夏目漱石「坊っちゃん」の風景(その3)
生徒たちのいたずらと下宿での骨董責め
今回は「坊っちゃん」が初めての授業に臨むところから始めましょう。生徒たちは東京出身の「坊っちゃん」のふるまいを面白おかしく黒板に書き留めます。いたずらはさらにエスカレートして、寄宿舎でのバッタ騒動にまで発展!また「山嵐」から紹介された下宿(坊っちゃんの風景その2・参照)では、主人がひんぱんに骨董品の勧誘にくるのにも閉口しました。
初めての授業
「いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には応えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。・・・・・・別段困った質問も掛けられずに済んだ。控所へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。」
出典:愛媛スクールネット公式サイト、明治29年松山中学卒業写真
(前から3列目左から2番目が夏目漱石)
https://ehime-c.esnet.ed.jp/soumu/kouhouehime/22kouhou_180/osirase/oshirase.html
上には漱石が松山中学の卒業生とともに撮影した写真を引用させていただきました。当時の(旧制)中学校は五年制なので卒業生の年齢は17歳前後です。そのため、写真の中には漱石よりも体の大きそうな生徒たちが映っています。
「二時間目に白墨を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込こむような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。おれは江戸っ子で華奢に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押しが利かない。・・・・・・しかしこんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。・・・・・・一番前の列の真中に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。・・・・・・『あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし』と云った。・・・・・・早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等の言葉は使えない、分わからなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。・・・・・・」
骨とうの勧誘
教師としての仕事よりもやっかいだったのが、下宿の亭主による骨董品の売り付けでした。
「それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやって来る。お茶を入れると云うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうを一人で履行しているかも知れない。」
下には「漫画坊っちゃん」から下宿のシーンを抜粋いたしました。奥が「坊っちゃん」、手前が骨董品を売りにきた下宿の主人です。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-14、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/27
「亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない勧誘をやる。・・・・・・」
とのこと。
例えば以下のようなものを売り付けにきます。
「今度は華山とか何とか云う男の花鳥の掛物をもって来た。自分で床の間へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減に挨拶をすると、華山には二人ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと催促をする。金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固だ。」
出典:Yokoyama Kazan, Public domain, via Wikimedia Commons、Cranes and Pines、1836
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Brooklyn_Museum_-_Cranes_and_Pines_-_Yokoyama_Kazan.jpg
二人の崋山とは「渡辺崋山」と「横山崋山」のことで、「いか銀」が持ってきたのは「横山崋山」の書画でした。現在はあまり知られていませんが、江戸時代後期の絵師で当時は人気が高かったとのことです。上には「横山崋山」の作品の一つを引用いたしました。
「金があつても買わないんだと、その時は追っ払っちまった。・・・・・・学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責めに逢ってはとても長く続きそうにない。」
天麩羅事件
下宿だけでなく、学校も不穏な雰囲気になっていきます。
「そのうち学校もいやになった。 ある日の晩大町と云う所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。おれは蕎麦が大好きである。・・・・・・今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。・・・・・・ねだん付の第一号に天麩羅とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。するとこの時まで隅の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。」
こちらのシーンは漱石の同僚で「坊っちゃん」のモデルとされる数学教師・弘中又一氏の体験に基づいています。ただ、弘中氏が四杯食べたのは「天麩羅蕎麦」でなく「しっぽく」だったとのこと。当時の松山中学では「一つ 弘中シッポクさん・・・・・・(七つ 夏目の鬼瓦)」という数え歌が流行ったといいます。
以下には「天麩羅蕎麦」関連のエピソードを、「伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石」から引用してみましょう。
“大町”の蕎麦屋で天麩羅を四杯平げた坊っちゃん、“翌日何の気もなく教塲へ這入ると、黒板一杯位な字で天麩羅先生と書いてある。・・・・・・”の天麩羅問題は、もちろん弘中しっぽくさんがモデルである。その“手記”にはかうある。僕が小唐人町と港町一丁目の角のうどんやでしっぽくを四杯食ったら、シッポク四杯なりと黒板に書かれた。小説では漱石が自分の好きな天麩羅蕎麦に改めてる。・・・・・・大町すなはち大街道の亀屋うどんがその材料になっている。ところが當時の亀屋うどんは、“手記”にもある通り、大街道と港町の交叉点で、港町の方に面してゐたといふことである。大街道にはいまの新榮座の向側には石風呂と稱するうどん屋があったそうだ。漱石先生が行ったのは多分この石風呂の方だらうとのこと。こゝでもモデルがチャンポンになってゐるやうだ。
出典:曽我正堂 著『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』,三好文成堂,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622 (参照 2025-01-14、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622/1/21
下には、当時、松山で有数の人気うどん店だった「亀屋うどん」の写真を引用いたしました。ここでは三階建ての立派な建物のなかで、弘中氏が四杯のしっぽくを平らげているところをイメージしてみましょう。
出典:東俊造 編『松山案内 : 附・道後高浜三津郡中』,松山市勧業協会,明42.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/766523 (参照 2025-01-15、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/766523/1/94
一部繰り返しになりますが「坊っちゃん」から引用してみましょう。
「翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑しいかと聞いた。すると生徒の一人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。」
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-15、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/23
