佐々木喜善「東奥異聞」の風景(その4)
磐司磐三郎の話
柳田国男「神を助けた話」に登場する「磐次磐三郎」は山神様やマタギの神様のような近づきにくい存在に描かれています。一方、喜善版が収集した伝説のなかには単に「素の山人あるいは狩人」の「磐司磐三郎」もいました。以下にはお産を助ける面倒見のよい磐司や動物たちを成仏させる宗教的な磐司などが登場します。
柳田国男「神を助けた話」について
「山々の主、山々嶽々の支配者で、土地によってはあるいは神とまでなっている磐司(ばんじ)磐三郎の話(1)は、先年柳田國男先生の著『神を助けた話』にその詳細が尽くされている。自分はその書物のうちに、・・・・・・今日まで文字ある人の耳にはいらなかったために、忘れ誤り消え砕けた口碑というものが、いくらあるかわからないというような条を読むにおよんで、いかにもそのとおりたまたま残っていた村々の語部の故老が亡くなるといっしょに、ほとんどいままでどれほどの貴重な口碑伝承が数多く墓場に埋められたかということを思ったのである。(中略)自分は貧しい百姓を営みながらじつにそういう心持で、いまはすでに消滅した穀物の種子でも求めるように、奥州の山嶽地方に残っているそういう類の話をえたなかから、諸君が「神を助けた話」のうちでは見なかった別種のこの話をしようと思う。」
柳田国男「神を助けた話」の「磐司磐三郎の話(神を助けた話の風景その1・参照)」には以下のよう内容が記されています。
・立石寺に伝わる磐司磐三郎の伝説
・磐司・磐三郎の兄弟説や「磐司磐三郎」という一人の名前説がある
・もともとは山神であったのかも。人の姿として拝むために生み出されたのが「磐司・磐三郎」
以下には立石寺の磐司祠に祀られている「磐司(磐司磐三郎)像」の写真を引用しました。
出典:伊澤榮次 著『山寺名勝志』,寶[リュウ]堂,1925.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415 (参照 2025-08-06、一部抜粋)、磐司像
https://dl.ndl.go.jp/pid/1910415/1/25
また、下に引用させていただいたように、蕃山にある大梅寺開山堂には磐司と磐三郎の像(写真左上)がそれぞれ鎮座しています。
「神を助けた話」より人間的な磐司磐三郎の話
「近ごろ自分が閉伊郡花輪村という所で発見した狩猟の巻物、山神狩人秘法大事という写本にも、磐司磐三郎の発生地を下野国日光山のその麓としてあるけれども、奥羽地方になると陸前名取郡の磐司磐三郎山(2)をはじめ、羽前の山ノ寺縁起(3)など、その他にも諸所に万治、磐治などの住居した所が散在している。かくのごとくこの口碑の分布が諸国にかなり広い範囲にわたっており、かならずしも日光山の麓やその他ばかりが話の根原ではないかもしれぬ。ただしそんな議論めいたことは別として、自分はただちにこの話の本旨に還って、そのおもしろそうなところをぽつぽつ話してみたいと思うのである。」
下には「陸前名取郡・磐司磐三郎山(2)」のことと思われる「蕃山」の写真を引用いたしました。上でも紹介したように山頂の開山堂には雲居禅師を中心に、磐司、磐三郎の兄弟像が並んでいます。
出典:七厩拓, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、宮城総合支所から望む蕃山丘陵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Banzan_1.jpg
注釈では柳田国男版の磐司(次)磐三郎との違いを以下のように記しています。
「(1)(2)(3)柳田先生の『神を助けた話』の七、磐司磐三郎の一節には諸国諸国のその名の山神あるいは山嶽の記事が充満している。しかしていずれも神かしからざればついには神にまつられた山人のいわれがそれと付随している。しかし私の話ではどこまでも素の山人あるいは狩人としての万治、磐治の話である。そこのところにご注意して読んでいただきたい。」
附馬牛村の万治と磐司
「陸中国閉伊郡附馬牛(つきもうし)村字生出(おいで)という山里に万治と磐司という二人の狩人があった。万治は名人で日に幾十とないえものをとりなかなか羽振りもきく男であったが、磐司のほうはどうも仕事が下手で終日山を歩いても一匹のシカさえ捕らぬことがときどきであった。」
遠野にも「旗屋の縫」という有名な猟師がいましたが、万治もそのような名人でした(遠野物語拾遺の風景その5・参照)。下には万治や磐司が身にまとっていたであろう狩人の服装の写真を引用させていただきました。
