

「私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思つてゐる。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。」
下には昭和3年から4年にかけての弘前高等在学生名簿を引用いたしました。下段の左から6番目に太宰の名前(津島修治)が見えます。

出典:『弘前高等学校一覧』(自昭和3年4月至昭和4年3月),弘前高等学校,昭和2-6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1280442 (参照 2025-11-19)、生徒及卒業生・生徒氏名
https://dl.ndl.go.jp/pid/1280442/1/120

以下には、弘前時代の太宰についての動画(ATV青森テレビ・ふるさと歴史館)を引用させていただきました。こちらには以下のようなシーンがあります。
1:20、「太宰治まなびの家」の太宰の部屋は障子や壁以外は当時のまま残っている
2:00、芥川龍之介にあこがれ、同じポーズの写真が残っているほどでしたが、芥川が自殺したことにショックを受け、生活が荒れていきました。

「私も、いちど聞きに行つたが、まちの旦那たちが、ちやんと裃(かみしも)を着て、真面目に義太夫を唸つてゐる。いづれもあまり、上手ではなかつたが、少しも気障(きざ)なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。青森市にも昔から粋人が少くなかつたやうであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言はれたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用ゐてゐる抜け目のない人さへあるらしく、つまらない芸事に何といふ事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致してゐるこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしいのである。永慶軍記といふ古書にも、『奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。』といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。私もまた、ここに三年ゐたおかげで、ひどく懐古的になつて、義太夫に熱中してみたり、また、次のやうな浪曼性を発揮するやうな男になつた。次の文章は、私の昔の小説の一節であつて、やはりおどけた虚構には違ひないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まづこんなものであつた、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。」

ふたたび「おしゃれ童子」からの引用が入ります。上には弘前高校時代の太宰の写真を引用させていただきました。こちらは下宿していた藤田家(太宰治まなびの家)で撮影されたものです。
「『喫茶店で、葡萄酒飲んでゐるうちは、よかつたのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはひつていつて芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思ひませんでした。粋な、やくざなふるまひは、つねに最も高尚な趣味であると信じてゐました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行つてゐるうちに、少年のお洒落の本能はまたもむつくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、けふはめつぽふ、きれえぢやねえか、などと言つてみたく、ワクワクしながら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはひりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、かう懐手して歩くと、いつぱしの、やくざに見えます。角帯も買ひました。締め上げるときゆつと鳴る博多の帯です。唐桟(たうざん)の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらへてもらひました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店たなものだか、わけのわからぬ服装になつてしまひました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与へるやうな服装だつたら、少年はそれで満足なのでした。』」
「腹掛」は「胸当て付きの短いエプロンのような形状」で腹部には「どんぶり」と呼ぶ大きなポケットが付いているとのこと、お祭りや人力車の車夫の衣装としても使われています(ウィキペディア・腹掛け)。
また、「唐桟(たうざん)」は「桟留縞」とも呼ばれ、細手の綿糸を用いた高級織物で、縦縞のものが多かったようです(ウィキペディア・唐桟)。
以下にはこれらのキーワードをもとにAIが生成した画像を引用いたします。なお、「腹掛け」はランニングシャツに変え、太宰が敬愛した芥川龍之介の有名なポーズをとってもらいました。

出典:Google Gemini 2.5 Flashにより生成された画像、『紺色のランニングの上に縞模様の着物を羽織り、素足に麻裏草履をはいた20歳くらいの青年』、生成日:2025年11月19日」

「おしゃれ童子」からの引用は続きます。
「『初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかつたのですが、ふと少年は妙なことを考へました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピツチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいてゐるやうですけれど、あれを欲しいと思ひました。ひよつとこめ、と言つて、ぱつと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買ひ求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいてゐるぢやないか、ぴちつとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑ひながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、たうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行つてお聞きになると、ひよつとしたらわかるかも知れません、といいこと教へられ、なるほど消防とは気がつかなかつた。鳶の者と言へば、火消しのことで、いまで言へば消防だ、なるほど道理だ、と勢ひ附いて、その教へられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏まとひもあります。なんだか心細くなつて、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答へて持つて来たものは、紺の木綿の股引には、ちがひ無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれてゐました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかつたのです。』
さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になつた。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎(えのき)小路、とは言はなかつたかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなつてはつきりしないが、お宮の坂の下の、榎(えのき)小路、といふところだつたと覚えてゐる。」
以下のストリートビューの奥に向かって伸びる細い道が「榎小路」です。昭和期は周辺に映画館が5つもある繁華街でしたが、当時を偲べる建物はほとんど残っていません。

