柳田国男「神を助けた話」の風景(阿津賀志山)

阿津賀志山

今回は猿丸大夫の子孫「温橿山式部次郎」(神を助けた話の風景・宇都宮の小野氏・参照)の名前にある「温橿山(阿津賀志山)」と猿丸との関係についてです。柳田国男は阿津賀志山での戦いの時に鎌倉軍・宇都宮朝綱の配下であった芳賀氏に注目しています。神(≒宇都宮二荒山神社または座主の宇都宮氏のこと)を助けて戦いを勝利に導いた芳賀氏は猿丸大夫のモデルだった?
出典:『柳田国男先生著作集』第10冊 (神を助けた話),実業之日本社,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1159949

神話の舞台(厚樫山と小野嶽)

「右の温橿山式部次郎の温橿山は、二種の日光縁起に篤借山又は熱借山とある地名に由ったのであらう。即女体権現の姫神が、孫の猿丸を誘ひに、白い鹿と成って現れたまふと云ふ処である。今の福島県と宮城県との境、奥州線の隧道の近くに在ると云ひ、泰衡征伐の時に、鎌倉軍の戦をした古跡であり、又大昔からの街道筋であった。此山一名を白鹿峰とも謂ふのは、蓋猿麻呂が白い鹿を追うたと云ふ故事に拠ると、其土地の学者も云って居る(一)
(一)信達歌考證。地名辞書に出て居る」

以下には「阿津賀志山古戦場跡」周辺のストリートビューを引用いたしました。こちらで鹿を追っている猿丸の姿をイメージしてみましょう。

「日光の山からは随分と遠いことは、汽車に乗った人にもよく分る。其を不思議に思った為でもあるまいが、或は他の方面に、神話の遺跡を運ばうとした者もある。其が又南会津の小野嶽、即ち力の強い猿丸大夫が、牛を牽いて草を飼った山で、一に足借山と名くと、二百年前の地誌にも記して居る(二)
(二)古い方の会津風土記巻下」

上には厚樫山と小野嶽(岳)、日光(二荒山神社)の位置関係が分かる地図を埋め込みました。
なお、標高1383mの小野岳山頂は長者屋敷のあった場所とされ、敷地内には小野明神社跡が残されています(神を助けた話の風景・会津の猿丸大夫・参照)。
以下に引用させていただいたのは小野岳の写真です。小野嶽伝説の猿丸大夫はこちらのような景色を眺めていたかもしれません。

出典:Qwert1234, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons、: 小野岳 湯野上温泉(福島県南会津郡下郷町)から
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mt._Onodake_0810.JPG

宇都宮氏

「誤にしても何か仔細があらう。全体此地名は、吾妻鏡には阿津賀志山と書き、古いけれどもアイヌ語に相違無い。奥州としては何箇処あっても構はぬやうであるが、此が下野国まで来て、神の社の話と為り、夢に見たか現に託宣したか、思はず知らず奥州と云へば此山の名が出たのは、此辺で有名に為って居た結果かと思ふ。而して阿津賀志で戦をした奥州征伐の頼朝は、行きにも返りにも確に宇都宮に寄って、祈願報賽(きがんほうさい)したのである。故に私は、やっぱり伊達の大木戸に近い、篤借山のことと考えて居る。考へて見れば二荒山の歴史には、余程この戦役が大な影響を与へて居る。鎌倉室町の時代を通じて、宇都宮の城主であった字都宮氏は、秀郷の家などよりは遙に後になって、字都宮石山寺の座主として、京都から来た僧侶の後裔である。宇都宮系図には、八幡太郞の奥州征伐の年に、貞任宗任調伏の為に此国へは下ったと称して居る。」
「貞任宗任調伏の為に此国へは下った」のは宇都宮「宗圓」という人物でした。以下には上文にも記されている由緒書きを含む「宇都宮系図」を引用いたしました。

出典:『宇都宮系図』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540889 (参照 2025-09-05、一部抜粋・結合)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2540889/1/3
https://dl.ndl.go.jp/pid/2540889/1/4

「其初代の座主宗圓の孫に、宇都宮検校朝綱と云ふ者、いち早く頼朝の旗揚に呼応し、京都より潜に脱して鎌倉に伺候した。其功労を以て字都宮の社務職相違なきのみならず、重ねて新恩を加へられたと云ふことである(三)
(三)吾妻鑑、元暦元年五月廿四日の条」

出典:『宇都宮系図』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540889 (参照 2025-09-05、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2540889/1/4

上には同じく「宇都宮系図」から朝綱の部分を抜粋いたします。系図にもあるとおり宇都宮二荒山神社座主だけでなく「日光山別當」も兼ねた鎌倉幕府の有力者でした。
加えて、以下には朝綱の像も引用いたします。1192年、嫡男が夭逝すると出家。1194年には公田横領の罪で土佐国に流罪になりますが、1196年に罪を許されました(ウィキペディア・宇都宮朝綱)。

出典:河野守弘 (越智直) 著『下野国誌』7之巻 仏閣僧坊,待価堂,〔 〕. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763920 (参照 2025-09-06、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/763920/1/23

芳賀氏は猿丸伝説のモデル?