「ところがある日万治が狩り山へゆくと、途中に美しい女が産をして血だらけになって苦しんでいる。万治がそこに通りかかると女から助けを乞われたが、狩猟には死日(しにび)よりも産日(さんび)の穢れを忌むのであるからすべなくその言葉を断わってそのまま山へいった。そのあとから磐司がそこに通りかかると、やはり女から救いを求められたので、なんのいやな顔もせずなにくれとなく親切に女を世話介抱して首尾よく子を産ませた、産んだ子らは十二人であった、女人はいたく喜んで汝にこれから山幸(やまさち)を授けてやろうと言い、磐司とおまえの名まえを称えたら、それは山幸の手形であるぞといわれた。それから磐司には日々つづいて大きな山幸がある。それを磐司が記念清浄にするために、月の十二日を休んで女人に対する謝礼の祝日とした。」
うだつが上がらなかった「磐司」でしたが、女を助けて無事に出産させた出来事を境にして、猟の名人になっていきました。
「後世では狩人はそれを年に一度十二月の十二日だけを祭日にするようになり、またそれが後世に移って十二月十二日にはいっさい山入りできぬ日、この日に山へいったら禍いがあるというような狩人ばかりではなく農家一般の山に対する忌日のような形になった(2)。すなわち祭日を兼ねた忌日である。」
上には山の神の像や石碑の写真を引用させていただきました。「山に入り、木に数えられると二度と戻って来れなくなる」という恐ろしいこともかいてあります。山入りの禁止日については以下のような補足が加えられています。
「(2)旧暦十二月十二日には山に関係ある人々は仕事を休んで終日祝事する。山神祝いと称する。この日山にゆくとかならずいいことがないという。またこの日山神は自分の山々の樹木の数を数える日であって、もし人間が山へいっていると人間も樹木の数に入れられるからゆかぬ。樹木の数にまぎれ入れられるともちろんいいことがない、山にゆくと二又の木を捩りてあるのをおうおう見るがそれはこの日に山神が何万何千何百何十何本めという数の覚えにそうしておくのだと里人は信じている。こういう俗信は閉伊、気仙の郷土にある。」
「その女人は山の神さんであったのである。だから山にいって磐司磐司磐司と三遍唱えれば山幸があり、他人の術を呪うと思わば万治万治と唱えたらその人の鉄砲がいっこう当たらぬということである。万治は山の神さんに詛われてそれからいっこう山幸がなかったという由来にもとづいたことである。」
上に引用させていただいたように遠野には数多くの狩りの秘伝書が伝わっていて、「磐司磐司磐司」や「万治万治」以外にもさまざまな呪文が唱えられていたようです。
早池峰山の神について
「この話は北上山脈のなかの第一の高山早池峰(はやちね)山に付随した口碑である。生出という所はその山の麓の部落である。この山にはこのほかに種々多くの口碑伝説などがあるので一方有名であるが、単に山の主というものの話だけでもひどく美しく齢若い女性の神であると言い(3)、また大入道であったと言い(4)、矮人の老翁だと言い(5)、老婆だとも言い(6)、それからこれから自分が話そうと思う二面独眼一本脚の二面大黒という怪物だというように言い伝えられている。この二面大黒の話には磐司が主要のすじとなっているから、自分はここへことさらに引き出した。」
以下は「ひどく美しく齢若い女性の神」についての注釈です。
「(3)早池峰山は姉妹三人の女性の神のいちばん末妹であるとされている。美しいがなかなか意地悪で、そのくせ少々盗癖がある。これは、はじめ遠野郷三山すなわち六角牛山、石神山とこの山とを三人の姉妹に分かつに、附馬牛村神遣(かみやり)という所にある夜寝、その寝姿の上に天から蓮華が降った者がいちばん秀麗な早池峰山を取ろうというのであったところ、いちばん末妹が夜半まで眠らず仮睡していて長姉の上に降った花を盗んで胸の上に置いたのだという。ゆえにこの山の祭日などには路傍などの家々ではナシ、リンゴその他娘、嫁の類まで盗難にあってならなかった。東磐井郡、胆沢郡地方にもその信仰あり、泥坊の神といわれてそれらの徒のひそかに信仰するものだというが、また私の『江刺郡昔話』のうちには同郡梁川村でえた資料でこれとは別種の口碑もある。しかしいちばん末妹であり美しい若いきかぬ気の女神であったということには変りない。(後略)」
末妹が長姉の上に降った花を盗んだ話は「遠野物語2話」にも書かれていました(遠野物語の風景その1・参照)。以下には「きかぬ気の女神(早池峯大神)」を含む、遠野三山の女神図を引用させていただきます。
また、早池峰の神が「大入道であったと言い(4)」とのエピソードは遠野物語28話(遠野物語の風景その3・参照)とも通じるお話です。ただ、遠野物語28話が「時は遠野の南部家入部の後のこと」という時代設定に対し、注釈(4)に記されている伝説は大同年間(806年から810年)のことでした。
「(4)大同年間、あるいはその二年などと言い伝う。遠野郷いまの上郷村字来内(らいない)に斯角東蔵(しかくとうぞう)という狩人があって、この山を切り開きはじめて峰頂を究めた。」