「十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせばいたずらだ。・・・・・・おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。・・・・・・余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。・・・・・・」
団子事件
うどん(蕎麦)だけでなく、団子を食べるところも目撃されます。
「四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。」
出典:道後温泉事務所 編『道後温泉誌』,道後温泉事務所,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947864 (参照 2025-01-14、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/947864/1/10
上には道後温泉の近くにあった松ヶ枝遊郭の門付近の写真を引用しました。また、曽我正堂氏の著作によると団子屋は門の右側のほうにあったとのこと。団子の価格についてのエピソードも挿入されています。
漱石は道後遊郭の門の右で湯晒團子二個食って五銭拂った。やはり黒板に書かれて、遊郭の團子ウマイウマイと御丁寧にポンチ絵まで添えられたが、團子がよほど甘かったから五銭では安いと思ったか、小説では七銭に値上げしてゐる。
出典:曽我正堂 著『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』,三好文成堂,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622 (参照 2025-01-15)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622/1/22
「今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払はらった。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。」
出典:曽我正堂 著『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』,三好文成堂,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622 (参照 2025-01-14、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094622/1/41
なお、漱石(=坊っちゃん)が食べたのはシンプルな湯晒団子(ゆざらしだんご)でしたが、お店(つぼや菓子舗)の二代目店主により三色の「坊っちゃん団子」が開発されました(上に昭和初期の広告を引用)。こちらは現在も松山の名物として人気を博しています。
坊っちゃん泳ぐべからず
「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。」
「住田の温泉」とは道後温泉のこと、松山のなかにあって「坊っちゃん」がほめる数少ない施設です。なお、道後温泉本館の建物は漱石がこちらに赴任する前年に竣工したばかりでした。まだ新築の木や畳の匂いが漂っていたかもしれません。
出典:道後温泉事務所 編『道後温泉誌』,道後温泉事務所,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947864 (参照 2025-01-14、一部抜粋)、道後温泉塲
https://dl.ndl.go.jp/pid/947864/1/6
「湯壺は花崗石を畳たたみ上げて、十五畳敷ぐらいの広さに仕切ってある。・・・・・・深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。」
下には「坊っちゃん泳ぐべからず(画面左中央)」の札が掛けられた道後温泉「神の湯」の写真を引用させていただきました。
「泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。
何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。」
バッタ事件
生徒たちのいたずらは、さらにエスカレートしていきます。宿直の日、「坊っちゃん」は道後温泉でひと汗流して学校に戻ってきます。
「それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになった。・・・・・・ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰つぶしたのが一つ、臍の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速起き上あがって、毛布をぱっと後ろへ抛ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。」
出典:『愛媛県立松山中学校一覧』明治43年9月,愛媛県立松山中学校,明39,43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/812595 (参照 2025-01-14、一部抜粋して矢印を追加)、本校舎略図
https://dl.ndl.go.jp/pid/812595/1/74
「坊っちゃん」はバッタを蒲団に入れたのは寄宿生たちと確信します。
「おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。」
上には明治時代の「松山中学校」の校舎略図を引用いたしました。上向きの矢印が宿直室、横の矢印が寄宿舎です。
「坊っちゃん」は寄宿生を問い詰めます。
坊っちゃん「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
生徒「バッタた何ぞな」
・・・・・・
坊っちゃん「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」
生徒「そりゃ、イナゴぞな、もし」
坊っちゃん「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」
生徒「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
坊っちゃん「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
生徒「誰も入れやせんがな」
坊っちゃん「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
生徒「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
坊っちゃん「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
生徒「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
下には「イナゴ」を見せながら談判する「坊っちゃん」と生徒の挿絵を引用いたしました。
出典:近藤浩一路 著『漫画坊つちやん』,新潮社,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976 (参照 2025-01-15、一部抜粋
)https://dl.ndl.go.jp/pid/1087976/1/30
「おれはこんな腐った了見の奴等と談判するのは胸糞悪わるいから、『そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ』と云って六人を逐っ放してやった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品なつもりだ。六人は悠々と引き揚げた。」
ところが、また床へはいって横になると以下のような騒動が起こります。
「突然とつぜんおれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の声が起こった。おれは何事が持ち上がったのかと驚いて飛び起きた。飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。・・・・・・
旅行などの情報
道後温泉本館
「道後温泉本館」は明治27年に竣工した施設で公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定されました。耐震化などのための改修工事が2024年に終了し、「千と千尋の神隠し」のモデルともされる美しい全貌を見ることができます。以下には道後温泉公式サイトの投稿を引用いたしました。泉質は体に優しい弱アルカリ性で湯治や美容にも適しています。
入浴プランは「坊っちゃん泳ぐべからず」の看板がある「神の湯」への入浴のみのシンプルなものから、「坊っちゃん」が利用した「上等」のように貸浴衣・貸タオル・貸バスタオルなどがセットになったプランまでバリエーション豊富です。詳細は公式サイトをチェックしてみてください。
基本情報
【住所】愛媛県松山市道後湯之町5番6号
【アクセス】道後温泉駅から徒歩で約5分
【参考URL】https://dogo.jp/