柳田国男「遠野物語拾遺」の風景(その6)

山男や山女

遠野の山には前回(遠野物語拾遺の風景その5・参照)紹介した修験者のほか、製鉄を生業としている人たちも多く、里の人たちからは「山男」として恐れられていました。「山男」が女をさらう事件もあり、後日、女に再会する話も残っています。また、「遠野物語」で不思議な現象が報告されていた「白見山」では更なる怪異が目撃されることに!

八七~九一話(山男たち)

【一〇六(山男とすれ違う)】

「土淵村栃内和野の菊池栄作という狩人が、早池峰に近い、附馬牛村の大出(おおいで)山中で刈り暮らし、木の間から洩れる薄明かりをたよりに自分の小屋へ帰って来る途中で、突然一人の男に出逢った。その男は目をきらきらと丸くしてこちらを見守りつつ過ぎるので怪しく思って、どちらへと言葉をかけてみた。するとその男は牧場小屋へ行きますと言って、密林を掻き分けて行ったという。」
下には附馬牛町にある牧場(荒川高原牧場)の写真を引用させていただきました。こちらは中世以来の歴史ある放牧地とのこと、大男が行くと言っていたのはこちらの牧場だったでしょうか。

「佐々木君はこの狩人と友人で、これもその直話であったが、冬期の牧場小屋には番人がいるはずはないと言うことである。その男の態(なり)は薄暗くてよくわからなかったが、麻のムジリを著て、藤蔓で編んだ鞄を下げていたそうである。」

ムジリとはモジリともいい、袖が袖口に向かって細くなる巻袖の着物とのことです。下には北海道アイヌのムジリの写真を引用させていただきます。動きやすいため、農作業や労働の際に着用されていました。

出典:ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム、木綿衣、東京国立博物館
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/K-38344?locale=ja

「丈(たけ)はときくと、そうだなあ五、六尺もあっただろうか、年配はおらくらいだったという答えであった。大正二年の冬頃のことで、当時この狩人は二十五、六の青年であった。」

一〇九話(山男にさらわれた女)

「遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこちを眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれていたが、その後ある男が千磐(せんばん)ヶ嶽へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった著物に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥の様な婆様が出て来たのに行き逢った。」
下には登山情報サイト「YAMAP」から仙磐山の活動日記を引用させていただきました。特に千晩神社の奥の院(写真の25枚目)付近は、後方にそびえる大岩のあたりから山姥が出てきてもおかしくないような雰囲気です。

犬頭山・仙磐山 / tomyさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ

「御前はどこの者だというので、町の者だと答えると、それでは何町の某はまだ達者でいるか、俺はその女房であったが、山男にさらわれて来てここにこうして棲んでいる。お前が家に帰ったら、これこれの処にこんな婆様がいたっけと言うことを言伝(ことづて)してけろ。俺も遠目からでもよいから、夫や子供に一度逢って死にたいと言ったそうである。この話を聞いて、その息子に当たる人が多勢の人達を頼んで千磐ヶ嶽に山母を尋ねて行ったが、どう言うものかいっこうに姿を見せなかったということである。」
大人数でやってきたことを恐れた山男と共に逃げてしまったのでしょうか。あるいは、いざとなると会うのをためらってしまい、岩の陰から静かにお別れをしていたのかもしれません。

一一〇(胡瓜をつくらない訳)

「前に言った遠野の村兵という家では、胡瓜(きゅうり)を作らぬ。そのわけは、昔この家の厩別家に美しい女房がいたが、ある日裏の畠へ胡瓜を取りに行ったまま行方不明になった。」
「厩別家」とは聞きなれない言葉ですが、柳田国男「族制語彙」によると「下人を別家させたもの」とのことです。

陸中上閉伊郡には厩別家といふ家がある。下人を別家させたものを謂ふかと思はれる。(後略)

出典:柳田国男 著『族制語彙』,日本法理研究会,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1460037 (参照 2025-06-26)、マヤベツケ
https://dl.ndl.go.jp/pid/1460037/1/44

なお、「遠野の村兵」については遠野物語拾遺88話(遠野物語拾遺の風景その5・参照)で「御蔵ボッコ」が居た家として既に紹介しました。江戸時代に酒造業や材木業、質屋などを営んだ豪商で、その建物は以下のストリートビューのように「旧村兵商家」として残っています。

「そうしてその後に上郷村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、ある沢辺に下りたところが、その流れに一人の女が洗濯をしていた。よく見るとそれは先年いなくなった厩別家(まやべつけ)の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。」
ここで、前回(遠野物語拾遺の風景その5・参照)に続いて伝説的な狩人「旗屋の縫」が登場します。以下には遠野の猟師に伝えられる「狩の秘伝書」の写真を引用させていただきました。「旗屋の縫」もこのような姿をしていたと思われます。

