夏目漱石「坊っちゃん」の風景(その2)
四国にて
中学校教員として赴任してきた坊っちゃん(坊っちゃんの風景その1・参照)は、松山市の三津浜港に上陸、「マッチ箱のような汽車」で市内に向かいました。校長から紹介された中学校の教員たちはクセが強く、早速「赤シャツ」や「野だいこ」などのあだ名をつけていきます。同じ数学担当の「山嵐」は面倒見がよく、丘の中腹にある閑静な下宿を周旋してくれました。
三津浜に上陸
「ぶうと云いって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。」
坊っちゃんは当時、松山最大の外港であった三津浜港に到着します。下には昭和初期の三津浜の写真を引用しました。なお、三津浜港は遠浅であったため大型の汽船は沖に停泊させ、そこから先は「はしけ」を使って運んでいたようです。
出典:不明, Public domain, via Wikimedia Commons、三津浜海水浴場(大煙突は煉瓦会社)、1929年
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E4%B8%89%E6%B4%A5%E6%B5%9C%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E6%B5%B4%E5%A0%B4%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%85%99%E7%AA%81%E3%81%AF%E7%85%89%E7%93%A6%E4%BC%9A%E7%A4%BE%EF%BC%89.jpg
ここでは写真のなかの小船をはしけに見立て、以下の様子を想像してみましょう。
「陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。」
なお、同シーンは「漫画坊っちゃん」では以下のように描かれています。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/11
港近くの宿で中学校の場所を尋ねると、汽車で二里ほどの距離があるとのことでした。
「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。」
以下には明治時代の三津駅の写真を引用しました。こちらの駅に二つの革鞄(かばん)を持って入って行く「坊っちゃん」を置いてみましょう。
出典:毎日写真ニュースサービス社 『坊ちゃん列車と伊予鉄道の歩み』 伊予鉄道株式会社、1977年, Public domain, via Wikimedia Commons、 明治期の三津駅
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%9C%9F%E3%81%AE%E4%B8%89%E6%B4%A5%E9%A7%85.jpg
当時、こちらの周辺では伊予鉄道が軽便鉄道を運行していました。こちらは中四国地方で最初の鉄道だったとのことです。そして小説「坊っちゃん」が有名になると、「マッチ箱のような汽車」は「坊っちゃん列車」と呼ばれるようになっていきます。下には昭和初期の「坊っちゃん列車」の写真を引用いたしました。
出典:伊豫鐵道電氣, Public domain, via Wikimedia Commons、伊予鉄道伊予立花駅(現:いよ立花駅)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:IYOTATCHIBANAST1930.JPG
ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。随分気楽な宿直がいるものだ。」
下には明治末期の松山中学校の写真を引用いたしました。
出典:虚子・碧梧桐生誕百年祭実行委員会 『松山案内』 松山市教育委員会社会教育課、1975年, Public domain, via Wikimedia Commons、松山中学校(1909年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%EF%BC%881909%E5%B9%B4%EF%BC%89.jpg
「校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。」
山城屋のモデルとなったのは「きどや旅館」とされています。漱石が赴任していたころの「きどや」は戦災で焼失してしまいましたが、戦後に再建されます。その後廃業し、解体されることになりますが、2012年のストリートビュー(下に引用)には、まだその姿を留めています。
「何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。」
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/12
上には「山城屋」で夕食をとる「坊っちゃん」の漫画を引用しました。以下の場面もイメージしてみましょう。
「給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。すると東京はよい所でございましょうと云ったから当り前だと答えてやった。膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞きこえた。」
初出勤
次の日、「道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り扱われる」ことを思い出した「坊っちゃん」は「下女」に五円を差し出し、旅館をでました。
「学校は昨日車で乗りつけたから、大概の見当は分っている。四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。門から玄関までは御影石で敷きつめてある。きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗に仰山な音がするので少し弱った。」
以下は二番町通りの旧松山中学正門付近に設置された「漱石先生のみち」看板の写真です(ストリートビューから引用)。こちらの写真には漱石先生も合成で登場しています。漱石の後ろが御影石の道でしょうか。
「途中から小倉の制服を着た生徒にたくさん逢ったが、みんなこの門をはいって行く。中にはおれより背が高くって強そうなのが居る。あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪るくなった。名刺を出したら校長室へ通した。校長は薄髯のある、色の黒い、目の大きな狸のような男である。やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれと云って、恭しく大きな印の捺った、辞令を渡した。」
以下には「狸」校長との初対面の漫画を引用いたしました。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/14
「挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣(しゃつ)を着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけにご苦労千万な服装なりをしたもんだ。・・・・・・当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂らえるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい」
また別の個所では赤シャツの顔について「盤台面(ばんだいづら)」と表現しています。平たくて大きい顔をあざけっていう言葉とのこと。
下に引用した赤シャツの挿絵は「坊っちゃん」の記述に沿って描かれています。なお、近年のドラマや映画では上下ともに洋装でコーディネートしていることが多いようです。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-10、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/15
「それから英語の教師に古賀とか云う大変顔色の悪い男が居た。大概顔の蒼い人は瘠せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。昔小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬(むくい)だと思う。」
同じく「漫画坊っちゃん」から「うらなり」の挿絵を引用いたします(下右端)。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-10、抜粋・結合)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/18
続いて、「坊っちゃん」の相棒となる「山嵐(上の挿絵中央)」。
「これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐やまあらしという渾名をつけてやった。」
挿絵の右端は
「画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。」
画学教師の本名は吉川といいますが、赤シャツの腰ぎんちゃくであることから「野だいこ」というあだなを付けられます。
宿の部屋がグレードアップ
挨拶を一通り終えると「坊っちゃん」は松山の街を散歩しながら宿に帰りました。
「それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の聯隊より立派でない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並はあれより落ちる。」
というように、なかなか辛辣な言い方をしています。以下には坊っちゃん(漱石)が見たと思われる県庁の写真を引用させていただきました。
出典:愛媛県議会公式サイト、元愛媛県庁舎(明治11年建築)
https://www.pref.ehime.jp/
宿に戻ってみると、
「帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰り……と板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五畳の表二階で大きな床の間がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大の字に寝てみた。いい心持ちである。」
早速、その日の朝、「下女」に渡した五円の効果が表れたようです。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-13、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/19
「坊っちゃん」は「清」に以下のような手紙をしたためると、再び大の字になって昼寝をしました。
「きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら」
「山嵐」の周旋で引っ越し
「この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、山嵐がはいって来た。」
とのこと。
数学主任「山嵐」の用件は「坊っちゃん」に受け持ちのことや授業についての説明をすることでした。
そして、こうもいいます。
「君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、僕がいい下宿を周旋してやるから移りたまえ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。・・・・・・山嵐はともかくもいっしょに来てみろと云うから、行った。町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀と云う男で、・・・・・・」
「いか銀」のモデルは、骨董商の津田保吉が経営する小料理屋「愛松亭」でした。現在、建物は残っていませんが、下のストリートビューのように「愛松亭跡」の記念碑が建てられています。
「とうとう明日から引き移る事にした。帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。ただおれと同じようにせっかちで肝癪持ちらしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。」
旅行などの情報
坊っちゃん列車
伊予鉄道の蒸気機関車は「坊っちゃん列車」の愛称で親しまれていましたが、電化に伴い昭和29年(明治21年~)でその姿を消しました。そして、2001年に当時の姿をディーゼルエンジンで再現したのが現在の「坊っちゃん列車」です。以下には伊予鉄公式インスタグラムに投稿された「坊っちゃん列車」の写真を引用させていただきました。
JR松山駅や松山市駅、大街道、道後温泉などの主要ポイントに停車をするので、観光の手段としても利用しやすくなっています。運行は土・日・祝日のみとなっているのでご注意ください!また、松山市駅前には伊予鉄1号機関車の原寸大レプリカを展示する「坊っちゃん列車ミュージアム」もあるので、こちらにも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
基本情報
【住所】愛媛県松山市湊町4-4-1伊予鉄グループ本社ビル1F(坊っちゃん列車ミュージアム)
【アクセス】松山市駅から徒歩で約3分
【参考URL】https://www.iyotetsu.co.jp/
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