「分家の小野宍戸等の常陸の門閥では、将軍家との因縁の、今一段と深かったことを伝へて居るが、併し之を要するに宮と字都宮氏との関係は新しきもので、確な所は朝綱以後と云って宜しい。然らば此家をして斯迄繁昌せしめた宗教上の財源は、座主宗圓以前には果して誰家に属して居たか。私は之を以て夙(はや)く衰へた鎮守府将軍家の嫡流、後に北方へ移住して無数の佐藤氏を分布した家では無かったかと思ふ。秀郷の子孫にして、最宇都宮に近く住んで居たのは、小山の小山家である。此家も朝政朝光の兄弟、頼朝の恩顧を受けて中興し、其名乗の一字を貰ひ、宇都宮の朝綱とも悪い仲では無かったやうであるが、而も家の紋は、宇都宮が左巴で小山は右巴、姻戚同士の利害争ひも想像せられぬことは無い。」

出典:神奈川県立歴史博物館公式サイト、県指定重要文化財 源頼朝袖判下文 建久3年(1192)9月12日
https://ch.kanagawa-museum.jp/

挙兵時から頼朝に仕えた小山朝政は重用され、晩年には下野守にも任ぜられました。以下には頼朝が発行した下野国地頭職の承認状を引用させていただきます。こちらは頼朝の花押が添えられた貴重な文化財とのことです。

「将門の乱を起した時、源平二家の首領株が、武蔵と常陸に拠って之を防ぎ兼ね、逃げ匿れもしやうと云ふ折柄、下野で押領を平げたと云ふには、個人の武芸や腕力以上に、必何か頼む所があった筈で、私は夫を二荒山神の神威であらうと思って居る。其証拠は十分とは言はぬが、此から挙げて見るつもりである。」

出典:芳年『新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図』,松木平吉,明治35. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1306524 (参照 2025-09-06、一部抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1306524

上に引用したのは蜈蚣(むかで)退治の伝説も持つ藤原秀郷の図です。天慶の乱(平将門の乱)の際、秀郷は宇都宮二荒山神社で授かった霊剣を使って将門を討ったという言い伝えがあります。

「然らば其次には、猿麻呂の実家と言はれた小野と云ふ神主の家は、佐藤家なり小山家なりと、如何なる関係に在ったであらうか。是も六かしい問題ながら、一つ注意して見ねばならぬのは、字都宮家の重臣で、近世まで栄えて居た芳賀郡の芳賀氏である。今有る系図が信じ得るならば、此も頼朝に忠勤を励み、大に取立てられた高俊入道禅香と云ふ人は、やはり字都宮大明神の神職であって、而も後の屋形の宇都宮家よりは由緒が古い。」
関連して、下には宇都宮景綱の家臣であった芳賀高俊が永仁年間(1293~1298年)築いたとされる飛山城跡周辺のストリートビューを引用いたしました。

「所謂紀清両党の旗頭で、紀氏から分れたと謂って居るが、高俊よりは八代の祖で、貫之や友則の叔父に当ると云ふ清主と云う人から、代々字都宮の俗別当であった。俗別当とは勿論僧で無い神主のことであった。紀氏は紀州でも男山でも、神社に仕へた旁例ある上に、此家には有行有任有雅などと、代々有の字を名乗にすること、或は有宇中将と云ふ珍しい人名と、縁が有るやうな感じがする。」

出典:『群書類従』第85-86冊(巻63-64),刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2559094 (参照 2025-09-05、一部抜粋)、紀氏系図
https://dl.ndl.go.jp/pid/2559094/1/27

上には群書類従の紀氏系図を引用いたしました。下野大夫・清主のほか有行・有任・有雅、土佐日記の作者・紀貫之の名前も見えます。「有宇中将」はこちらの系図中のどなたかをモデルとしているのでしょうか。

「日光縁起に所謂小野神が、若果して此推測のやうに、一度清主系統の語部の口を経て来たものならば、佐藤宇都宮二大族の治世を掛けて、猿丸神話の永く伝はったのも不思議は無い。何となれば、右の俗別当の家は、疑も無く或場合に、一方から他へ寝返りを打った有力者である。而して話の中に入用であった奥州の山の名が、佐藤族の最大な一団、信夫庄司の家の衰亡と関係があるのは、偶然かも知れぬが奇縁である。」

「信夫庄司」とは奥州信夫郡を治めた佐藤氏一族のことです。なかでも佐藤基治は藤原秀衡に仕えた有名な武将でしたが、頼朝軍と石那坂(いしなざか)で交戦し破れてしまいます。上には石那坂古戦場付近のストリートビューを引用いたしました。

勢いに乗った頼朝軍はその後、阿津賀志山(あつかしやま)の激戦で勝利を決定的なものとし、宇都宮氏や小山氏が武功を立てていきます。

旅行などの情報

厚樫山(阿津賀志山)

1189年の奥州合戦で最大の戦場となった場所で、3㎞以上に渡って二重の堀と三本の土塁の跡が残っています。標高289.4mの山頂までは車道が通じ、山頂の展望台からは古戦場のほか、阿武隈川や安達太良連峰などの景色を一望できるのも魅力です。

また、周辺には源義経が平泉へ向かうときに休息したという「義経の腰掛松」があります。上に引用したストリートビューのように現在は三代目となっていますが、覆屋の中には初代腰掛松の幹も保管されているので、こちらでの義経と金売吉次の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

基本情報

【住所】福島県伊達郡国見町大字西大枝字原前道下内
【アクセス】東北道国見ICから車で約20分
【参考URL】https://www.town.kunimi.fukushima.jp/site/kanko/1991.html