柳田国男「神を助けた話」の風景(その2)

猿丸大夫

今回は「磐次磐三郎(神を助けた話の風景その1・参照)」の父・猿王(または猿丸)と同一人物ともされる「猿丸大夫」のお話です。百人一首の「奥山に紅葉踏分け・・・」の作者として知られていますがその素性は謎に包まれています。神戸の芦屋や京都の土器師の里(幡枝や深草)など、さまざまな場所に伝えられる猿丸大夫の足跡を追っていきましょう。

*こちらの出典は以下となります
『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

芦屋の猿丸伝説

「神戸の隣の蘆屋村の村長は、猿丸又左衛門と謂ふあの辺の名家である。百人一首の猿丸大夫の後裔と伝へられて居る。二百年前に出た攝陽群談と云ふ本にも猿丸大夫の屋敷跡、蘆屋村に在り、俗伝に猿丸は蘆屋の産れと言ひ、其屋敷に住する者、苗字は猿丸某と名乗り、村民之を敬ひ人の上に置くと書いてある。現在では猿丸家四軒に分れ、大夫の古邸の地と云ふのは別に有る。大夫の石塔と云ふのも、古いのと稍新しいのと二つあって、共に苔が生えて居る。」
以下には狩野探幽が描いた猿丸太夫の絵を引用いたしました。「猿丸太夫」は藤原公任の「三十六人撰」に選ばれた「三十六歌仙」の一人ですが、公的史料には登場しません。そのため、その正体については聖徳太子の孫・弓削王や天武天皇の子・弓削皇子、弓削道鏡など、古くからさまざまな説が挙げられてきました。近年(昭和時代)では同じく「三十六歌仙」の一人「柿本人麻呂」と同一人物という新説も現れています(梅原猛氏「水底の歌・柿本人麻呂論」)。

出典:English: Kanō Tan’yū日本語: 狩野探幽, Public domain, via Wikimedia Commons、「猿丸大夫」 狩野探幽筆「三十六歌仙額」より。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanj%C5%ABrokkasen-gaku_-_11_-_Kan%C5%8D_Tan%E2%80%99y%C5%AB_-_Sarumaru_no_Taifu.jpg

「猿丸大夫の名前の古文書の上に残って居るものは、右申す猿丸村長の家に一通あるが是は遥か後の天正十七年の五月、用水争ひの和議の証文であって、蘆屋村年寄六人の連名の中に猿丸大夫と署して書判をして居る。此家代々の主人が昔は此名を用いたと云ふことは分るが、固より奥山に紅葉踏分けの猿丸大夫が、其元祖であったと云ふ証拠では無い。又他に旧記も無かったやうである。摂津志などを見ると、猿丸大夫の屋敷跡と土地で言ふのは、実は在原業平の別荘の跡だとある。業平卿が蘆屋の里に来られたことは、歌が遺っていて先確ではあるが、其住居の場所迄も判然として居ろうとは思はれぬのみならず、今では其様な事も言はぬやうである。」
以下のグーグルマップのように芦屋駅近くには「業平町」という町名が残り、地図上には「在原業平別荘跡」というスポットが記されています。

「土地の人の固く信じて居ることを、彼是と批評して見るのは、どう云ふ物かと私も考へて居る。併しさうで無いにしても、蘆屋の猿丸家は古い家だ。それにあの方面の人たちにも聴かせたい珍しい語があるから、些ばかり話をしやうと思ふ。今から百年餘りも前の事であらうか。蘆屋川の西の岸から、御影石の石塔を一本掘出した。多分今在るものの一つであらう。高さ三尺に幅が二尺ばかり、中央に南無阿弥陀仏とあって、左に猿丸右に大夫と二字づつ彫ってあった。」
下にはその「御影石の石塔」の碑文を引用いたしました。

出典:松平定信 編『集古十種』碑銘之部 下,郁文舎,明36-38. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/849528 (参照 2025-08-25、一部抜粋)、摂津国芦屋村猿丸大夫墓誌(二)/11
https://dl.ndl.go.jp/pid/849528/1/11

「此なども天正年間の証文と共に、曾て此地に同じ名の人が住んで居たことを示すだけで、あの歌人又は其相続人だと云ふ証拠では無い。有名なのは一人であるが、他にも有って差支えの無い名前である。大夫といふ称号は古くから神に仕へる人に、最多く用いられて居る。而も此村には猿丸宮と謂う旧社があって、今でも村長の家と関係が深い。或いは此宮を猿丸大社と名け最初の大夫其人を祀っているやうに云ふのは、簡単な思違であるかも知らぬ。其には弘く同じ名の神社の古伝を尋ねて見ねばならぬが、其前に先京都附近の言伝を知って置く必要がある。」

出典:Saigen Jiro, CC0, via Wikimedia Commons、芦屋神社 伝猿丸太夫墓
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ashiya-jinja,_grave_of_Sarumaru_Dayu-1.jpg

上には芦屋神社の摂社・猿丸神社(上文の猿丸宮や猿丸大社)に祀られている伝猿丸太夫墓の写真を引用いたしました。

猿丸大夫の故郷は京都・幡枝?

