柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その3)
多彩な神様たち
「遠野物語拾遺」にはさまざまな神様が登場します。「会下の十王堂」には子供と遊んだり、田植えを手伝ったりする活動的な神様が鎮座しています。また、「愛宕様」などの神様たちは人に姿を変えて、遠野の町を火事から守ってくれました。そのほか、縁結びのご利益がある「卯子酉様」や福をもたらす「ハヤリ神」なども追っていきましょう。
二八話(母也明神)
「松崎村の字矢崎に、母也堂(ぼなりどう)という小さな祀がある。昔この地に綾織村字宮ノ目から来ていた巫女があった。一人娘に婿を取ったが気に入らず、さりとて夫婦仲はよいので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。その頃猿が石川から引いていた用水の取入れ口が、毎年三、四間がほど必ず崩れるので、村の人は困り抜いていろいろ評定したが分別もなく、結局物知りの巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗って通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になってもらうより他にはしようもないと教えてくれた。」
下には「母也堂」の近くを流れる猿が石川のストリートビューを引用いたしました。こちらは穏やかな流れに見えますが、大雨で増水すると危険な水位になることもあるようです。
「そこで村じゅうの男女が総出で要所要所に番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。一方巫女の方では気に入らぬ婿をなき者にするはこの時だと思って、その朝早く婿に白い衣物をきせ白い馬に乗せて、隣村の附馬牛へ使いに出した。」
上には「遠野ふるさと村」の白馬「しらゆき」の写真を引用させていただきます。遠野は昔から有数の馬の産地で、以下の写真のように馬市は多くの人で賑わっていました。ですが、希少な白馬が「明後日」に入手できるとは思えません。義理の母(巫女)はあらかじめ計画を練っていたのでしょうか?
出典:植田啓次 著『岩手軽便鉄道案内』,成文社,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/948243 (参照 2025-06-16、一部抜粋)、遠野町の馬市場
https://dl.ndl.go.jp/pid/948243/1/27
「それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の婿をつかまえて、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならばと婿は快く承知したが、昔から人身御供(ひとみごくう)は男蝶女蝶(おちょうめちょう)の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言って、そこに来合わせている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束になり、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目にようやく川の出水が引いてから行ってみると、淵が瀬に変わって堰口に大きな岩が現われていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれからは幾百年でも安全となった。」
以下には「NPO法人遠野エコネット」による「川下りルート調査レポート」から、現代版「矢崎の堰」ともいえる「矢崎頭首工(頭首工とは河川から農業用水を引き入れる施設)」の写真を引用させていただきました。母也明神の金属製案内板には「大同年間(806~809)につくられた右手前方の用水路には、巫女の娘夫婦が人柱になった悲話が伝えられ」とあります。現在の堰とは場所や規模は異なりますが、千年以上前から「矢崎の堰」は遠野の人々の生活を支えてきました。
出典:NPO法人 遠野エコネット公式サイト、猿ヶ石川川下りルート調査レポート、矢崎頭首工を下流側から見たところ
http://blog.tono-econet.org/?eid=18
「それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに堰神様と崇めて、今でも毎年の祭りを営んでいる。母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、かわいい娘までも殺してしまうことになったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母也明神というのはすなわちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。」
出典:遠野市観光協会公式サイト・遠野時間、母也明神と巫女塚・遠野遺産95号、https://tonojikan.jp/course/3h-drive/
上には近年の「母也明神」の写真を引用させていただきました。なお、「母也明神」入口の案内板(以下に引用)によると、こちらの祠は巫女の家の跡に建てられたものとのことです。