「その話に、あの時自分は山男に攫(さら)われて来てここに棲んでいる。夫は至って気の優しい親切な男だが、きわめて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。今は気仙沼の浜に魚を買いに行って留守だが、あそこまでは何時も半刻ほどの道のりであるから、今にも帰って来よう。けっしてよい事はないから、どうぞ早くここを立ち去ってくだされ。そうして家に帰ったら、私はこんな山の中に無事にいるからと両親に伝えてくれと頼んだという。それからこの家では胡瓜を植えぬのだそうである。」

出典:写真AC、遠野カッパ淵の祠
https://www.photo-ac.com/main/detail/27204671&title=%E9%81%A0%E9%87%8E%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%A5%A0

好物の胡瓜の生産が減って、遠野のカッパたち(上にカッパ淵の写真を引用)は不服だったのではないでしょうか。

一三六話(村兵稲荷)

話は少し先に飛びますが上の話で登場した「村兵」が富貴になった由来譚が「遠野物語拾遺136話」にあるので先にご紹介します。
「遠野の豪家村兵の家の先祖は貧しい人であった。ある時愛宕山下の鍋が坂という処を通りかかると藪の中から、背負って行け、背負って行けと呼ぶ声がするので、立ち寄ってみると、一体の仏像であったから、背負って来てこれを愛宕山の上に祀った。それからこの家はめきめきと富貴になったと言い伝えている。」

なお、富貴になった「村兵(村上兵右衛門)」は「村兵稲荷神社」というな庭園付きの立派な神社を造らせています。上にはその周辺のストリートビューを引用いたしました。鍋が坂での過去の幸運にあやかったのでしょうか。「村兵稲荷神社」の御神体は京都から勧請とのこと。村上兵右衛門みずからが背負って遠野まで運んだとされています。

一一三話(キャシャ)

「綾織村から宮守村に越える路に小峠(ことうげ)という処がある。その傍の笠の通(かよう)という山にキャシャというものがいて、死人を掘り起こしてはどこかへ運んで行って喰うと伝えている。また、葬式の際に棺を襲うともいい、その記事が遠野古事記にも出ている。」

「遠野古事記」には以下のように書かれています。

昔は魍魎(クハシャ)の障碍度々有之候由、其時代魍魎に棺を攫(サラ)はれたる導師は出家の大恥辱とて其野場より寺え不歸、直に他国え出奔仕る風俗に候由。

出典:太田孝太郎 等校『南部叢書』第4冊,南部叢書刊行会,昭和2-6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179194 (参照 2025-06-27)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1179194/1/331

文語体で少し分かりづらいですが、(葬儀の時、)クハシャ(キャシャ)に棺をさらわれた住職は恥ずかしくて寺に戻れず、他国へ出奔したとのことです。

なお、魍魎は「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の「魍魎(もうりょう)」の部分で、山や川、木石などの精霊のこと。死者の亡骸を奪う「火車(カシャ)」という妖怪と同一視されることもあり、「遠野物語拾遺」ではこちらにあてはまると考えられます。

亡者の肝を食べるという点から、日本では魍魎は死者の亡骸を奪う妖怪・火車と同一視されており、火車に類する話が魍魎の名で述べられている事例も見られる。

出典:ウィキペディア・魍魎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8D%E9%AD%8E

以下にはその妖怪「火車」の図の一例を引用いたします。

出典:Sawaki Sūshi (佐脇嵩之, Japanase, *1707, †1772), Public domain, via Wikimedia Commons佐脇嵩之『百怪図巻』より「くはしや」(かしゃ)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suushi_Kasha.jpg

「その恠物であろう。笠の通の付近で怪しい女の出て歩くのを見た人が、幾人もある。その女は前帯に赤い巾着を結び下げているということである。宮守村の某という老人、若い時にこの女と行き逢ったことがある。かねてから聞いていたように、巾着をつけた女であったから、生け捕って手柄にしようと思い、組打ちをして揉み合っているうちに手足が痺れて出して動かなくなり、ついに取り逃がしてしまったそうな。」
*「恠」は「怪」の異体字

上には小峠付近のストリートビューを引用いたしました。
「宮守村の某」がこのような場所で行き合ったキャシャを生け捕りにしようと奮闘しましたが・・・・・・。

一一五話・一一七話(白見山の怪異現象)

