小泉八雲「怪談」の風景(その1)
耳なし芳一
「遠野物語(柳田国男)」は民俗学発祥の記念碑とされるのに対し(遠野物語の風景その1・参照)、それより前に出版された「怪談」は民俗学の草分け的な作品です。今回は「怪談」の代表的なお話「耳なし芳一」をとりあげます。若くして琵琶の名人になった「芳一」は高貴な方に呼ばれ、連日、御殿で演奏をしました。不審に思った住職があとをつけさせますが・・・・・・。
物語の時代背景
「七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた・・・・・・」
以下は安徳天皇縁起絵図・第八巻「安徳天皇御入水」の一部を拡大したものです。中央部の大きな船には安徳天皇と二位の尼(平清盛の妻)の入水直前の姿があります。
二位の尼が安徳天皇に「波の下にも都はあります」といってなぐさめているところでしょうか。
左側の海に浮かんでいる女性は安徳天皇の母・建礼門院です。入水しようとしますが源氏の兵士たちにより救出されました。また、右下には猛将の平教経の攻撃をかわして船の間を飛ぶ(八艘飛び)をする義経が描かれています。
出典:日本語: 伝土佐光信 English: Tosa Mitsunobu, Public domain, via Wikimedia Commons、『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」から第八巻「安徳天皇御入水」の一部を拡大
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AntokuTennou_Engi.7%268_Dannoura_Kassen.jpg
「他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。」
下には平家蟹の写真を引用しました。ウィキペディア・平家蟹には「上から見ると吊りあがった目(鰓⦅えら⦆域前部)、だんご鼻(心域)、固く結んだ口(甲後縁)で、人の怒った表情にも見える。」とあります。
出典:RD 77, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heikegani.jpg
「しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。」
下に引用したのは現在の壇ノ浦古戦場付近のストリートビューです。
「これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。」
下には「阿弥陀寺」として建立された「赤間神宮(明治の神仏分離により神社となる)」の戦前の写真を引用いたしました(第二次世界大戦で上の社殿は焼失、現在の社殿は昭和40年に竣工したもの)。
出典:紙業出版社 編『神社参拝』,紙業出版社,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1032442 (参照 2025-05-16、一部抜粋)、赤間神宮
https://dl.ndl.go.jp/pid/1032442/1/30
「そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然ちゃんと行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。」
芳一のこと
こここからが本題となります。
「幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。」
下には岩佐鶴丈さんによる平家物語序文(祇園精舎)の演奏場面を引用させていただきます。
「芳一には出世の首途(かどで)の際、はなはだ貧しかったが、しかし助けてくれる深切な友があった。すなわち阿彌陀寺の住職というのが、詩歌や音楽が好きであったので、たびたび芳一を寺へ招じて弾奏させまた、吟誦さしたのであった。後になり住職はこの少年の驚くべき技倆にひどく感心して、芳一に寺をば自分の家とするようにと云い出したのであるが、芳一は感謝してこの申し出を受納した。それで芳一は寺院の一室を与えられ、食事と宿泊とに対する返礼として、別に用のない晩には、琵琶を奏して、住職を悦ばすという事だけが注文されていた。」
出典:写真AC、赤間神宮の耳なし芳一
https://www.photo-ac.com/main/detail/3563100?title=%E8%B5%A4%E9%96%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%AE%E8%80%B3%E3%81%AA%E3%81%97%E8%8A%B3%E4%B8%80
上には赤間神宮の「芳一堂」に奉納されている「耳なし芳一像」の写真を引用いたしました。10代後半の少年をイメージしてつくられているとのことです。
夏の夜、鎧を着た武者が現れる
「ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。」