(前略)堰には、主となった夫婦と、白馬を祀る堰神様があり、巫女の屋敷跡に巫女の霊を祀ったのが母也明神であると伝えられており、巫女塚は巫女の墓と伝えられている。
出典:母也明神の木製案内板より
なお、こちらで仲睦まじく暮らしていた婿夫婦と白馬の霊は「堰神」として遠野の人々に敬われてきました。
三四(腹帯ノ淵)
「遠野郷の内ではないが、閉伊川の流域に腹帯ノ淵という淵がある。昔、この淵の近所のある家で一時に三人もの急病人ができた。するとどこからか一人の老婆が来て、この家には病人があるが、それは二、三日前に庭前で小蛇を殺したゆえだと言った。」
「腹帯」は遠野物語二七話(池端の石臼、遠野物語の風景その3・参照)で、「池の端という家の先代の主人」が「若き女」から手紙を託された場所です。以下には「腹帯」周辺のストリートビューを掲載いたします。
「家人も思い当たることがあるので、詳しく訳をきくと、実はその小蛇は、淵の主がこの家の三番目娘を嫁に欲しくて遣わした使者であるから、その娘はどうしても水の物に取られると言う。娘はこれを聞くと驚いて病気になったが、不思議なことに、家族の者はそれと同時に三人とも病気が癒った。娘の方は約束事であったと見えて、医者の薬も効き目がなく、とうとう死んでしまった。家の人達は、どうせ淵の主のところへ嫁に行くものならばと言って、夜のうちに娘の死骸をひそかに淵の傍に埋め、偽の棺で葬式を済ました。」
なお、佐々木喜善の「東奥異聞」一話にもこちらの話が取り上げられていて、
「この話は大正五年ごろの出来事である。」
という情報が追記されています。
下には腹帯エリアのストリートビューを引用しました。街道沿いにはこちらのような石塔が残る場所もあり、大正時代へのタイムスリップ感を味わえるかもしれません。
「そうして一日置いて行ってみると、もう娘の屍はそこに見えなかった。その事があってからは、この娘の死んだ日には、たとえ三粒でも雨が降ると伝えられ、村の者も遠慮して、この日は子供にも水浴びなどをさせぬという。なお、この娘が嫁に行ったのは、腹帯ノ淵の三代目の主のところで、二代目の主には、甲子村のコガヨとかいう家の娘が嫁いだのだそうな。」
三五話(卯子酉様)
「遠野の町の愛宕山の下に、卯子酉(うねどり)様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願をかけると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。」
出典:写真AC、恋愛の神様 卯子酉様
https://www.photo-ac.com/main/detail/25030034&title=%E6%81%8B%E6%84%9B%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%80%80%E5%8D%AF%E5%AD%90%E9%85%89%E6%A7%98
上には近年の卯子酉様の写真を引用いたしました。社殿の周辺は絵馬代わりの赤い布で覆われ、現在も縁結びの神様として人気があることがわかります。
こちらにお参りする場合は、先ず社前で無人販売されている赤い布を購入しましょう。次に利き手ではない方の手で願い事を記入し、布を片手(利き手ではない方)でロープに結べば願いが叶うといわれています。
三六話(トンノミ)
お参りするとご利益を得られる一方で、神様から立ち入りを禁じられている場所もありました。その場所を「トンノミ」といいます。
「上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。故伊能先生は、鳥海と宛てるのだと言って、よくこの池の話をされた。ここも昔から人の行くことを禁ぜられた場所で、ことに池の傍に行ってはならなかった。」
上には最近の「トンノミ」の写真を引用させていただきました。森は小さくなりましたが、沼は現存し、神聖な雰囲気を残しています。
「これを信ぜぬ者が森の中に入って行ったところが、葦毛の駒にまたがり衣冠を著けた貴人が奥から現われて、その男はたちまち森の外に投げ出された。気がついてみれば、ずっと離れた田の中にうつぶせになっていたという。もう今ではそんなこともなくなったようである。」
上にはトンノミ周辺のストリートビューを掲載いたしました。ここでは奥側の遠くの方に、禁忌を破った男が飛ばされ、気絶している場面を想像してみましょう。
四三話・四四話(ハヤリ神)
【四四話(御前の沼)】
「青笹村の御前の沼は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。先年この水を風呂にわかして多くの病人を入湯せしめた者がある。たいへんよく効くというので、毎日参詣人が引きもきらなかった。」
「青笹村の御前の沼」は三話「羽衣伝説」にも登場したスポットです(遠野物語拾遺の風景その1・参照)。
湧き水が白色になる原因の一つとして、カルシウムやマグネシウムといったミネラル分が多く含まれていることが考えられます。こちらのお風呂も血行促進や保湿効果により健康になる人が多かったのかもしれません。
以下に引用したような五右衛門を複数ならべてお湯を提供していたのでしょうか。
出典:写真AC、五右衛門風呂
https://www.photo-ac.com/main/detail/1271593&title=%E4%BA%94%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E9%A2%A8%E5%91%82