「また、紺の股引を買ひに汗だくで歩き廻つたところは、土手(どて)町といふ城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてゐる。これも同様のやうに思はれる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はつきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
 けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言つて教へてゐる。『自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。』


以下には弘前の繁華街として挙げられている「土手町」の大正時代の写真です。こちらに「紺の股引」を求めて歩き回る太宰を置いてみましょう。

「歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言つてよいくらゐにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしてゐるのだらう。ひらき直つて言ふまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言つてもいいくらゐのものなのだ。全国に誇り得るどのやうな歴史を有してゐるのか。近くは明治御維新の時だつて、この藩からどのやうな勤皇家が出たか。藩の態度はどうであつたか。露骨に言へば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかつたか。どこにいつたい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしてゐる。さうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であつたといふ話を聞いてゐる。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすくさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言ふのがわかつてゐたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたといふやうな話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このやうな伝説が起るのも無理がないと思はれるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ。何を隠さう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あつて、そのためばかりでもなからうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにゐるのだ。数年前、私は或る雑誌社から『故郷に贈る言葉』を求められて、その返答に曰く、
 汝を愛し、汝を憎む。」
弘前藩士の家に生まれて陸軍大将にまで昇進し、引退後には明治神宮宮司も務めた一戸兵衛の写真を引用いたしました(前列左端)。こちらは日露戦争に少将として出征したときのもので、大山巌(元帥陸軍大将)や乃木希典(陸軍大将)などの姿もあります。

出典:軍人会館事業部, 相馬基 編『日露戦役回顧写真帖』,軍人会館事業部,1935.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1908202 (参照 2025-11-20)、総司令官大山元帥の一行と軍司令官幕僚各師団長の会合(前列向かって左端が一戸兵衛
https://dl.ndl.go.jp/pid/1908202/1/52

「だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。謂はば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このやうに津軽の悪口を言ふのである。他国の人が、もし私のこのやうな悪口を聞いて、さうして安易に津軽を見くびつたら、私はやつぱり不愉快に思ふだらう。なんと言つても、私は津軽を愛してゐるのだから。

 弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ。」
下には最勝寺五重塔の写真を引用いたしました。
こちらは津軽藩の初代藩主・為信が、津軽統一の際に戦死した敵味方すべての人を供養するために建立した建物です。

出典:青森県 編『青森県写真帖』,青森県,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/966069 (参照 2025-11-20)、最勝院五重塔
https://dl.ndl.go.jp/pid/966069/1/19

「弘前師団の司令部がある。お山参詣と言つて、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まづざつとそのやうな事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当つて、それだけでは、どうしても不服なのである。」
以下にはRAB青森放送による岩木山お山参詣(1969年)の動画を引用させていただきました。

「それゆゑ、あれこれと年少の頃の記憶をたどり、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかつたのであるが、どれもこれも、たわい無い思ひ出ばかりで、うまくゆかず、たうとう自分にも思ひがけなかつたひどい悪口など出て来て、作者みづから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだはりすぎてゐるのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限つた事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれてゐるではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控へてゐるからとて、大鰐温泉が津軽の匂ひを保守できるとは、きまつてゐないではないか。弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、とついさつき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考へて、考へつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないやうな気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いつたいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。私は決して青森市を特にきらつてゐるわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐるものに、加勢したいのは自然の人情である。」
青森エリアは明治4年の廃藩置県により「弘前県」となりますが(7月)、わずか2か月後には青森に県庁が移され、青森県となった経緯があります。下には明治元年からの県内エリア統合の様子を示す模式図を引用いたしました。