下には大正時代の赤間宮(阿弥陀寺)の写真を引用いたしました。夏の晩にこちらに不気味な足音が響いている場面を想像してみましょう。
出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』中国・四国・九州地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967086 (参照 2025-05-16、一部抜粋)、赤間宮
https://dl.ndl.go.jp/pid/967086/1/17
「底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が下下(したじた)を呼びつけるような風に――
『芳一!』
芳一はあまりに吃驚(びっくり)してしばらくは返事も出なかった、すると、その声は厳しい命令を下すような調子で呼ばわった――
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の許(とこ)へ用を伝えるように言いつかって来たものだ。拙者の今の殿様と云うのは、大した高い身分の方で、今、たくさん立派な供をつれてこの赤間ヶ関に御滞在なされているが、壇ノ浦の戦場を御覧になりたいというので、今日、そこを御見物になったのだ。ところで、お前がその戦争(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。」
下には「拙者の今の殿様」と考えられる安徳天皇の画像を引用いたします。入水時、まだ満6歳4か月の幼帝でした。
出典:日本語: 不明(伝宅間法眼)English: Unknown, Public domain, via Wikimedia Commons、安徳天皇像(部分)、桃山時代
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Emperor_Antoku.jpg
「ところで、お前がその戦争(いくさ)の話を語るのが、上手だという事をお聞きになり、お前のその演奏をお聞きになりたいとの御所望である、であるから、琵琶をもち即刻拙者と一緒に尊い方方の待ち受けておられる家へ来るが宜い』当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。」
「壇ノ浦の戦い」で平家の指揮を取ったのは平知盛(清盛の四男)でした。平家物語には滅亡の際、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」といって鎧二両を着て入水する場面が描かれています。下には能「碇潜」などで演じられる碇をかついだ知盛の浮世絵を引用いたしました。使いにきた平家の部下もこちらのような勇猛な姿をしていたとイメージしてみましょう。
出典:北尾政美, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、平知盛を描いた北尾政美画の浮世絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Masayoshitairanotomomori.jpg
「また手引きをしたその手は鉄のようであった。武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か殿居(とのい)の衛士ででもあろうか、芳一の最初の驚きは去って、今や自分の幸運を考え始めた――何故かというに、この家来の人の「大した高い身分の人」と云った事を思い出し、自分の吟誦を聞きたいと所望された殿様は、第一流の大名に外ならぬと考えたからである。」
ウィキペディア(耳なし芳一)では「耳なし芳一」の舞台が「七盛塚(平家一門の墓)」とすれば、物語の時代は「七盛塚」が整備された江戸時代とのことです。当時の中国地方で「第一流の大名」として芳一が思い浮かべたのは毛利家だったかもしれません。以下には戦国時代から江戸時代にかけて豊臣政権五大老の一人でもあった毛利輝元の画像を引用いたします。ここではこのような大名から声がかかったことで少し得意になる芳一の様子を想像してみましょう。
出典:日本語: 毛利博物館蔵「毛利輝元画像」, Public domain, via Wikimedia Commons、毛利輝元の肖像画。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mori_Terumoto.jpg
「やがて侍は立ち止った。芳一は大きな門口に達したのだと覚った――ところで、自分は町のその辺には、阿彌陀寺の大門を外にしては、別に大きな門があったとは思わなかったので不思議に思った。」
以下には大正時代に撮影された安徳天皇のお墓の写真を引用いたしました。左側にお墓の門があります。
出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』中国・四国・九州地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967086 (参照 2025-05-16、一部抜粋)、安徳天皇陵