「この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎(とが)め、傍にある小さな祠まで足蹴(あしげ)にし、さんざんに踏みにじって帰った。するとその男は帰る途中で手足の自由が利かなくなり、家に帰るとそのまま死んだ。またその家内の者たちも病気にかかり、死んだ者もあったということである。これは明治の初め頃の話らしく思われる。」
出典:The Far East, Public domain, via Wikimedia Commons、1875年頃の警察官
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_Policeman_circa_1875.JPG
明治時代といえば上の写真のように、警官がサーベルを身に着けていた時代です。「遠野物語殺人事件(・・・の風景その1・参照)」に登場する遠野警察署の吉田巡査部長とは違い、恐ろしい存在だったのではないでしょうか。明治初期は維新により神道が国教化され、仏教を含めた宗教が弾圧されていた時期です。怪しげな民間信仰に対しても敏感になっていたのでしょう。
【四五話(清水のハヤリ神)】
地形変動などにより突然清水が湧出し、人々の信仰を集めることがあります。このような信仰は一時的なものであることが多く「ハヤリ神」とも呼ばれました。
「この地方では清水のハヤリ神が諸処方々に出現して、人気を集めることがしばしばある。佐々木君幼少の頃、土淵村字栃内の鍋割という所の岩根から、一夜にして清水が湧き出ててハヤリ神となったことがある。今から十二、三年前にも、栃内のチタノカクチという所で、杉の大木の根元から一夜のうちに清水が湧き出で、この泉が万病に効くというので日に百人近い参詣人があった。その水を汲んで浴場まで建てて一時流行したが、二、三か月で人気がなくなった。」
下には明治時代の浴場の例として城崎温泉・外湯の写真を引用いたしました。「チタノカクチ」の浴場は急ごしらえと思われるのでこれほど立派なものではなかったかもしれません。それにしても「二、三か月」で人気が衰えたのでは採算が合わなかったのではないでしょうか。「今から十二、三年前」とあるので時代は明治後半以降です。「遠野物語拾遺44話」の「青笹村の御前の沼」のような弾圧を受けなかったのは「廃仏毀釈」運動がすでに収まっていたからと思われます。
出典:http://www.kinouya.com/intro.htm, Public domain, via Wikimedia Commons、明治43年の絵葉書
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kinosaki_onsen.jpg
「五、六年前には松崎村の天狗ヶ森という山の麓に清水が湧き出しているのを、附馬牛村の虎八爺という老人が見つけ、これには黒蛇の霊験があるといいふらして大評判をとった。この時も参詣人が日に百人を越えたという。」
五三話・六八話(会下の十王様)
【五三(子供好きの十王様)】
以下では「会下の十王様」に関わるお話を2つご紹介します。
「遠野町会下(えげ)にある十王堂でも、古ぼけた仏像を子供達が馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にするなと言って叱りとばして堂内に納めた。するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。そうして十王様が枕神に立って、せっかく自分が子供らと面白く遊んでいたのになまじ気の利くふりをして咎めだてなどするのが気に食わぬと、お叱りになった。巫女を頼んで、これから気をつけますという約束で許されたということである。」
上にはカクラサマ(七三話)の一例ともされる十王堂の木像の写真を引用させていただきます(遠野物語の風景その7・参照)。皆さん怖いお顔をされていますが、子供と遊ぶ時には少し笑顔になっていたかもしれません。
【六八】(田植えのお手伝い)
53話から68話まで少し飛びますが、こちらは十王様が田植えを手伝ったお話です。
「前に言った会下(えげ)の十王様の別当の家で、ある年の田植え時に、家内じゅうのものが熱病にかかって、働くことのできる者が一人もなかった。それでこの田だけはいつまでも植つけができず黒いままであった。隣家の者、困ったことだと思って、ある朝別当殿の田を見廻りに行って見ると、誰がいつの間に植えたのか、生き生きと一面に苗が植え込んであった。」
以下は「会下の十王堂」周辺のストリートビューです。五月に撮影されたもので、既に水田には稲が植えられています。こちらの水田の中に、閻魔大王の指揮のもと、田植えに励む十王様や仲間たちの姿を置いてみましょう。
「驚いて引き返してみたが、別当の家では田植えどころではなく、皆枕を並べて苦しんでいた。怪しがって十王堂の中を覗いてみたら、堂内に幾つもある仏像が皆泥まみれになっていたということである。」
子供と遊んだり田植えをしたりと、十王堂の仏様たちはじっとしているより体を動かしている方がお好きなようです。
五六話(篠権現)
「遠野町の政吉爺という老人は、元は小友村字山室で育った人である。八、九歳の頃、村の鎮守篠権現(ささごんげん)の境内で、遊び友達とかくれんぼに夢中になっているうちに、中堂の姥(うば)神様の像の背後(うしろ)に入り込んだまま、いつの間にか眠ってしまった。」