斯角東蔵は「始閣藤蔵」とも表記される人物です。早池峰山頂までの山道を切り拓き、早池峯神社の創建に関わったとされています。以下には附馬牛町の早池峯神社の写真を引用させていただきました。
早池峰の神・大入道の話を続けます。
「この人あるときカラノボウというこの山の中腹に野宿していて、夜食の餅を火にあぶっていると、どこからか巨大白鬚の大入道がやってきて火にあたる。そしてその焼いている餅を一つくれという。斯角もしかたなく一つ取って与えると怪物はさもうまそうに食べ口なめずりなぞしながら引き去る。かくのごときこと連夜であったが、二夜三夜と夜を重ねると斯角もほとんど困りかつ呆れていよいよ最後の夜、餅に似た角石(かくいし)を多く火に並べて焼きかつ傍らに油を入れた樽を置き酒を装うているところに例の怪物がきてその石を食いまた酒だと思って樽入りの油をたらふく飲む。焼け石に油をかけたのだからたまらぬ。たちまち苦悶し出してああと叫び口鼻の穴から火焔を吹き吐いて谷川のなかにまろびこむ。そしてたちまちのうちに大洪水を出して猿ヶ石川を流れ下った。そのときの洪水は白鬚の洪水というのである。この白鬚の巨人も、この山の主(東奥古伝)。」
大入道が逃げ去ったことは、始閣藤蔵が山神様から早池峰を譲り受けたことを表しているとの解釈もあります。
怪物退治
再び磐治の話に戻ります。
「前の磐治、あるとき山にゆき小舎掛けして泊まっていると、夜々一本脚二面独眼の怪物がやってきて小舎をのぞきみる。一夜二夜はなんとも得体がわからぬままそのままにしておいたが、三夜めにはいよいよそれが怪物とわかったので、打ち殺そうと用意をする。そうして待ち構えていると、案に違わずその夜もやってきた。けれどもその夜にかぎりてその怪物はすかすかと磐治が小舎にはいってきて、じつは己は汝を見こんでぜひ頼みがあって、いままで毎夜ここに通うたが、今夜は思いきって打ち明ける。それはこの山に三面独眼一本脚の主(ぬし)がいてどうも己の思うようにならぬ。そればかりかながい間夜々己を追い回し、殺そうとするのでまったく生きた空もない、己はこの山の主になりたいのだが、彼がいるうちはどうもその望みが遂げられぬ、だからどうか明夜彼を撃ってくれ、頼むというのである。」
一つ目・一本足というキーワードからは「一本だたら」などの鉱山労働者が想起されます。以下には一つ目・一本足妖怪の絵を引用させていただきました。
なお、遠野物語拾遺96話(遠野物語拾遺の風景その5・参照)には貞任山に一つ眼に一本足の怪物がいて、「旗屋の縫」がこれを退治したとあります。
出典:国際日本文化研究センター・怪異・妖怪画像データベース、一つ目;ヒトツメ,足;アシ
https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiGazou/card.cgi?identifier=U426_nichibunken_0053_0012_0001
「いかにもその翌夜になると、ほんとうに山谷が崩潰するような音響をたてて荒れてくる。何事が起こるだろうと思っていると、昨夜の二面独眼の怪物がやにわに磐治が小舎に跳りこんだ、そのあとから三面独眼一本脚の巨大な怪物が追いかけてくる。それを磐治はただの一打ちにと打ち殺した。二面の怪物は喜ぶことかぎりなくその礼にとて、この山奥にバンジが洞という所あり、そこが総体にキリの林であるからそれを汝にやろうという。磐治はそのキリの樹を伐り、また用いるに尽きるということがなかった(7)。磐治死後、猿ヶ石川にキリの花が流れてくることがあったが、何者もそのバンジが洞を尋ね当てた者がいまだにないという。これは猿ヶ石川流域の里に残っている口碑である。」
下には満開の桐の花の写真を引用いたしました。岩手県は古くから桐の名産地とされていて、桐の花は県花にもなっています。
出典:写真AC、満開の桐の花
https://www.photo-ac.com/main/detail/5152035&title=%E6%BA%80%E9%96%8B%E3%81%AE%E6%A1%90%E3%81%AE%E8%8A%B1
「(7)二面の怪物について陸奥国岩木山の卍字錫杖というのがいる。これは卍字と錫杖という二個の鬼のようになっているし、そう思われているけれども、かの土地で聞くとそうでなく、一体で二面一本脚の怪物であったようにいっている。これは『江刺郡昔話』の話者浅倉君がかの山麓の村で聞いたという実例。」
柳田国男「神を助けた話」の「八、卍字と錫杖」によると「昔此山に卍字錫杖と呼ぶ二鬼あって、此泉の辺に住んで、吉野大峰の前鬼後鬼と同じく、人の信不信に因って、或は護り或は懲したと云ふ・・・」とあります。