出典:青森県総務部統計課 著『青森県勢要覧』昭和11年版,青森県総務部統計課,昭11至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1451397 (参照 2025-11-20)、https://dl.ndl.go.jp/pid/1451397/1/11

「私は何とかして弘前市の肩を持つてやりたく、まつたく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来なかつた。重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はつきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。

あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼(こもりぬ)」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。とは言つても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持つてゐるから稀代の名城なのだ、といまになつては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、さうして白壁の天守閣が無言で立つてゐるとしたら、その城は必ず天下の名城にちがひない。さうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失ふ事は無いであらうと、ちかごろの言葉で言へば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。」
以下の弘前城の蓮池周辺のストリートビューでは弘前の街並みや岩木山の雄姿を眺めることができます。太宰もこちらのような風景をみていたでしょうか。

「思へば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開しながら、また、身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考へると、おのづから憂鬱にならざるを得ない。罪万死に当るべき暴言を吐いてゐるかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かへつて私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当つて、私は決して適任者ではなかつたといふ事を、いま、はつきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語らう。」

序編の結び

「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、といふ序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依つて、まつたく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかつたのである。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の私に、なつかしい思ひ出として色濃く残つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとつて、なかなか重大の事件であつたと言はざるを得ない。」
下には金木の生家(斜陽館)の二階の洋室の写真を引用いたしました。左側の長椅子で太宰がサイダーをラッパ飲みする様子をイメージしてみましょう。

出典:Ippukucho, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、太宰治記念館 「斜陽館」二階の様子 2F
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ShayokanIndoor4.JPG

「東京の、すぐ上の兄」圭治は以下の津島兄弟の写真では左端に写っています。前回紹介した弟・礼治だけでなく(津軽の風景その1・参照)尊敬していた圭治を失ったことは太宰にに衝撃を与えました。

出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons、津島家の兄弟たち(左から、圭治、礼治、文治、修治(後の太宰治)、英治)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsushimabrothers1923.png

「私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知つたかぶりの意見は避けたいと思ふ。私がそれを言つたところで、所詮は、一夜勉強の恥づかしい軽薄の鍍金めつきである。それらに就いて、くはしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。」

旅行などの情報

ヤマニ仙遊館

ヤマニ仙遊館は太宰治の実家・津島家が定宿としていた温泉旅館です。明治5年に営業開始し、明治30年に建てられた本館は登録有形文化財にも登録されています。橋の欄干越しではありますが下にストリートビューを引用させていただきました。こちらでは太宰の頃と同じく、平川を眺めながらゆったりとした湯上りの時間を過ごすことができます。

お湯は無色透明の刺激の少ない泉質で、効能は疲労回復や神経痛の改善、お肌の保湿や弾力アップなど。また、2022年には大正時代の浴場を参考にしたタイル張りの「浪漫の泉」が完成し、レトロな雰囲気を楽しめると評判です。

基本情報

【住所】青森県南津軽郡大鰐町蔵館村岡47-1
【アクセス】JR大鰐温泉駅から徒歩約12分
【参考URL】https://senyukan.com/

弘前公園

「津軽」では何度も話題になっている弘前のシンボル「弘前城」を中心とした公園です。弘前藩の藩主津軽家の居城だったところで、こちらには短い間ですが弘前県の県庁が置かれていました。三層の天守は現存天守の一つに数えられ、国内に12城のみ、東北地方では唯一の貴重な建物です。ほかにも五棟の城門や三棟の隅櫓なども当時の姿をとどめていて、重要文化財に指定されています。

こちらの見どころはお城だけではありません。春には「さくらまつり」、秋は「菊と紅葉まつり」、冬は「雪燈籠まつり」など、季節ごとのイベントが行われるのも魅力です。上には参考のため2025年2月に開催された「雪燈籠まつり」のポスターを引用させていただきました。

基本情報

【住所】青森県弘前市下白銀町1
【アクセス】JR弘前駅からバスに乗り換え「市役所前公園入り口」で下車、徒歩約10分
【参考URL】https://www.hirosakipark.jp/