篠権現の中堂とは下のストリートビューの左側にある建物です。政吉少年はこちらの中に隠れていました。
「すると、これやこれや起きろという声がするので目を覚まして見ると、あたりはすっかり、暗くなっており、自分は窮屈な姥神様の背中に凭(もた)れていた。呼び起こしてくれたのは、この姥神様なのであった。外へ出ようと思っても、いつの間にか別当殿が錠を下ろしていったものとみえ、扉が開かないので、しかたなしにそこの円柱に凭れて眠りかけると、また姥神様が、これこれ起きろと起こしてくれるのであったが、疲れているので眼を明けていられなかった。こうして三度も姥神様に呼び起こされた。その時、家の者や村の人たちが多勢で探しに来たのに見つけられて、家に連れ帰られたという。この姥神様は疱瘡の神様で、丈三尺ばかりの姥の姿をした木像であった。」
六三・六四(火消しをする神様たち)
【六三(小さな仏像の活躍)】
「これは維新の少し前の話だという。町の華厳院(けごんいん)に火事が起こって半焼したことがあった。始めのうちはいかに消防に力を尽してもなかなか火は消えず、今に御堂も焼け落ちるかと思う時、城から見ていると二人の童子が樹の枝を伝って寺の屋根に昇り、しきりに火を消しているうちにおいおい鎮火した。」
下には大正時代の遠野の繁華街(仲町)の写真を引用させていただきました。道幅は広く、遠野が既に大きな街であったことがうかがえます。こちらの写真から、それより60・70年前の江戸末期、周辺にあった華厳院で童子たちが懸命に鎮火をしているところをイメージしてみましょう。
「後にその話を聞いて住職が本堂に行って見ると、二つの仏像が黒く焦げていたということである。その像は一体は不動で一体は大日如来、いずれも名ある仏師の作で、御長は二寸ばかりの小さな像であるという。」
出典:遠野市観光協会公式サイト・遠野時間、八坂神社、https://tonojikan.jp/course/1-5h-walk/
「遠野市観光協会公式サイト(遠野時間)」によると、上に引用させていただいた「八坂神社」が「『遠野物語拾遺』第63話に登場する火消し仏像にまつわる場所」とのことです。近年でも、周辺には下のストリートビューのような蔵造りの建物が並んでいるので、遠野物語の世界を感じられるでしょう。
また、下には博物館に収蔵されている「不動明王像」を引用いたしました。華厳院に祀られていたのは2寸(約6㎝)ほどの小ぶりなものでしたが、こちらのような迫力のあるお顔をしていたかもしれません。
出典:https://www.metmuseum.org/, CC0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fud%C5%8D_My%C5%8D%C5%8D_(Acalan%C4%81tha)_DP215108.jpg
【六四話(愛宕様)】
次は和尚の姿を借りて火消しをしてくれた神様です。
「愛宕様は火防(ひぶせ)の神様だそうで、その氏子であった遠野の下通町辺では、五、六十年の間火事というものを知らなかった。」
上には愛宕神社(新里愛宕神社)の写真を引用させていただきます。愛宕神社は遠野の城下町の外れにあり、以下の案内文のように別れを惜しむ場所でもあったようです。
愛宕さんは城下町を守る神でした。旅立ちのときに、安全を祈り、家族と別れる場所で、山の神や出羽三山など旅の記念の石碑がならんでいます。また、火防の神で『遠野物語拾遺』第64話にも、愛宕さんが和尚の姿煮なって町内の火事を消した話があります。
出典:愛宕神社案内板より
「ある時某家で失火があった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶の水を小さな杓で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。翌朝火元の家の者大徳院に来たり、昨夜は和尚さんのお陰で大事に至らず、誠にありがたいと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということが解ったそうな。」
旅行などの情報
愛宕神社
遠野物語64話にもあるように、火防(ひぶせ)の神様として大切にされてきた神社です。阿曽沼(あそぬま)氏が文治年間(1185年~1190年)に勧請し、延宝2年(1674年)に南部氏がお堂を再興したという歴史をもち、「遠野遺産リスト」144番に認定されています。
参道は上に引用させていただいたような長い石段になっていますが、こちらは新町の豪商・両川覚兵衛が正徳6年(1465年)に寄進したとされています。急な階段を登りきると歴史が感じられる拝殿や本殿に到着、比較的穴場のため静かに過ごせるのもこちらの魅力です。
周辺には遠野物語拾遺35話に登場する「卯子酉様」や内田康夫氏の遠野殺人事件(・・・の風景その1・参照)の殺人現場となった「五百羅漢」などもあるので、散策ルートに加えてみてください。
基本情報
【住所】岩手県遠野市綾織町新里31地割61番
【アクセス】遠野駅から徒歩で約25分
【参考URL】https://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/48,73901,303,656,html
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