遠野物語33話(遠野物語の風景その3・参照)では白見山について、深夜にあたりが明るくなったり、大木を伐り倒す音が聴こえたりと不思議な現象が起きるところでした。また、遠野物語63話の「マヨイガ」伝説の地でもあります(遠野物語の風景その6・参照)。

「遠野物語拾遺」にも以下のような不思議な現象が描かれています。

【一一五話(金沢村の老狩人)】

「金沢村の老狩人が、白見山に狩りに行って山中で夜になった。家に帰ろうとして沢を来かかると、突然前に蝋燭(ろうそく)が三本、ほとほとと燃えて現われた。立ち止まって見ていると、その三本がしだいに寄り合ってふっと一本になり、焔がやや太く燃え立ったと思うと、その火の穂から髪を乱した女の顔が現われて、薄気味悪く笑った。」
下には金沢地区にある安瀬ノ沢周辺のストリートビューを引用いたしました。もちろん、夜になれば真っ暗になるでしょう。聞こえてくるのは川のせせらぎだけでしょうか。このような場所で突然、蝋燭の光や「髪を乱した女」などが現れたら卒倒してしまいそうです。

「この狩人が、やっと自分に帰ったのは夜半であったそうな。たぶん狐狸のしわざだろうと言うことであった。大正二年の秋のことで、この話はこの地方の小林区署長が自身金沢村で聞いた話だと前置きして語ったものである。」

林野庁公式サイトの「遠野地域の山の利用の歴史」という資料によると、大正2年の遠野小林区署長は相馬隆一という方だったようです。「国立国会図書館デジタルコレクション」の大正2年「職員録」にはそれを裏付ける記載がありました(以下に引用)。

出典:内閣印刷局 編『職員録』大正2年甲,印刷局,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12299748 (参照 2025-06-27、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12299748/1/382

当時の国有林は「大小林区署制度」で管理されていて「大林区」は現在の森林管理局、「小林区」は森林管理署に相当するとのことです。
このように「遠野物語」は情報源を具体的に示していることが多いため、話が身近に感じられます。

【一一七話(山男あるいは山女の叫び声)】

「遠野物語拾遺」の116話は「遠野物語」33話(遠野物語の風景その3・参照)の続編ともいえるお話です。

「野崎の佐々木長九郎と言う五十五、六の男が、木を取りに白見山に入り、小屋を掛けて泊っていた時のことである。ある夜谷の流れで米を磨(と)いでいると、洞(ほら)一つ隔てたあたりでしきりに木を伐る音が聞こえ、やがて倒れる響きがした。」

このような現象について「注釈遠野物語(後藤総一郎・監修、遠野常民大学・筑摩書房、1997年)」では「タタラ製鉄」を行う人たちが山に住んでいたからと推察しています。
下には伐木作業をする人の小屋「杣小屋」の図や写真を引用させてただきました。

「恐ろしくなって帰って来ると、まさに小屋にはいろうとする時、待てえと引き裂くような声で何ものかが叫び、小屋の中にいた者も皆顔色がなかった。やはり同じ頃のことで、これは本人の直話であった。」
*ここで「やはり同じ頃」とは前話(115話)にある「明治の末」のことです。
なお、「遠野物語35話(遠野物語の風景その3・参照)」では「山女」が「待てちゃアと二声ばかり呼ばわりたる」というエピソードがあります。
もしかしたら「待てえと引き裂くような声」を発したのも女性だったかもしれません。

また、深夜の山中に響き渡る大声といえば、谷底から「面白いぞー」という声が聴こえたという「遠野物語9話(遠野物語の風景その2・参照)」も思い当たります。

出典:Toriyama Sekien, Public domain, via Wikimedia Commons、鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「うわん」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienUwan.jpg

「水木しげるの遠野物語(水木しげる・柳田国男、小学館、2015年)」によると叫んだ犯人は人を驚かしにきた妖怪「うわん」かもしれないといっています。上には鳥山石燕の「うわん」を引用いたしました。「待てえと引き裂くような声」も「うわん」の仕業という可能性もあります。

旅行などの情報

旧村兵商家

「遠野物語拾遺」で仏像を背負って帰ったことにより富貴になった「村上兵右衛門」の邸宅です。江戸時代に遠野南部家の御用商人をつとめた豪商で、邸内には殿様の御成の間も設けられています。

現在は市の自治会館となっていますが、上のストリートビューのように美しい白壁がめぐらしてあり、周辺から眺めるだけでも見応えがあります。遠野駅や市立博物館からも徒歩で10分程度ですので街歩きの途中に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】手県遠野市六日町5-34
【アクセス】遠野駅から徒歩約10分