柳田国男「遠野物語」の風景(その7)

遠野の神々や幽霊話

馬と人間の娘の悲恋からうまれた「オシラサマ」は蚕の神様としても信仰されてきました。また、外で子供と遊ぶのが大好きな「カクラサマ」は、それを邪魔する大人に対して容赦をしません。ほかにも人(のようなもの)が垣根をすり抜けていったり、葬式の後に、外で仰向けに寝転んでいたりと不思議な目撃譚が続きます。

六九話(オシラサマの由来)

「今の土淵村には大同(だいどう)という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。」
「佐々木君」とは遠野物語の話者・佐々木喜善氏のことです。以下に写真を引用させていただきます。こちらのような不思議な現象を日常的に見て育った佐々木氏は遠野に伝わるファンタジックな話にも違和感を覚えませんでした。

「昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。」
伝統的な遠野の家屋「曲り家」は馬屋と母屋がL字状に一体化されていたため、簡単に往来ができました。下には馬屋の写真を引用させていただきます。

「或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧をもって後(うしろ)より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。」

以下には伝承園のオシラサマ祈願祭の投稿を引用させていただきました。千体のオシラサマを祀る御蚕神(オシラ)堂には遠野物語(六九話)をイメージできるパネルが飾られています(写真右下)。

「馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本(もと)にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎(ざいけごんじゅうろう)という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方(ゆくえ)を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。」

上には遠野で最も古いとされるオシラサマの写真を引用させていただきました。
「遠野物語六九話」には以下に引用させていただいたような後日譚(遠野物語拾遺第七七話)があり、オシラサマが蚕の神様となった由来となっています。なお、こちらのお話は中国の怪談「捜神記」にある「馬娘婚姻譚」を下敷きにしたと考えられています。

おひで婆様の語ったこの話の後日譚が『拾遺』第七七話にある。馬を恋した娘が、馬の首にすがって昇天し、一人あとに残す父が困らぬようにと、庭の臼の中で馬の頭をした白い虫(蚕)になるという話である。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P219

七〇話(オクナイサマ)

「同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて在(いま)す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石(はねいし)たにえという人の家なるは掛軸なり。田圃(たんぼ)のうちにいませるはまた木像なり。飯豊(いいで)の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。」

オシラサマ・オクナイサマの神像は、家によって同じ形ではなく、土淵町山口の辷石家のような掛軸のものがある家が遠野市内に十二戸ある。南無阿弥陀仏と六字名号を書いたものと、阿弥陀如来像、聖徳太子像、黒駒・孝養太子の画像のものがある。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P218

上の引用文のように遠野の家でお祀りする神様にはさまざまな形がありました。以下に引用させていただいたのは市立博物館に展示されている神様たちの写真です。遠野の人々は各々の神様に対し、それぞれの思いや言葉をかけながら毎日を過ごしていたと思われます。

七一話(隠し念仏)

「この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様(さま)かわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集まりなり。その人の数も多からず。辷石(はねいし)たにえという婦人などは同じ仲間なり。」
辷石たにえ(辷石谷江)さんは語り部でもあり、佐々木喜善氏は彼女から聞き取った話を「老媼夜譚」として出版しました。下には「老媼夜譚」に掲載されている辷石さんの写真を引用いたします。

出典:佐々木喜善 著『老媼夜譚』,郷土研究社,昭2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1464152 (参照 2025-05-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1464152/1/5

「阿弥陀仏の斎日(さいにち)には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷(きとう)す。魔法まじないを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。」
「注釈遠野物語」によると遠野周辺で流行した「念仏」は「隠し念仏」という「阿弥陀の本願を信じ、極楽に往生を遂げようとする信仰」だったとのこと。また、「喜善によれば、土淵村ではあ、旦那寺二軒(常堅寺・光岸寺)山伏修験の家二軒(正福院・喜楽院)を除いて、すべて隠し念仏の信者であったという。」ともあります(P231~233)。

七二~七四話(カクラサマ)

七二話
「栃内(とちない)村の字琴畑(ことばた)は深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬(こがらせ)川の支流の水上なり。これより栃内の民居まで二里を隔(へだ)つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨ざらしなり。これをカクラサマという。」