https://dl.ndl.go.jp/pid/967086/1/19
「『開門!』と侍は呼ばわった――すると閂を抜く音がして、二人は這入って行った。二人は広い庭を過ぎ再びある入口の前で止った。そこでこの武士は大きな声で『これ誰れか内のもの! 芳一を連れて来た』と叫んだ。すると急いで歩く跫音、襖のあく音、雨戸の開く音、女達の話し声などが聞えて来た。女達の言葉から察して、芳一はそれが高貴な家の召使である事を知った。しかしどういう処へ自分は連れられて来たのか見当が付かなかった。が、それをとにかく考えている間もなかった。手を引かれて幾箇かの石段を登ると、その一番最後しまいの段の上で、草履をぬげと云われ、それから女の手に導かれて、拭(ふ)き込んだ板鋪のはてしのない区域を過ぎ、覚え切れないほどたくさんな柱の角を廻り、驚くべきほど広い畳を敷いた床を通り――大きな部屋の真中に案内された。そこに大勢の人が集っていたと芳一は思った。絹のすれる音は森の木の葉の音のようであった。それからまた何んだかガヤガヤ云っている大勢の声も聞えた――低音で話している。そしてその言葉は宮中の言葉であった。芳一は気楽にしているようにと云われ、座蒲団が自分のために備えられているのを知った。」
以下は京都御所「諸大夫の間」に再現された琴を楽しむ貴族たちの様子です。「宮中の言葉」が響くなか、芳一は緊張しながら座布団に座りました。
出典:Ogiyoshisan, Public domain, via Wikimedia Commons、: 京都御所、御所生活を再現した人形。投稿者が撮影(2008年)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dolls_from_Kyoto_Gosho1_DSCN5597_20081114.JPG
「それでその上に座を取って、琵琶の調子を合わせると、女の声が――その女を芳一は老女すなわち女のする用向きを取り締る女中頭だと判じた――芳一に向ってこう言いかけた――
『ただ今、琵琶に合わせて、平家の物語を語っていただきたいという御所望に御座います』
さてそれをすっかり語るのには幾晩もかかる、それ故芳一は進んでこう訊ねた――
『物語の全部は、ちょっとは語られませぬが、どの条下(くさり)を語れという殿様の御所望で御座いますか?』
女の声は答えた――
『壇ノ浦の戦(いくさ)の話をお語りなされ――その一条下(ひとくさり)が一番哀れの深い処で御座いますから』」
「芳一は声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった――琵琶を以て、あるいは橈を引き、船を進める音を出さしたり、はッしと飛ぶ矢の音、人々の叫ぶ声、足踏みの音、兜にあたる刃の響き、海に陥る打たれたもの音等を、驚くばかりに出さしたりして。その演奏の途切れ途切れに、芳一は自分の左右に、賞讃の囁く声を聞いた、――「何という巧(うま)い琵琶師だろう!」――「自分達の田舎ではこんな琵琶を聴いた事がない!」――「国中に芳一のような謡い手はまたとあるまい!」するといっそう勇気が出て来て、芳一はますますうまく弾きかつ謡った。そして驚きのため周囲は森としてしまった。」
以下には熊田かほりさんによる「壇ノ浦」の動画を引用させていただきました。複雑なバチ捌きにより「船を進める音」や「矢の音」が聴こえてきそうです。
「しかし終りに美人弱者の運命――婦人と子供との哀れな最期――双腕に幼帝を抱き奉った二位の尼の入水を語った時には――聴者はことごとく皆一様に、長い長い戦(おのの)き慄える苦悶の声をあげ、それから後というもの一同は声をあげ、取り乱して哭き悲しんだので、芳一は自分の起こさした悲痛の強烈なのに驚かされたくらいであった。しばらくの間はむせび悲しむ声が続いた。」
以下に引用させていただいたのは野島洋美さんによる壇ノ浦(安徳天皇入水)の動画です。こちらを拝見しながら「むせび悲しむ声が続いた」という光景を想像してみましょう。
「しかし、おもむろに哀哭の声は消えて、またそれに続いた非常な静かさの内に、芳一は老女であると考えた女の声を聞いた。
その女はこう云った――
『私共は貴方が琵琶の名人であって、また謡う方でも肩を並べるもののない事は聞き及んでいた事では御座いますが、貴方が今晩御聴かせ下すったようなあんなお腕前をお有ちになろうとは思いも致しませんでした。殿様には大層御気に召し、貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前(ごぜん)で演奏(わざ)をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう・・・・・・それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。・・・・・・ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』
芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。」
芳一のあとをつけさせると!
「芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏(か)ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
芳一は言い逭れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。
すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。」
出典:西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真集』中国・四国・九州地方之部,富田屋書店,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/967086 (参照 2025-05-16、一部抜粋)、平家一門七墓
https://dl.ndl.go.jp/pid/967086/1/19
上には平家一門の墓(大正時代)、の写真を引用いたしました。そこには沢山の鬼火が舞っていました。
「二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後(うしろ)と周囲(まわり)と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅(ば)かされているのだ!……芳一さん!』
しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚嘎嘎(ソウソウカツカツ)と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』」
以下には近年の平家一門の墓(七盛塚)の写真を引用いたします。隣接する安徳天皇のお墓に向かい、平家一門の霊たちに囲まれて演奏をする芳一を想像してみます。
出典:写真AC、赤間神宮 平家一門の墓
https://www.photo-ac.com/main/detail/26296151&title=%E8%B5%A4%E9%96%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%80%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E4%B8%80%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A2%93
「事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅ばかされていたのは確かなので、一同は芳一を捕(つか)まえ、その身体(からだ)をもち上げて起たせ、力まかせに急いで寺へつれ帰った――そこで住職の命令で、芳一は濡れた著物を脱ぎ、新しい著物を著せられ、食べものや、飲みものを与えられた。その上で住職は芳一のこの驚くべき行為をぜひ十分に説き明かす事を迫った。」
お経で結界を張るが・・・・・・
「芳一は長い間それを語るに躊躇していた。しかし、遂に自分の行為が実際、深切な住職を脅かしかつ怒らした事を知って、自分の緘黙(かんもく)を破ろうと決心し、最初、侍の来た時以来、あった事をいっさい物語った。
すると住職は云った・・・・・・
『可哀そうな男だ。芳一、お前の身は今大変に危ういぞ!もっと前にお前がこの事をすっかり私に話さなかったのはいかにも不幸な事であった!お前の音楽の妙技がまったく不思議な難儀にお前を引き込んだのだ。お前は決して人の家を訪れているのではなくて、墓地の中に平家の墓の間で、夜を過していたのだという事に、今はもう心付かなくてはいけない――今夜、下男達はお前の雨の中に坐っているのを見たが、それは安徳天皇の記念の墓の前であった。お前が想像していた事はみな幻影(まぼろし)だ――死んだ人の訪れて来た事の外は。で、一度死んだ人の云う事を聴いた上は、身をその為(す)るがままに任したというものだ。もしこれまであった事の上に、またも、その云う事を聴いたなら、お前はその人達に八つ裂きにされる事だろう。しかし、いずれにしても早晩、お前は殺される・・・・・・ところで、今夜私はお前と一緒にいるわけにいかぬ。私はまた一つ法会をするように呼ばれている。が、行く前にお前の身体を護るために、その身体に経文を書いて行かなければなるまい』
日没前住職と納所とで芳一を裸にし、筆を以て二人して芳一の、胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた。それが済むと、住職は芳一にこう言いつけた。――
『今夜、私が出て行ったらすぐに、お前は縁側に坐って、待っていなさい。すると迎えが来る。が、どんな事があっても、返事をしたり、動いてはならぬ。口を利かず静かに坐っていなさい――禅定に入っているようにして。もし動いたり、少しでも声を立てたりすると、お前は切りさいなまれてしまう。恐(こ)わがらず、助けを呼んだりしようと思ってはいかぬ。――助けを呼んだところで助かるわけのものではないから。私が云う通りに間違いなくしておれば、危険は通り過ぎて、もう恐わい事はなくなる』」
下には神戸・須磨寺で上演された「耳なし芳一」の写真を引用いたします。
出典:ウィキメディア・コモンズ、耳なし芳一(神戸市・須磨寺)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%80%B3%E3%81%AA%E3%81%97%E8%8A%B3%E4%B8%80362c.JPG
「日が暮れてから、住職と納所とは出て行った、芳一は言いつけられた通り縁側に座を占めた。自分の傍の板鋪の上に琵琶を置き、入禅の姿勢をとり、じっと静かにしていた――注意して咳もせかず、聞えるようには息もせずに。幾時間もこうして待っていた。
すると道路の方から跫音のやって来るのが聞えた。跫音は門を通り過ぎ、庭を横断り、縁側に近寄って止った――すぐ芳一の正面に。
『芳一!』と底力のある声が呼んだ。が盲人は息を凝らして、動かずに坐っていた。
『芳一!』と再び恐ろしい声が呼ばわった。ついで三度――兇猛な声で――
『芳一』
芳一は石のように静かにしていた――すると苦情を云うような声で――
『返事がない!――これはいかん!・・・・・・奴、どこに居るのか見てやらなけれやア』・・・・・・