出典:Sailko, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons、Periodo kamakura e muromachi, en no gyoja con zenki e koki, xiii e xv secolo, 01.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Periodo_kamakura_e_muromachi,_en_no_gyoja_con_zenki_e_koki,_xiii_e_xv_secolo,_01.jpg
上には役行者と、行者を守る前鬼後鬼の木像の写真を引用いたしました。卍字錫杖についても二体説・一体説が混在しているのは「神を助けた話」の磐司磐三郎と同じです。
伊勢・磐次磐三郎と遠野・斯角東蔵の腕比べ
こちらの磐次磐三郎は岩手から遠くはなれた伊勢(三重県)の人です。お話は上でも登場した狩人・斯角東蔵が伊勢の国に向かうところから始まります。
「下閉伊郡小国村の山間に行なわれている口碑に、磐次磐三郎というは伊勢の国の狩人である。そこに奥州きっての狩人マタギの達人斯角東蔵がその技倆競べをしにはるばると伊勢の国までゆく。どこをどうしていったかとにかく東蔵は磐次磐三郎に会うと、彼はいわく汝は奥州の東蔵という者だろう、汝の来意は己はよく知っている、およそ狩人は己が捕って食った山のもろもろの獣類をば元の形態のままにみずから口から吐き出し、また口に吸い入れる技倆がなくてはならぬ、どうだ汝にそれができるかといって、みずからかなたの尾嶺の上に向かって気を吐けば忽然としてシカ、サル、イノシシ、オオカミ、ウサギなどその他もろもろの獣類が現じて一生懸命に走る。それをまた同じく気を吸いこむと磐次が口にそれらの物がひょいひょいとみな飛びこみ平気である。」
「奥州の東蔵もわれ負けじと対手が行なったように向こうの尾嶺に向かってふうと気を吐くと、同じくもろもろの獣類畜類が現われたが、磐次がように再びそれを口中に吸いこむ術が能わぬ。東蔵赤面閉口していると、磐次磐三郎はまたいわく、真の狩人はかくのごときことのみにあらず、なおかくあるべきにとて、さらにまた気を吐けば前の尾嶺に忽然として出現ましませしは南無ありがたや三十三観音、金色燦爛、微妙清音、まんじゅしゃげを雨と降らせたまいてダンスをしたもう。それを見てはさすが慢心の東蔵も降参して磐次磐三郎が家来となり、業を練磨してから故郷の早池峰山に帰ったという。(後略)」
なにやら荒唐無稽な話に思えますが、下に引用させていただいたように山間住民の宗教観を表しているとのです。
これは狩人が獣を殺すのは単にその肉を食って自己のためにするのではなく,自己の体内に同化し
出典:萩原竜夫、千葉徳爾、山地住民における宗教文化の展開過程、明治大学人文科学研究所、2013年
てそれを極楽に往生させなくてはならぬという意味を含むらしく,つまりは諏訪大明神の誓いに従
うのが狩人の道であるということのようである。縁起が説く純然たる仏教の論理と異る山間住民の
論理がこちらには含まれているとみてよい。
なお「諏訪大明神の誓い」とは
「獣の類は無自覚である故に酔生夢死して極楽浄土に転生し得ない憐れなものである。これ
を殺して神の供物とし,或は成仏し得る人間に食われることで神・人と一体同化し,それを手段と
して浄土に生れかわるようにせよ」
という内容とのことです。
出典:Miyachi, Naokazu (宮地直一, 1886-1949), Public domain, via Wikimedia Commons、狩装束姿の諏訪大明神(三十番神中の垂迹神影)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Suwa_Daimy%C5%8Djin_-_%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%A5%9E.jpg
上に引用したように諏訪大明神は狩装束姿で描かれることもあり、狩猟神としても信仰されてきました。
旅行などの情報
早池峯神社
大同元年(806年)、早池峰で神霊を拝した始閣藤蔵が発心し、山道を拓いて宮を創建したのが早池峯神社の由来です。ひのきや杉の巨木に囲まれた境内には、神門や神殿など江戸時代につくられた建物が残り、心を落ち着かせてくれます。
例年7月17・18日には早池峯神社の宵宮祭、例祭が開催され、神楽やシシ踊りなどが奉納されます。上には以前のお祭りの際の投稿を引用させていただきました。また、4月29日に行われる「ざしきわらし祈願祭」は早池峯神社から授与されたざしきわらし人形が里帰りする神事です。こちらは予約制となっていますので事前に早池峯神社ご連絡の上お出かけください。
基本情報
【住所】岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛19-82
【アクセス】遠野駅から車で約30分
【参考URL】https://tonojikan.jp/tourism/hayachine-shrine/