「村の子供これを玩物(もてあそびもの)にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。或(ある)いは子供を叱り戒めてこれを制止する者あれば、かえりて祟(たたり)を受け病むことありといえり。」
上には土淵町に残されるカクラサマの写真を引用させていただきました。まだまだ遊び足らないというお顔をなさっているようにみえます。

七三話
「カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多(あまた)あり。栃内の字西内(にしない)にもあり。山口分の大洞(おおほら)というところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭(いしょうかしら)の飾(かざり)のありさまも不分明なり。」
なお、「注釈遠野物語(P240)」ではカクラサマの一つとして「遠野町会下にある十王堂の古ぼけた仏像」を挙げています。以下には十王堂の仏像の写真を引用させていただきました。「十王様に混じって腕をもぎ取られ顔の判別も定かでないニ、三体の像」がカクラサマではないかとのこと。確かにこちらには十体以上の像が鎮座されています。

七四話
「栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削(あらけず)りの無恰好(ぶかっこう)なるものなり。されど人の顔なりということだけは分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に常(つね)います神をかく唱うることとなれり。」

第七二話にある、「琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり」の一文は、柳田が「道祖神とは縁が近さうだ」というように、いかにも集落の入口を守る道祖神(賽の神)の姿を彷彿とさせる。

出典:後藤総一郎(監修)、遠野常民大学(編著)、注釈遠野物語、筑摩書房、1997年、P239

カクラサマは家の神であるオシラサマやオクナイサマと違い、屋外に配置されることが多かったようです。以下には遠野の道祖神の写真を引用させていただきました。ここでは、村の入口で子供たちがカクラサマと遊んでいる様子を想像してみましょう。村の入口に多くの子供たちが集まることにより、外部から怪しい人物が侵入するのを防ぐ効果もあったかもしれません。

七七・七八話・八二話(幽霊の話)

「山口の田尻(たじり)長三郎というは土淵村一番の物持(ものもち)なり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし跡に、自分のみは話好きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落(あまお)ちの石を枕にして仰臥(ぎょうが)したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。」
「注釈遠野物語(P113)」によると「一般に遠野の民家では屋敷の雨落ちに石を並べる」とのことです。以下に引用した岩手県内の曲り屋の石を枕にしている男(幽霊?)の姿をイメージしてみましょう。

出典:妖精書士, CC0, via Wikimedia Commons、岩手県矢巾町、佐々木家曲家
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sasaki_Family_Magariya_House.jpg

「この人大胆者にて足にて揺(うご)かして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨(さまた)げて外(ほか)にせん方(かた)もなければ、ついにこれを跨(また)ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方(あとかた)もなく、また誰も外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚(みおぼ)えの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。」
このお話は二三話と同じく法事(葬式)の後の出来事です(遠野物語の風景その3・参照)。念仏を唱えることによって特殊な意識状態となり、通常は見えないものを感じ取れたのかもしれません。

七八話
「同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌(おおづち)往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽(ゆきがっぱ)を着たり。」
下には、俳人・随筆家の河東碧梧桐が全国旅行中に、遠野で餞別に貰った「雪合羽」を着用した写真を引用いたします(明治40年)。「浜の方よりくる人」もこのような姿をしていたかもしれません。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」、河東碧梧桐
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6393/

「近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと反(そ)れて行きたり。かしこには垣根(かきね)ありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は正(まさ)しくあり。」
下には大槌街道分岐(中央部に観光案内板)付近のストリートビューを引用いたしました。この道の先を進むと境木峠を経て太平洋に面した大槌町に至ります。「浜の方よりくる」とあるので、相手は写真の奥側からやってきました。ここでは暗闇のなか、雪合羽を着た男が垣根の向こうの畠に消えてゆくところを想像してみましょう。

「急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村(にいばりむら)の何某という者、浜よりの帰り途(みち)に馬より落ちて死したりとのことなり。」

八二話
「これは田尻丸吉という人が自ら遭(あ)いたることなり。少年の頃ある夜常居(じょうい)より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。」
下には遠野物語に掲載されている田尻家の間取り図を掲載いたしました。玄関を出て外の便所にいくために、常居(居間のこと)から「ウラノ茶ノマ」→「小ザシキ」→「ザシキ」というルートをたどったと仮定すると、この出来事は「ウラノ茶ノマ」と「小ザシキ」の間で起こったと考えられます。