縁側に上る重もくるしい跫音がした。足はしずしずと近寄って――芳一の傍に止った。それからしばらくの間――その間、芳一は全身が胸の鼓動するにつれて震えるのを感じた――まったく森閑としてしまった。」
下には、同じく須磨寺の上演で「耳なし芳一」のところに武者がやってくる場面を引用いたしました。
出典:松岡明芳, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons、耳なし芳一(神戸市・須磨寺)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E8%80%B3%E3%81%AA%E3%81%97%E8%8A%B3%E4%B8%80%EF%BC%88%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82%E3%83%BB%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AF%BA%EF%BC%89%E6%AD%A6%E8%80%85365a.JPG
「遂に自分のすぐ傍(そば)であらあらしい声がこう云い出した――『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!・・・・・・道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ――両耳の外、琵琶師の身体は何も残っていない・・・・・・よし殿様へこの耳を持って行こう――出来る限り殿様の仰せられた通りにした証拠に・・・・・・』
その瞬時に芳一は鉄のような指で両耳を掴まれ、引きちぎられたのを感じた! 痛さは非常であったが、それでも声はあげなかった。重もくるしい足踏みは縁側を通って退いて行き――庭に下り――道路の方へ通って行き――消えてしまった。芳一は頭の両側から濃い温いものの滴って来るのを感じた。が、あえて両手を上げる事もしなかった・・・・・・」
芳一の後日譚
「日の出前に住職は帰って来た。急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然(ぞっ)として声をあげた――それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。しかし、芳一は入禅の姿勢でそこに坐っているのを住職は認めた――傷からはなお血をだらだら流して。
『可哀そうに芳一!』と驚いた住職は声を立てた――『これはどうした事か・・・・・・お前、怪我をしたのか』・・・・・・
住職の声を聞いて盲人は安心した。芳一は急に泣き出した。そして、涙ながらにその夜の事件を物語った。『可哀そうに、可哀そうに芳一!』と住職は叫んだ――『みな私の手落ちだ!――酷い私の手落ちだ!・・・・・・お前の身体中くまなく経文を書いたに――耳だけが残っていた!そこへ経文を書く事は納所に任したのだ。ところで納所が相違なくそれを書いたか、それを確かめておかなかったのは、じゅうじゅう私が悪るかった!・・・・・・いや、どうもそれはもう致し方のない事だ――出来るだけ早く、その傷を治(なお)すより仕方がない・・・・・・芳一、まア喜べ!――危険は今まったく済んだ。もう二度とあんな来客に煩わされる事はない』」
出典:緑亭川柳 輯 ほか『秀雅百人一首』,山口屋藤兵衛 [ほか10名],弘化5 [1848]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536787 (参照 2025-05-19、一部抜粋)、明石検校
https://dl.ndl.go.jp/pid/2536787/1/10
このようなひどい目にあった「耳なし芳一」ですが、物語は以下のようなハッピーエンドで締めくくられています。
「深切な医者の助けで、芳一の怪我はほどなく治った。この不思議な事件の話は諸方に広がり、たちまち芳一は有名になった。貴い人々が大勢赤間ヶ関に行って、芳一の吟誦を聞いた。そして芳一は多額の金員を贈り物に貰った――それで芳一は金持ちになった・・・・・・しかしこの事件のあった時から、この男は耳無芳一という呼び名ばかりで知られていた。」
上には「耳なし芳一」のモデルとされる明石覚一検校の図を引用いたします(秀雅百人一首より)。明石検校は南北朝時代の平家琵琶奏者で、「耳なし芳一」と混同されるほどの伝説的な名人だったのでしょう。また、明石検校は平家物語の語り本系の一つ「覚一本」を完成させ、江戸時代まで続く「検校制度」を確立した人物としても知られています(ウィキペディア・明石覚一)。
旅行などの情報
赤間神宮
平家一門と共に八歳で入水された第八十一代安徳天皇のご冥福を祈るため、1191年(建久2年)に「阿弥陀寺」として建立、明治維新後の神仏判然令により神社となりました。第二次世界大戦で建物が焼失しますが、現在は下に引用したような龍宮造りの社殿が壇ノ浦を望んでいます。
出典:写真AC、赤間神宮 山口県
https://www.photo-ac.com/main/detail/23105755&title=%E8%B5%A4%E9%96%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%80%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9C%8C
境内には「耳なし芳一」にも登場する安徳天皇御陵や平家一門の墓「七盛塚」、芳一像が安置される「芳一堂」などが点在、「長門本平家物語」や安徳天皇像などを公開する宝物館も見どころの一つです。
また、例年5月2日から4日にかけては安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」が開催され、なかでも上に引用させていただいたような華やかな平安衣装の太夫たちが「外八文字」と呼ばれる独特の歩き方をする「上臈参拝」や「上臈道中」は必見です。なお、こちらのイベントは「しものせき海峡まつり」の一環として行われています。ほかにもグルメやコンサートなど多彩なジャンルの企画・イベントが開催されるので併せてお楽しみください。
基本情報
【住所】山口県下関市阿弥陀寺町4-1
【アクセス】JR下関駅からバスに乗りかえ、赤間神宮前で下車
【参考URL】https://akama-jingu.com/
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