「同じ大阪湾の沿岸でも、和泉の堺港には又全く別の話がある。以前堺の壺鹽屋と謂って、紀州の雑賀から鹽を買い入れ、之を土製の壺に入れて焼返し、諸国に販売して居た者が其である。猿丸大夫の末裔なりと称し、而も天文年中に、京都上賀茂の幡枝と云ふ處から、此地へは引越して来たと伝へて居る。此話は少くとも半分だけは本当のやうである。幡枝は岩倉の南、有名な地蔵様の有る美曾呂池の北に当り、今はどうか知らぬが前には村を三つに分けて、其一つの土器村と云ふ区内に住む者、盛に土器を焼いて、禁中を始とし、諸家地下人に至る迄、京では此村の品を用いる者が多かった。」
以下には京都市左京区岩倉幡枝町にある「栗栖野瓦窯跡」の写真を引用いたしました。平安時代、こちらのエリアには大規模な瓦窯が複数あったことが分かっています。

出典:龍岳, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、栗栖野瓦窯跡(2018年2月4日撮影)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%A0%97%E6%A0%96%E9%87%8E%E7%93%A6%E7%AA%AF%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%9B%BD%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%8F%B2%E8%B7%A1%EF%BC%89.jpg

猿丸は深草の土器師?

「處が又他の一方には、猿丸は元は土器師であったと云ふ説もある。京の街を土器を売って行いて居たのを、あまりに歌が上手な為に、終に朝廷に召されて大夫の官に昇った。顔が猿に似て居るので、大内山の猿丸よと仰せられた。元明女帝の時代であったと云ふ。唯少しく違う点は猿丸の在所は幡枝では無くて、京の辰巳の深草村であったと云ふことである。此は同じ深草に久しく住み、且つ始めて大夫の伝を書いた、元政上人と云ふ人もさう言って居る。」
下には江戸時代初期の日蓮宗の僧で瑞光寺を開山した「元政上人」の像を引用いたしました。

出典:Sijoking, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、深草元政 瑞光寺蔵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gensei.jpg

「其為であらうか、此村を一名猿丸里とも謂ひ、やはり爰(ここ)でも瓦や土器を焼く者が多く居住し土地の字を瓦町と称へて居り、其又瓦町の西の田圃の中に、猿丸大夫の墓と云ふ塚が一つある。其だけでも驚くのに、村からは南、藤杜の社の東南一町ばかりに、奈良時代の往還筋で、猿丸が住んで居たと称する奥山と云ふ處もある。多分はあの附近で、鹿が鳴いたと云ふのであらう。歌が名歌と成るには年数が掛るものである。」
以下には深草の土器を路上販売する図を引用いたしました。猿丸大夫もこちらのような姿をしていたでしょうか。

出典:『建保職人歌合』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540832 (参照 2025-08-26、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2540832/1/18

禅定寺附近の猿丸伝説

「後になって何處で詠んだと云ふことは、当人にも容易で無い。然るに今一箇所、どうしても爰(ここ)だと云ふ處が、山城の内に在った。宇治川支流の田原川のずっと上で、田原の禅定寺と云ふ村の山が其である。近江の勢多の奥から、越えて来る山路である。此説の有力なわけは、中世の本に一寸書いてある為で、是も何かの証文の中に、猿丸大夫の墓を以って荘園の境とするやうなことが、あったと云ふ話である。之を見ても此地が山奥であったことは分るが、さて、永く住んだと云ふのは確で無いのに、学者や文人で尋ねて往った人が段々ある。前申す元政坊なども行かれたが、近江の方では旧記に由って曾束村の中だと云ひ、城州の人は此方と信じて居る。双方に猿丸の社と云ふ祠が有るが、峠を隔てて一里あまりも離れて居る。」

出典:写真AC、猿丸神社
https://www.photo-ac.com/main/search?q=%E7%8C%BF%E4%B8%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE

上には猿丸大夫の墓を祀るためにつくられた「猿丸神社」の写真を引用いたしました。お猿さんの石像は昭和時代に猿丸家とその親戚の方たちが奉納されたものだそうです。

「結局は此境の山の名が猿丸と云ふだけで、墓も屋敷跡も此近辺に在った筈と云ふ位のものらしい。とんと大夫の作だと云ふ呼子鳥の歌の如く、覚束ない捜し物であった。」

をちこちのたづきも知らぬ山なかにおぼつかなくも呼子鳥かな
この「呼子鳥の歌」は「奥山に・・・」と同じく、「三十六人撰」では猿丸大夫作となっていますが、「古今和歌集」では「読み人知らず」とされています。

旅行などの情報

芦屋神社

猿丸大夫と関連の深い多い芦屋にある古社で、縁結びや産業繁栄の神・天穂日命(アメノホヒノミコト)などを祭神としています。神社の境内には猿丸太夫の墓と伝わる石塔や祠があり、「猿」を「去る」、「丸」を「ガン」と読み替えることで病気平癒の神としても有名です。

上に引用させていただいたように春と秋には例大祭が行われ、出店や富くじ抽選会などで賑わいます。また、境内の横穴式石室円墳は摂社「水神社」として公開されていますので、こちらもお立ち寄りください。

基本情報

【住所】兵庫県芦屋市東芦屋町20番3号
【アクセス】阪神電車:阪神芦屋駅から車で約15分
【参考URL】https://www.ashiyajinja.or.jp/

猿丸神社

禅定寺峠の近く、「猿丸大夫の墓を以って荘園の境とする」とあるお墓の近くに建立されたとされる神社です。
以下の写真のように紅葉の名所でもあるので、
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」
の世界を味わいに行ってみてはいかがでしょうか。

出典:写真AC、猿丸神社の紅葉
https://www.photo-ac.com/main/detail/3050913&title=%E7%8C%BF%E4%B8%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%B4%85%E8%91%89

また近年では、こちらの神様が瘤(こぶ)やでき物を治すご利益があるとして多くの参拝者が訪れるようになりました。本殿には治癒してもらった方から奉納されたたくさんの瘤付き木枝が保管されています。

基本情報

【住所】京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44
【アクセス】京滋バイパス笠取料金ステーションから車で約12分
【参考URL】https://ujitawara-kyoto.com/sightseeing/shrinestemples/%E7%8C%BF%E4%B8%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E3%81%95%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83%EF%BC%89/