出典:青空文庫、遠野物語
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html

「幽(かすか)に茫としてはあれど、衣類の縞(しま)も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触(さわ)りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように重なりて人の形あり。その顔のところへ手を遣ればまた手の上に顔見ゆ。常居(じょうい)に帰りて人々に話し、行灯(あんどん)を持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。」

なお、漫画・遠野物語において水木しげる氏は、まだ幼かった田尻丸吉に以下のような発言をさせ、ご自身もコメントを追加しています。

田尻丸吉「おかしいなあ」
水木先生「いや・・・・・・おかしくないね。幽霊は出たり消えたりするもんだ」

出典:水木しげる、水木しげるの遠野物語、小学館、2010年

八四話(異国人との接点)

「佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永(かえい)の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。」

「注釈遠野物語(P265)」によると、初めて遠野の人が表向きに異国人の姿を見たのは寛永二〇(一六四三)年の「オランダ船ブレスケンス号」だとしています。下にはもりおか歴史文化館の投稿を引用させていただきました。詳細は省略しますが、鎖国の時代、南部藩の港に寄港したオランダ船の船長など10名を捕え、大槌街道などを通って江戸に護送したとのこと(遠野で宿泊)。「喜善の祖先たちは初めて見る異国人の姿を強烈にとらえたに違いない」とあります。

「釜石(かまいし)にも山田にも西洋館あり。船越(ふなこし)の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇(ヤソ)教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔(はりつけ)になりたる者あり。」
明治時代になって開国し、キリスト教禁教令が解けたこともあり、遠野周辺にも多くの外国人がやってきます。例えば「明治七(一八七四)年に釜石に工部省鉱山寮釜石支庁がおかれ、官営製鉄所にイギリス人の技術者が出入りしていた。(注釈遠野物語P265~P266)」とのこと。以下には官営釜石製鉄所の高炉を改修して使った釜石鉱山田中製鉄所・30t高炉の写真を引用いたしました。

出典:traveler_ip, Public domain, via Wikimedia Commons、Tanaka iron works, Kamaishi mine
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tanaka_iron_works,_Kamaishi_mine_07.jpg

「浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗め合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合(あい)の子なかなか多かりしということなり。」

旅行などの情報

今回は趣向を変えて遠野のソウルフードを食べられるお店をご紹介します。「ひっつみ(岩手周辺のすいとんの名称)」や「馬肉」など江戸時代以前から食べられている名物もありますが、以下では「遠野ジンギスカン」と「五右衛門ラーメン」という昭和時代発祥のグルメを提供するお店をみていきましょう。

じんぎすかんあんべ

遠野では焼肉といえばジンギスカンというほどなじみの深い食べ物になっています。ジンギスカンが遠野の名物になったのは昭和22年、「あんべ」の初代店主が戦時中に満州で食べた羊肉料理の味を再現し、提供してからです。

新鮮なラム(仔羊)やマトン(成羊)を使っていることはもちろん、試行錯誤を経て昭和30年代につくりだされた秘伝のタレがお肉と相性抜群!ラムチョップやラム餃子、ラムハンバーグなど部位や加工の種類も豊富にあります。遠野のクラフトビール・ZUMONAと一緒にいただいてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】岩手県遠野市早瀬町2丁目4番12号
【アクセス】JR遠野駅から徒歩で約12分
【参考URL】https://www.anbe.jp/hpgen/HPB/entries/5.html

京屋(五右衛門ラーメン)

遠野名物となっている「五右衛門ラーメン」は元々、「喜楽」というお店が発祥とされています。「五右衛門ラーメン」の由来は、スープのピリ辛味により五右衛門風呂に入ったように汗をかくからとのことです。「喜楽」は閉店してしまいましたが、喜楽のご主人から直伝を受けたラーメンを提供しているのがこちらのお店です。

上に引用させていただいたようなしょうゆベースの比較的さっぱりしたスープですが、後からパンチの効いた辛さを感じられるのが特徴、外歩きやクーラーで冷えた体を暖めてくれます。細麺はスープとよく絡み、つるつとしたのどごしも楽しめるでしょう。炒飯とのセットメニューや餃子などのサイドメニュー豊富にあり旅行の腹ごしらえができます。

基本情報

【住所】岩手県遠野市土淵町土淵22-20-4
【アクセス】JR遠野駅から車で約10分
【参考URL】https://www.instagram.com/kyoya_2.17/